運命の人になれなくても

鈴谷なつ

海斗くんと私

 一生忘れられない恋だった。運命の恋だと、信じていた。

 六年前に別れた元彼から、メッセージが届いた。メッセージアプリの一番上に彼の名前があるのはとても新鮮だった。私から彼にメッセージを送ることはある。ときどき、ほんのたまに。

 たとえば彼の誕生日。六年も前に別れているのに情けない話だけど、私は今も彼の誕生日を覚えている。その日が近くなるとそわそわしてしまう。

 今年はメッセージを送らない方がいいかな、でも送りたいな。そんな風に悩んで、結局送ってしまう。

 お誕生日おめでとう! シンプルなメッセージに、毎年返ってくるのはありがとうのスタンプだけ。既読無視されないだけマシだ。

 でも私は毎年期待してしまう。今年こそは、彼が気まぐれにメッセージを返してくれるかもしれない。そこからちょっと話が広がって、もう一度仲良くなれるかも。そんな淡い期待を、彼はたった一つのスタンプで打ち砕く。


 彼の名前は氷室海斗。海斗くん、と私は呼んでいる。ドキドキしながら海斗くんからのメッセージを開く。

『酔ってる〜』

 短いメッセージだった。日頃からやりとりをしているような、どこか日常的な言葉。

 もしかして、彼女に送ろうとして間違えた?

 そんな可能性が私の頭をよぎり、泣きたくなった。


 海斗くんには彼女がいる。六年前、私と別れた後に付き合い始めた女の子。名前は芽夢ちゃん。

 私は芽夢ちゃんに会ったことがない。でも、彼や友人のSNSをきっかけに、芽夢ちゃんの存在を知り、こっそりフォローしている。芽夢ちゃんはかわいくて、フォロワーも多いから、きっと私の存在には気づいていないと思う。

 芽夢ちゃんのSNSに、海斗くんの存在が垣間見えると、私は泣きそうになる。落ち込んで、海斗くんが今も元気に過ごしているならそれでいいじゃん、と自分に言い聞かせる。

 元彼の彼女のSNSを覗き見しているなんて、ストーカーみたい。それに、そんな風に海斗くんの存在を意識し続けているから、今でも私はあの恋を忘れられないんだ。分かっているのにやめられない。私はどうしようもなく情けなくて、かっこ悪い。


 返事にしばらく悩んでいると、海斗くんから追加でメッセージがきた。

『既読無視すんなよー』

『電話したい』

 ドキッと心臓が大きく高鳴った。私はやけに速い心音を聞きながら、いいよ、と返した。

 どうせ電話はこない。芽夢ちゃんにかけるんでしょ、分かってるもん。

 私もお酒を飲もうと思い、冷蔵庫を開ける。最近二十歳になったばかり、一人暮らし、彼氏なしの女子の家とは思えない数のお酒が、冷蔵庫に詰め込まれている。いつでも飲めるように買いだめしているのだ。

 私がぶどうのチューハイを開けると、スマートフォンが震え始めた。電話だった。震える指で通話の文字をタップすると、海斗くんの声が響いた。

『よー、久しぶり』

 昔よりも低くなった彼の声が、私の鼓膜をくすぐる。たったそれだけのことなのに、目の前が涙でにじんでしまいそうになった。慌ててチューハイを喉に流し込んで、私は応える。

