ヘッドホン

真花

ヘッドホン

 ツツジの匂いのする陽光が斜めに射して、机に就いた僕をくり抜くように影を作っている。教室のあちこちで咲く言葉達の織る花も、その瞬間的な煌めきも、僕のヘッドホンの内側までは届かない。僕の耳は全てはラストラットとそのボーカルのウミさんで染まり続ける。他に必要なものなんてないし、いくら聴いても十分にはならない。目を瞑って楽曲を体に流す。途中からだった「リ・アップル」が終わり、「ルーム」の粘りがありながらもエッジが胸を打つリフが流れ、ウミさんの心臓を掴むような声が始まる――

新島にいじま君」

 流れていた音楽を貫く声量で呼ばれ、目を開ける。藤井ふじいが僕の正面に立っていた。僕は楽曲を止めてヘッドホンを外す。中断された不機嫌を顔に出さないように、不用意な波紋を生まないように、表情を整える。

「何?」

 藤井は友好的な宇宙人のような笑みを浮かべる。

「いや、新島君って、休み時間いつもヘッドホン着けてるから、何聴いてるのかなって思って」

 僕はiPodをギュッと握る。そんなことをしてもラストラットの成分が染み出して来ないことは分かっている。僕は今一人でこのエイリアンに対応しなくてはならない。

「音楽だよ」

 藤井は、そっか、と小さく納得した顔をするが、そこで止まらない。落語や読経を聴いていると言ったら、引き下がったのだろうか。

「誰推しなの?」

「推し?」

 紫色の影が僕の声に乗った。藤井は銅像のように怯まない。

「そうだよ。いるだろ? 推し」

 僕はあぶられるように苛立って、それを隠すより早く言葉を発した。

「推しって言葉って、その対象を好む代わりに金銭を払うニュアンスがあるし、その言葉自体がファッションになっているから、僕は使わない。絶対に使わない」

 声は尻上がりに大きくなり、背の高い藤井を僕の言葉が呑んでいくのが見て取れた。藤井は銅像だったのがネズミになって、エイリアンが逆に侵略されて、早く逃げたそうに重心を移動させている。

「そうなんだ。分かった。じゃあまたな」

 藤井は北風に運ばれるシーツのように机の前を去って、僕はふう、と発生した苛立ちを捨てるように息を吐いてヘッドホンをつける。他の人が軽々しく言う「推し」とラストラットと僕の関係を同じにされたくない。藤井が粘ったとしても絶対に僕が聴いているのがラストラットだとは言わなかった。喧嘩してだって言わない。もし言って、バカにされたら藤井を殺してしまう。俺も好きだと言われたら殴ってしまう。関心を持たれなかったらボコボコにしてしまう。僕は温厚だが、これだけは譲れない。「ルーム」のサビが流れる。僕がラストラットのために何かをすることを歌は肯定も否定もしない。ただ、歌がある。ヤドカリが殻に隠れるようにヘッドホンの間に逃げ込んだままチャイムを待った。

 授業のときは外し、その間ではつけてを繰り返し、放課後までの時間をしのぐ。

 

 学校からの帰り道もヘッドホンは外さない。家に帰れば置く。

 居間のテレビがつけっ放しになっていて、ニュースが流れていた。切り替わった「次の」ニュースに僕は氷漬けになる。

「人気ロックバンド『ラストラット』のボーカル、ウミさんが今日未明、自宅で心肺停止状態で発見されました。病院に搬送され死亡が確認されました。状況から自殺の可能性が高いと捜査関係者への取材で明らかになっています。バンドのメンバーから声明が出されています。『決して後追い自殺などをしないで下さい。ウミはそんなことを望んではいません』とのことです」

 嘘だ。僕はネットニュースを検索する。嘘だ。SNSを漁る。嘘だ。ヘッドホンを手繰り寄せて握り締める。手に入る全ての情報がウミさんの死を示していた。体中から汗がスポンジを搾ったみたいに溢れて出て、手が音が鳴りそうなくらいに震えている。口が渇く。……行こう。一度だけ行ったライヴの会場に行こう。僕とウミさんが一番近かったのはあそこだ。ガタガタ言う膝を叩いて言うことを聞かせて、家を飛び出す。

 神様が死んでしまった。神様が死んでしまった。神様が死んでしまった。頭の中をぐるぐる回る言葉がおかしいことにもう半分の僕は気付いていた。ウミさんは神様ではない。それなのに僕の脳は、神様が死んでしまった、と繰り返す。走って、走って、電車に乗る。

 びしょびしょで息が切れていて、僕は行き先だけを確かめる。四駅だ。たった四駅であのライヴ会場に着くのにあの日以来一度も足を運んでなかった。それは宝物に触れたらそれだけ劣化してしまいそうだったからだ。呼吸は治まるどころか走り続けているみたいに荒くなって行く。吊り革に掴まってなんとか立ち続ける。神様が死んでしまった。違う。ウミさんが死んだ。どうして? 死ぬ理由なんて分からない。だってウミさんのこと、歌っている以外は何も知らない。僕も後追いをすると思われているのだろうか。誰に? ウミさんはそんなこと望んでいないって、どうして分かるんだ?

