桜狂い

真白透夜@山羊座文学

愛の渇き

 岩手の春は遅い。四月も下旬となり、桜はようやく満開を迎えた。

 宮島は今年、理工学部に入学した。大学は実家から二十分のところにあり、友人の顔ぶれも変わらず新鮮さはない。

 誰からともなく花見をしようと声があがり、高松の池を訪れた。高松の池は盛岡の桜の名所で、一周するのに二十分はかかる大きな池だ。遠くに見える岩手山がまた絶景だった。盛岡さくらまつりも行われていて、屋台で買ったものをつまみながらぶらぶらと歩く。

 ふいに箏の音色が聞こえ、宮島は足を止めた。優雅な響きから曲調は徐々に激しくなっていく。咲き誇る桜、水面のきらめき、雄大な岩手山。それらを彩りながらも儚く消える筝の音色は、宮島の全身に沁み込んでいくようだった。

 友人に呼ばれハッとした。いつの間にか箏の音もやんでいた。狐につままれたような気持ちで、宮島はその場から離れた。



 五月になり、宮島は知人からの紹介で邦楽演奏会の裏方のバイトをしていた。舞台袖で待機していると、あのさくらまつりで聞いた曲が聞こえてきた。宮島は慌てて客席に回り、舞台を見た。

 花菱咲耶の筝独奏。スポットライトの中、彼の指先が箏の上を軽やかに舞う。重い嘆きから妖艶な余韻までもが自由自在だった。顎まで伸びた髪はわずかに揺れ、研ぎ澄まされた表情はむしろ静けさを湛えている。彼の音はホールを支配し、聴衆は飲み込まれていた。

 最後の一音が消え、拍手喝采が起こる。宮島は、舞台から戻ってきた彼の元へ急いで駆け寄り絶賛した。

「ほんと? そう言ってくれると嬉しいね」

 彼は舞台上とは打って変わって、気さくな笑顔を見せた。さくらまつりで聞いた演奏について尋ねると、それはやはり咲耶の練習の音色だという。

「俺は音楽のことは無知ですが、咲耶さんの演奏ならすぐわかりますよ」

 宮島の言葉を聞いて、咲耶はぱっと顔を赤らめた。

「僕の演奏なんてまだまだだよ。音楽大学の学生はもっと上手いから。……ねえ、よかったら連絡先交換しない? 僕、男友達いないんだ。ずっと箏の世界にいるから」

 宮島は二つ返事でスマホを取り出した。すると、咲耶は紙に書いた電話番号を差し出してきた。スマホを持っていないという。

「ほら、友達がいないから」

 と咲耶は言って、美しく整えられた眉をハの字に下げて笑った。



 こうして咲耶との日々が始まった。咲耶は二十四歳で、筝曲家として活動していた。母は箏と三味線の教室を開いていて、咲耶もいずれ家業を継ぐという。

 ある日、宮島が咲耶の部屋に遊びに来ていると、机の上に手紙が置いてあった。差出人は藤木耀。ほのかに手紙から甘い香りがした。宮島は藤木について尋ねた。

「大学の同級生だよ。家が代々音楽家なの。今度の京都の演奏会で二重奏をやるんだ。僕が自信を無くしてた時に、彼が励ましてくれてね。すごく助けられたんだ」

 咲耶ほどの腕前で、なぜ自信を無くすのか不思議だった。宮島は咲耶の演奏にすっかりはまってしまい、自分のために演奏をしてほしいと頼むようにもなった。根っから筝を弾くのが好きな咲耶は、毎回快く引き受けた。咲耶の小さな部屋いっぱいに筝の音が満ちる。音色は宮島を酔わせ、虜にした。宮島にとって咲耶は天才だった。

 一方で咲耶は相当な世間知らずでもあり、スマホを持ち始めると、子どものように面白がった。咲耶の驚きや感動は、宮島の日常を鮮やかにしていった。



 二年目のさくらまつりは二人で歩いた。咲耶が「『さくらさくら』をうたってみて」と言ったので、宮島は言われた通りにうたった。

「『ら』の時の音、宮島君のだとちょっと高いんだよね」

 と、咲耶は正しい音程でうたってみせた。

「少し暗く聞こえたでしょ。微妙な音程の合間。僕は邦楽のそういうところが好きなんだよね」

 サッと風が吹いて、花吹雪が起こった。咲耶が髪を押さえる。小柄で細身なその身体は、散りゆく桜に揉まれて一緒に消えてしまいそうに見えた。

 咲耶が、京都の演奏会に一緒に行こうよと言った。宮島は、うん、と返事をし、咲耶と京都の街並みは、さぞ似合うだろうと思った。


 京都の演奏会当日――。宮島は客席で舞台を見ていた。二人の番となり、幕が上がる。礼の状態から、顔が上げられた。藤木耀は凛々しく、品のある佇まいで、咲耶はひときわ清楚に見えた。演奏は、まさに完璧だった。藤木の風のような伸びやかな響きと、咲耶の精密な音が描く風景。絶妙な掛け合いは会話を思わせ、雪崩れるような曲調の変化にも二人の呼吸はぴったりだった。そして、そこには宮島の知らない咲耶の顔があった。穏やかで、楽しんでいた。この演奏は聴衆のためではない。咲耶はただ、舞台上で藤木とうたっているだけなのだ。宮島はそう思わざるを得なかった。