「久しぶりだねぇ。どうしたの、急に」

『んー? 別に。声、聞きたくなっただけ』

 胸の奥がキュンとする。

 ずるいじゃん、そんなこと言うの。六年も付き合ってる彼女がいるのに。私のことなんて、ちっとも興味がないくせに。

 バカな私はそれでも嬉しくて、「相変わらず女たらしだ〜」とふざけた口調で返す。海斗くんは『女の子大好きだからなぁ』と答えたけれど、私は知ってる。

 女の子に優しくて、よく勘違いさせてしまう海斗くんだけど、浮気はしない。芽夢ちゃんに対して、ずっと一途でいる。そのことを、私は誰よりも知ってる。

「彼女さんがいるのに電話とかしていいの?」

 もしかしてフラれたのかな。そんな最低な期待をした私に、海斗くんはあっさりとした口調で答えた。

『俺の彼女はこれくらいで怒ったりしません〜』

「わー! むかつく! 惚気だ!」

『芽夢ちゃんは世界一かわいいんです〜』

「ここぞとばかりに惚気てくるじゃん! なんなの!」

 二人の関係は変わらず続いているらしい。きっといつか結婚するんだろう。

 仕方がない。私にとって海斗くんは運命の人だったけれど、海斗くんの運命の人は、芽夢ちゃんだったのだから。

『なー。彼氏できた?』

「できたよ。写真送ってあげる」

 私は冷蔵庫のお酒の写真を撮って、海斗くんに送る。けらけらと笑い声を上げて、酒豪の彼氏!? と海斗くんが言うから、「お酒が彼氏なんですぅ」と返してやった。

 海斗くんとは中学生のときに付き合って、フラれた。でもそれ以降、私は海斗くんへの気持ちを誰にも話していない。もちろん、海斗くんも知らない。海斗くんには芽夢ちゃんがいるから、伝えるつもりもなかった。

 今は彼氏いないんだな、と海斗くんが何気なく言う。本当は海斗くんと別れてから、誰とも付き合ってないけれど。そんなことを言えば、私の重たすぎる気持ちがバレてしまうから言えない。

『今日さぁ、芽夢ちゃんがオールで女子会するって出かけてるから暇なんだよ〜』

「なるほど? 私の出番じゃん。飲み比べしようよ、電話越しだけど!」

『やだよー、咲子強そうじゃん!』

 咲子、と名前を呼ばれて、胸の奥がキュンと鳴いた。彼女のことは今でもちゃん付けしているのに、私のことは呼び捨てのままなんだ? それって何か意味があったりする? 私の方が気安く喋れるとか。

 数年ろくに連絡も取っていなかったのに、バカな私は呼び方一つで期待してしまう。でも同時に、私は気づいている。海斗くんは芽夢ちゃんが出かけてる、と言ったこと。

 それってつまり、一緒に住んでいるか、どちらかの家に普段から入り浸っているってことでしょ。

 しんどくなった気持ちを誤魔化すように、私は無理矢理話を変えた。

「お酒はいいよぉ。現実逃避できるし」

『あー分かる。俺もそれで飲んでるところあるわ』

「海斗くんなにか悩みでもあるの? 咲ちゃんが聞いてあげよう」

 ふざけた口調で私が問いかけると、電話口が突然静かになった。踏み込みすぎてしまったかもしれない。私が再び口を開こうとしたときだった。

『………………マジで聞いてくれない?』

 海斗くんが、ひどく気落ちした声で言った。助けを求めるその声に、私は間髪入れずに答える。

「いいよ、なんでも話して。誰にも言わないから大丈夫」

 私の後押しする言葉を聞いて、海斗くんは項垂れるような声で語り出した。



 芽夢ちゃんは、浮気をしている。正確に言えば、浮気ではないらしい。最初から海斗くんは本命じゃなかった。

「…………まって、まってまって。何年付き合ってるの?」

『六年』

「六年も付き合ってて、ずっと他に男がいるの!?」

『そういうこと〜。いつかちゃんと俺のことだけ見てくれるだろ、って思ってたんだけどさ。さすがにしんどくなってきた』

 なんだそれ。私は怒りたくなるのを必死で我慢して、震える声で訊ねた。

「……海斗くん、最初から知ってたの?」

 芽夢ちゃんに、本命がいること。他に付き合っている人がいることを。知っていたのだとしたら、海斗くんも悪い。

 でも海斗くんは否定した。最初は知らなかったのだ、と。

 疑い始めたのは四年前。やたらと女子会に出かける、とか。男物の香水の匂いがする、とか。あげた覚えのない少し高めのアクセサリー。バイトの後に知らないシャンプーの香りがしたこと。全てが嘘だと思いたかった、と海斗くんは呟いた。