「大丈夫ですか?」

 振り向くと筋肉の多いスーツの男性だった。大丈夫? 僕はどうなんだ……? 燃え盛る脳がくるくると回る。

「大丈夫じゃないです」

 男性は神妙に頷く。

「じゃあ次の駅で降りて、病院に行きましょう」

「違うんです。そう言うのじゃないんです。声をかけてくれて、ありがとうございます。でも、病気とかじゃないんです。目的地までそんなにないから、そっとしておいて下さい」

 男性はもっと神妙な、ちょっと潰れたような顔をする。僕が連続で吐く息が男性に届いている。

「そうですか。私はそこにいますから、もうダメだと思ったら声をかけて下さい」

「すいません」

 男性は僕から三歩の距離で吊り革に掴まる。僕の上がった息の音が車両中に響いている。だが、これくらいは当然だ。ウミさんが死んだんだ。おかしくなるに決まっている。あと二駅。吊り革が汗でぬめる。僕は呼吸をするだけで精一杯になる。神様が死んでしまった。ウミさんが死んだ。どうして。どうして……

 四駅目、僕は降りる。男性に頭を下げて、会釈を返された。男性は心配する親のような眉をしていた。記憶を頼りにライヴ会場があったところまで行く。夕暮れが近付いて、全てのものの影が濃くなり始めていた。人間がたくさんいて、ライヴ会場のホールの前にごちゃごちゃと並んでいた。今日も誰かがここでライヴをするのだ。ウミさんがいなくても、誰かが。

 ホールの入り口が見渡せる花壇に腰掛ける。あの日、ウミさんの本物を初めて見た。会ったとは言えない。僕はウミさんを知っているが、ウミさんは僕のことを全く知らない。それなのに、僕は一方的に絶対的に愛された。ライヴだけではない、いつものヘッドホンからだってそうだ。

 僕はカバンの中からヘッドホンを出す。息はまだ整わないし、汗もしつこく出て来る。誰かのライヴのこれから観客になる人達は蠢いてまるでひとつの生き物のようだ。僕もあの日、同じだった。目を瞑るとライヴ会場に僕はいて、ラストラットが壇上にいる。ウミさんが歌を歌い、僕がそれを聴く。僕のようなラストラットとの関わり方の人もきっと他にもいて、推しだと言う人もいるだろう。連れて来られただけの人だっているはずだ。ウミさんは等しくやさしかった。……藤井には悪いことをした。僕ももう少しだけやさしくなりたい。

 一曲目が終わり、二曲目が始まる。僕は目を瞑ったまま胸の中で一緒に歌う。曲が終わると、ウミさんがステージから降りて来て僕の前に立った。周囲の影が消えるように観客はいなくなり、僕とウミさんだけが世界に屹立していた。僕は震えて、それでもウミさんをじっと見る。ウミさんは常に勝者であるような笑みを浮かべる。それは僕にも同じ表情を求めている笑みだった。僕は最初弱々しく、それから強く、まるでウミさんになったみたいな顔をした。ウミさんは頷いて、ありがとう、と言った――

 僕は目を開ける。ライヴの客はもうホールに入った後で、僕はさっきまでと同じように一人、この場所にいた。

 ウミさん。あなたに愛されて僕は今日も生きている。あなたは去って、僕は残って、僕にとってウミさんの次なんてないから、ずっと今日までのウミさんと一緒にいる。後追いなんてしない。もしする人がいたら、その人は僕と同じくらいウミさんを大事に想っていたのかも知れないけど、ウミさんとウミさんの歌のことを何も理解していない。ウミさんが他の人の死を願うことなんてあり得ない。もしそうなら僕はとっくに死んでいるはずだ。

 呼吸が徐々に楽になり、微細な震えを残して落ち着く。汗が干潮のように引いていく。

 街が夜になって、ホールでは誰かのライヴが始まった。ホールからの光が僕を照らして影を作る。今までで一番濃い影だ。

 僕はヘッドホンをつける。

 音楽が流れる。

 あなたのいないこの世界を生きることが、僕に出来るただ一つのことだ。


(了)

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