 演奏会が終わった。咲耶は親睦会に向かい、宮島は宿泊先のホテルへ行った。

 深夜、予定よりだいぶ遅く帰ってきた咲耶を、宮島は寝ずに出迎えた。咲耶から藤木の手紙と同じ香りがして、思わず訊いた。

「藤木さんと付き合ってるんですね?」

 そう言われて、咲耶は驚いた表情をしたが、すぐにいつもの無垢な顔に戻った。

「付き合ってなんかないよ。藤木はもうすぐ結婚するんだから」

 今度は宮島が言葉を失った。

「……大学時代はちゃんと付き合ってたの。でも、彼は家柄上、結婚が必要と考えていたから、彼女が出来たらおしまいって約束だった。あの手紙はね、そのお知らせだったの。今日は、本当の僕たちの最後の日だよ」

 咲耶はハッと息を吐いて軽く鼻をすすった。

「卒業するとき、一緒に京都で活動しないかって誘われたんだ。楽しそうだなって思ったよ。でもね、僕なんかより藤木の相手に良い人はいっぱいいると思ったんだ。演奏も、恋愛も」

 咲耶には思い切って自分の夢を追ってほしい、と言おうとしたが、恋人のいない京都にはもう意味がないのかもしれない。そう思い、口をつぐんだ。疲れたからもう寝るよ、と咲耶は背を向け、宮島も、おやすみとだけ言ってベットに潜り込んだ。


 後日――宮島は咲耶に告白をした。咲耶の恋は終わったはずなのに、咲耶の中にずっと藤木がいるのがわかるからだ。今の咲耶の音色には迫力も甘美もない。あの二人だけの小さな演奏会が、途端につまらないものになったことが我慢ならなかった。

 「友達のままでいたい」と返事が来た。その後は、どんな連絡をしてもそっけない返事ばかりで、会うことはかなわなくなった。

 


 宮島は三年生になり、その年の高松の池には一人で行った。桜は今年も律儀に咲いていたが、筝の音は聞こえなかった。あの二年間は夢だったのかもしれない。そう思った方がむしろ楽ですらあった。

 だが、四年生になり、宮島は咲耶に会いたいとメッセージを送った。県外の企業に就職する予定で、この桜並木を見るのもこれで最後になりそうだったからだ。咲耶は了承し、待ち合わせの場所に来た。お互い、ぎこちなく挨拶をして、池の周りを歩き始めた。

「藤木さんのことは、吹っ切れたんですか?」

「どうかな。でもいつかは忘れるよ。考えたって、しょうがないことだし」

 咲耶は笑って言った。

「……あれからも、宮島君のことは考えてた」

 宮島も、咲耶のことを考えない日は無かった。

「でも、やっぱり友達でいてほしいって思っちゃって……」

 踏みしめた砂利の音が、頭に響いた。

「……俺も、『友達として』また咲耶さんと過ごせたらいいと思うんですが」

 会えない日々をもう一年繰り返すなんて耐えられなかった。

「……ありがとう。僕のわがままをきいてくれて」

 無数の桜の枝が陰を作り、咲耶をまばゆい陽の光から隠すように覆った。



 秋になり、宮島は咲耶の部屋の窓から高松の池を眺めていた。

「大手に受かってて、なんで辞退したの? もったいない」

 咲耶が調絃をしながら言った。それは咲耶も同じだろう。俺は、咲耶のいる地元を大切にしようと思った。それでいいじゃないか。

「俺には、桜の潔さはなかったみたい」

 小声で呟いたので、調絃に集中していた咲耶の耳には届かなかった。


 咲耶が練習を始めた。老年の男が足を止めて耳を澄まし、若い女の子たちが素敵だねと話し、子ども連れの母親が「これがおことだよ」と教えている。そう、これが俺の愛する咲耶の音色。咲耶の一生。美しいに決まっている。

咲耶は覚悟を決めたのだ。故郷のために奏で続けようと。毎日の練習、毎年の演奏会、咲耶の変わらぬ笑顔、真剣な表情……。永遠だ。永遠に咲耶の筝は鳴り続ける。そして、俺との関係も。俺のための演奏、俺と歩く桜並木。藤木はいない、京都は遠い。もう、咲耶を惑わせるものはない――。


 咲耶はあの時と同じように穏やかな表情を浮かべていたが、音色に聞き入っていた宮島はそれに気付かなかった。

 筝の音色は天高く舞い上がり、秋空を震わせていた。



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