『一回、問い詰めたんだよね。そしたらあっさり白状して。俺と付き合う前から、付き合ったり別れたりを繰り返してる相手がいる、って』

 そんなのはあまりにひどすぎる。海斗くんは都合のいい男なんかじゃないのに。

 悔しくて涙が出そうになって、チューハイと一緒に飲み込んだ。

「…………別れようって思わなかったの?」

 少しだけ声が震えてしまったのは、『それ』を選んで欲しいと思ってしまっているからだ。

 私なら、浮気なんてしない。海斗くんだけをずっと好きでいる。こんな風に海斗くんに悲しそうな声を出させたりしないのに。

 でも、私だから、海斗くんは選んでくれない。

 悲しい現実から逃げるために、二本目のチューハイを開けた。

『そいつとは別れるって約束してくれたからさぁ……。信じたいって、思うじゃん。俺、芽夢ちゃんのこと好きだし』

 こんなに誰かを好きになったの、初めてなんだよ。

 続いた言葉が私を傷つけていることに、海斗くんは気づかない。

「今日の女子会も浮気ってこと?」

『ん。そういうこと〜』

「止めないの?」

『止めようって何回も思ったけどさ。次問い詰めたら、じゃあ別れるって言われそうでこわくて』

 情けねえよなぁ、と海斗くんは言うけれど、きっと私が海斗くんの立場でも言えないと思う。

 自分が本命じゃなくて二番目だと分かっているなら、なおさら。

 チューハイをぐいっと飲んで、心の中で芽夢ちゃんに文句を言う。

 芽夢ちゃんは海斗くんの運命の人なんでしょ? だったらちゃんと海斗くんのことを大事にしてよ。大事にできないなら、手放して。浮気なんかで海斗くんを傷つけないでよ。


『咲子は浮気されたことある?』

「ないよ。他に好きな人ができたってフラれたことはあるけど、二股じゃなかったし」

『へぇ。良心的な彼氏だ』

 あなたのことですよ、とは言ってあげない。海斗くんは気づかずに話を続ける。

『…………正直に言っていい?』

「んー、いいよ」

『芽夢ちゃんが今他の男に抱かれてるって思うと吐き気がする』

 浮気をされているというのに、海斗くんは一途だ。

 そんなところも好きだけど、私は海斗くんがしんどい思いをしているのは耐えられなかった。

「それならさ、しちゃおうよ、海斗くんも私と」

『なにを?』

「ワンナイト」

 電話口で、すごい音がした。たぶん、口に含んでいたお酒をぶちまけた音だと思う。

 それからゲホゲホと呼吸ができているのか心配なくらい咳き込むから、私は大丈夫? と訊ねた。

『びっくりしたぁ! 冗談やめろよ!』

「冗談じゃないよ?」

 私の言葉に、今度はごくん、と唾を飲み込むような音がした。



 お酒を飲んでしまったから、タクシーで移動した。窓の外は真っ暗。運転手さんはとても静かな人で、私の心臓の音だけがばくばくと鳴り響いていた。

 どことは言わないけれど、現地集合はさすがにアレだし、一軒飲みに行こうよ。

 私のそんな言葉に、海斗くんは躊躇いがちに頷いた。

 彼女持ちで一途な海斗くんも、今日ばかりは彼女以外の女の子と飲みに行く気になったらしい。私としてはありがたい話だ。

 個室のある居酒屋に着くと、海斗くんはもう来ていた。久しぶりに会った海斗くんは、髪が茶色くなっていて、顔立ちも少し大人になった気がする。

 私もメイクをしてきたけれど、酔っているし慌てていたから、いつもよりちょっと雑な仕上がり。

 でも海斗くんは、「おお、メイクしてる。かわいいじゃん」と褒めてくれた。

 もう夜も更けているから、お酒もご飯もほどほどに。大学の話や、共通の友だちの話をしながらも、頭の中はこの後のことでいっぱいだ。

 せっかく海斗くんが目の前にいるのに。緊張してうまく話せないのは、きっと自分のせい。電話で口にした言葉が、私の頭の中をぐるぐると回っている。

 しちゃおうよ、海斗くんも私と。ワンナイト。

 そんなことを言ったけれど、私は海斗くんと中学のときに付き合って以来、彼氏がいなかった。何がとは言わないけれど、初めてなわけで。緊張しないはずがない。だけど、ワンナイトの相手が未経験なのは重すぎるから、バレてはいけない。

