悪夢の話

冷田かるぼ

もう触れないで


 だれかに愛されることに、異常な執着がある。

 正直、自覚はあった。自分は失恋したことがないってこと。たくさん、人を好きになってきたことも。


 私のことを好きになった全ての人に私のことを忘れてほしくなくて、夢に見るほど恋しく思っていてほしかった。

 いつまでもいつまでも想い続けて、来世も再来世でも私に恋する事を選んでほしかった。でも自分にそれだけの価値があるなんて到底思えないから、そんなこと一度も誰にも言えなかったけれど。

 ただ心の奥にいつも虚無だけが生きているような気がする。


 そんな思考を拗らせた真夜中に、私は夢を見た。


 私はシャワーを浴びていた。浴室全体が湯気に包まれていたから、多分、季節は冬なのだと思う。だけれど私は空気の温度どころか、シャワーの水からも温度を感じられなかった。

 ただ浴びている。液体を。それだけの認識だった。

 しばらく何も考えずそれを続けていた。身体に伝う水をぼうっと受け入れて、そしてふとシャワーを置いて。

 目の前にある鏡の曇りを、手のひらで拭った時。

 映る私の後ろにだれかがいた。


 いや、正確に言えばだれかは分かっている。知っている。だけれど、今となっては声も顔も、名前すらもうまく思い出せないような人だ。それでも確かに過去の私が愛していて、愛されていた記憶だけが残っている。

 彼が私を見ていた。うすく雲った鏡越しにはっきりと、私の目を見ていた。

「あ」

 情けない声が浴室に反響する。背後の明らかな存在にもそれは届いて、その身体の輪郭を嫌という程分からされる。

 静かな恐れ。

 振り向くこともできないまま、身体の芯から固められたみたいにその場に直立していた。

「ーーーーーーー?」

 なにか、声が聞こえる。鏡に映る顔が口をぱくぱくしている。もやのかかったその音は耳障りでしかない。なにか恐かった。

 必死に目を逸らす。彼を視界に映さないように。それでも彼の存在だけがその場には確かで、逃げられない。彼は私にじりじりと迫る。私は動けないままそこに立っている。熱が伝わってくるほどに近く、彼の身体があって。

「好きだよ」

 ぐちゃぐちゃした囁き。彼の手がこちらに伸ばされる。

 嫌だ、やめて、触らないで。彼の手が私の腰に触れる。体温が移って、いや、気持ち悪い。お願いだからやめてほしいのに、身体が動かない。

 そのまま抱きつかれる。全てが触れる。触れられたくないところまで、触れたくないところまで、肌と肌とが触れて、痛いくらいに彼を思い出す。

「ねえ」

 甘ったるい声が耳の奥にじりじりと響く。答えない。答えられない。ごめんなさい、と口走った。

 思い切り肩を掴まれ、向き合わされる。目の前におぼろげな顔が浮かんでいた。歪んだ笑みはこちらを見ながら、顔を寄せてきた。

 口付け。

 こんなに嫌な味の口付けを、私は知らなかった。

 知りたくもなかった。

 口付けって、いつも甘くて、愛しくて、いつまでだって、何度だってしたいようなものであってほしかった。

 壊されてしまった。もう愛せない人に。

「大人しくしてて」

 強く押さえつけられて身動きが取れない。ごめんなさい、ごめんなさいの口の中で必死に繰り返す。頭の中が謝罪でいっぱいになっていく。

「――ちゃん」

 やけにノイズが走った声。それが本当に私の名前なのか分からないほどだった。かつては愛しかったのかもしれないそれはもう、不快感の塊でしかない。

 何度も何度も繰り返し囁かれる愛の言葉と、私の脳内を埋めつくしていく謝罪。彼の顔がもう一度近付いて、また気持ちの悪い熱が私に襲いかかる。


 その後は、意識が、だんだんと歪んで――――


 目が開いた。ぼんやりと淡い陽の光がカーテン越しに私を瞳の奥まで刺して、脳を壊してしまうみたいだ。

 目尻に滲んだ涙だけが私のことを分かってくれている。ああ、気持ち悪かった。好きだったはずなのに、どうして今はこんな気持ちになるんだろう。


 愛されたいからって、ああしてほしいんじゃない。違う。全部違う。夢の中でも君になんか触れられたくなくて、ああ、ごめんなさい、やめて、やめてください。

 ごめんなさい。忘れないでほしい、なんて思わなければよかった。そんな醜い執着を持つから、こんな気持ちになってしまうのだろう。

 濡れた枕を人差し指で撫でた。枕元の時計によると時刻は既に午前十時。起きなきゃなと分かっているのに身体が起き上がらない。

 全て消し去りたかった。汚れたままの身体じゃ、頭じゃ、今日を過ごせない。

 

 涙を拭いながら枕元のスマホに手を伸ばす。あの夢になんの意味があるのか調べてみることにした。元彼、と検索欄に入れただけでひどく苦しい。

 欲求不満だと謳う広告だらけのサイトを眺めながら、私はまた泣いた。

 そんなわけないだろ、馬鹿。なんて言えなくて。言いきれなくて。そうなんだろうか。自覚なんかない。だけどだからといって、どうしてこんな気持ち悪い夢を見なきゃいけないの?

 嗚咽を抑えながらスマホを枕元に戻す。


 どうか、忘れられますように。どれだけあの人が愛しかったかなんて、今となっては何一つ分からない。薄れた過去すらもそう願いながら、私はまた瞼を閉じた。

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悪夢の話 冷田かるぼ @meimumei

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