「海斗くんは、浮気しようと思ったことないの?」

「ねえなぁ。芽夢ちゃん一筋だし」

「愛されてるねぇ、芽夢ちゃん」

「現在進行形でたぶん男に抱かれてるけどな〜」

 自虐的に笑いながら、海斗くんがビールのジョッキを片手に俯く。なんて言葉をかけたらいいのか分からずに私が迷っていると、海斗くんが私の名前を呼んだ。

「…………咲子」

「んー?」

「本当にいいの」

 言外に含まれた意味を読み取れないほど、鈍くはない。いいよぉ、と何でもないふりをして答えると、海斗くんはジョッキに残ったビールを一気に飲み干した。

「すみません、お会計お願いします」

「あ、割り勘にしよ」

「ダメ、払わせて」

 私がお財布を出したのを見て、海斗くんの手が遮るように目の前にかざされる。その手が記憶の中のそれよりも大きくて、胸の奥がキュンと鳴いた。

「じゃあ…………ごちそうさまです」

「次飲みに来たときは咲子の奢りな〜」

「よし! 高級フレンチに連れて行ってあげよう」

 どうせ『次』なんてない。分かっているけれど、海斗くんが私との未来を語ってくれるのが、どうしようもなく嬉しい。

 泣きそうになるのを誤魔化して軽口を叩けば、咲子ならやりかねない、と笑われてしまった。



 夜の街を、人目を避けて歩いた。彼氏と彼女の距離より少し遠い、友だちの距離感で、並んで歩く。何か喋らなきゃと思うのに、海斗くんも黙っていて、とても気まずい。

 ホテルのネオンで照らされた横顔を盗み見ると、海斗くんは見たことのないくらい厳しい顔をしていた。

 怒っている。緊張している。後悔している。さて、どれだろう。

 海斗くんの感情を読み取ろうとするけれど、私には難しい。

 いくつか並んでいるホテルの中で、海斗くんはお城みたいな外観のホテルを選んだ。ここでいい? と訊かれて、頷いた瞬間に、実感が湧いてきた。

 初めて入ったラブホテル。部屋の中はピカピカに掃除されていて、ベッドメイクも完璧。家具や照明も洋風のおしゃれな家、という印象だ。

 それでも私の心臓はうるさくて、鳴り止まない。いや、心臓に止まられても困るけれど、さすがに大音量すぎる。

 海斗くんに聞こえてしまうのではないかと不安に思っていると、しっかりと目が合ってしまう。

 まだどこか迷っているような。それでいてしっかり心を決めたような。少し色素の薄い瞳が、私をじっと見つめている。

「…………シャワー、どうする」

「あ、浴びる……!」

「んじゃ先どうぞ」

 海斗くんの口からシャワーなんて言葉が出たものだから、いよいよ私の心臓は口から飛び出そうになってしまって。

 それでも緊張を悟られないように、平静を装ってシャワールームに入った。

 これでもか、というくらい念入りに身体を洗い、ムダ毛がないのを確認して、もう一度身体を洗う。顔とスタイルはもうどうしようもないけれど、せめて清潔感だけは。

 しっかり身を清めて、下着とバスローブを身にまとい、震える足でベッドルームに戻った。

「お待たせしました…………」

「…………っ、俺も、シャワー浴びてくる」

 一瞬、海斗くんが息を飲んだ気がした。

 もしかしたら、海斗くんもようやく実感が湧いたのかもしれない。芽夢ちゃんのことを裏切って、他の女を抱く、という実感が。


 ベッドの中で待つのはさすがに無理だった。これからする行為を、意識してしまうから。

 でもどうやって待っていればいいのか分からなくて、ソファとベッドの間をうろうろしていた。

「あれ、なんで立ってんの」

 しばらくして髪を濡らした海斗くんがお風呂から出てきて、私は息を飲んだ。バスローブ姿で、髪が濡れているというだけですごく色っぽい。

 ドキドキとうるさい心臓の音をかき消すように、私は海斗くんの問いに答える。

「な、なんか落ち着かなくて!」

「それなー。俺も、今超そわそわしてるもん。何なら緊張してる」

「えっ、海斗くんも?」

 そう言ったことで、自分が緊張していることを告白してしまったのだから、やっぱり私はバカだ。海斗くんは私の大好きな笑顔を浮かべて、「咲子は変わらないな〜」と言った。

 その言葉が褒めているのか、それとも貶されているのか分からない。

 不安になって海斗くんをじっと見つめると、手を差し出される。

 おいで、という短い一言が、私の胸をきゅうと締め付けた。ドキドキしながら海斗くんに近寄り、その手にそっと私の手を重ねる。男の人の手だ、なんて考えていると、ぎゅっと手を握られて、ベッドに導かれた。


 とすん、と背中がベッドに倒れこんだけれど、スプリングのおかげで痛くはない。どちらかと言うと心臓の方が痛い。

 私に覆い被さる海斗くんの表情が、すごく真剣で。でもきれいな目は少し揺れている気がした。

「本当にいいの?」

 居酒屋で海斗くんが私に聞いた言葉を、今度は私が彼に投げかける。その瞬間、海斗くんの表情に迷いが浮かんだ。

 何も言われなくても、わずかな表情の変化で悟ってしまう。だって私、海斗くんのことが好きだから。

 海斗くんの喉仏が上下に動く。私の問いに答えないまま、キスをしようとする海斗くん。

 二人の顔が近づいて、唇が重なるその前に、私は自分の手を間に滑り込ませた。

「…………咲子?」

「やめよっか!」

 私は無理に明るい声を出して、海斗くんの胸を押し返す。

 覆い被さっていた海斗くんが、戸惑った顔でベッドに座り込むのを見て、私も身体を起こした。

「私が好きな海斗くんは、好きな人に一途でまっすぐで優しくて、浮気なんてしないんだよ」

 たとえ彼女が浮気をしていても。海斗くんは、腹いせに浮気をしようだなんて考えない人だ。

 そんな一途な海斗くんだから、この気持ちは叶わない、と私は諦めるしかなかったんだ。

 そんなまっすぐな海斗くんだから、私はこの気持ちをずっと捨てられないんだ。

「…………今の言い方だと、私がまだ海斗くんのことを好きみたいだね」

 誤解ではないけれど、この気持ちがバレてしまっては困るので、私はさっきの言葉を訂正する。

「私の好きだった海斗くんは、浮気なんて絶対にしないよ」

 芽夢ちゃんも、そういう海斗くんが好きなのかも。

 私の言葉に、海斗くんが泣きそうな顔をした。

「浮気してても海斗くんと付き合ってるのは、芽夢ちゃんなりに海斗くんのことが好きだからじゃないかなぁ」

「芽夢ちゃんが、俺を…………」

「うん! 私は芽夢ちゃんと会ったことないから、想像だけどね!」

 だって海斗くんのことが好きでなければ、浮気がバレたときに、きっとそのまま別れていたはずだから。

 私や海斗くんの価値観とは違うかもしれない。でもきっと、芽夢ちゃんも海斗くんのことが好きなんだ。

 ごめん、と海斗くんが頭を下げる。顔を上げたとき、海斗くんの目には迷いがなくなっていた。

「俺、芽夢ちゃんと話す。ごめん、咲子。巻き込んで、こんなところまで連れてきちゃって」

「やだな〜、私が誘ったんだよ?」

「……うん、ありがとう」

 咲子のおかげでやっと前に進めそうだ、と海斗くんは言った。


 ラブホテルに来て、シャワーを浴びて、バスローブに着替えて、ベッドまでもつれ込んだ。それなのに、何もしないで帰るなんて、なかなかの笑い話になりそう。

 そんなことを考えて、私は笑う。

 本当は苦しくてたまらなかった。無理矢理にでも笑顔を作らないと、涙が溢れてしまいそうだった。

 どうしたって、私は芽夢ちゃんにはなれない。海斗くんの運命の人には、なれない。

 失恋を思い知らされた夜。きっと私は、この夜を一生忘れないと思う。



 数日後、芽夢ちゃんのSNSが更新された。

 六年付き合ってた彼氏と別れた〜、という投稿を最後に、私は芽夢ちゃんのフォローを外した。

 芽夢ちゃんの投稿の次の日、海斗くんからメッセージがきた。

『芽夢ちゃんと別れた〜。ご迷惑をおかけしました〜』

 私はしばらく悩んだ後、次の恋頑張ろ〜、と返信をした。そんなことを言っている私は、六年前の恋を引きずっているのだから笑えない。

 私が海斗くんを運命の人だと信じていたように、海斗くんにとっての芽夢ちゃんも、きっと運命の人だったはずだ。そう簡単に次の恋になんていけるはずがない。

 でも海斗くんからは、『おう、頑張る!』と前向きな返事がきた。今でも過去にしがみついている私とは大違い。

 二人が別れたからといって、私が海斗くんの彼女になれるわけじゃない。

 私は海斗くんの運命の人じゃないから。きっとどんなに背伸びをしても、海斗くんの彼女にはなれないのだ。


 それでもあの一夜は無駄じゃなかった。

 あの夜をきっかけに、海斗くんと芽夢ちゃんは別れて、そして海斗くんと私は、飲み友だちになった。

 ときどき会って、お酒を飲みながら話をする。飲み友だちになってから半年ほど経つけれど、二人の関係に進展はない。


 進展はなくてもそれだけで私は幸せだった。

 この恋が叶わなくても、また海斗くんと話ができる。他愛のないメッセージのやりとりだってできてしまう。

 今までは年に一度の誕生日にお祝いして、スタンプが返ってくるだけだったんだから、幸せすぎるくらいだ。

「咲子〜、聞いてる?」

 ふいに声をかけられて、私は目をまたたかせる 呼びかけられていたのに気づかないくらい、考えごとに集中してしまっていたみたいだ。

「全然聞いてなかった……」

「疲れてんの? 平気?」

 心配して私の顔色を確認する海斗くん。顔の距離が近くて、あの夜の出来事を思い出してしまう。出来事っていっても、何もなかったわけだけど。

「平気〜。ごめん、何の話だったの?」

「ん〜、咲子は好きな人とかいるのー、って話?」

「恋バナじゃん! やだよ!」

 私の返しに、海斗くんは首を傾げる。当然の反応だと思う。恋の話を嫌がる大学生の女子が、この世界にどれくらいいるだろう。

 いや、結構いるかもしれないな、と私が考えていると、海斗くんは言葉を続けた。

「咲子は俺のしょうもない話を聞いて、身体張ってアドバイスしてくれたじゃん。俺も咲子の話聞きたいな〜って」

「え〜、いいよー」

「やだ〜、話してくださーい」

 身体を張ったアドバイス、というけれど、あのときの私はずるい考えを持っていた。

 一晩だけでも、海斗くんのものになりたい。

 結局、自分でそのチャンスをぶち壊したのだから、やっぱり私はバカなんだけど。

 違う話に切り替えようと思ったけれど、海斗くんは頑なだった。そういえば、海斗くんはまっすぐで優しい人が故に、たまに頑固なんだった。

 私は仕方ないなぁ、と呟き、名前を伏せて話し始める。

「好きな人はいるよ? ずっと好きで、その人しか好きになれなくて、運命の人なんじゃないかな、って勝手に思ってるんだけどね」

「うんうん」

「でもその人の運命の人は、私じゃなかったみたい」

 失恋確定、はいこの話終わり! と無理矢理終わらせようとすると、海斗くんがレモンサワーのジョッキを見つめて黙り込む。

 まさか、バレちゃった……なんてことはないよね? 名前も伏せてるし、ほとんど情報は伏せてるもんね?

 心配になって、海斗くん? と呼びかけると、海斗くんのまっすぐな瞳が私を捉えた。

「運命の人じゃなきゃ、だめ?」

「えっ? どういう意味?」

「俺もさぁ、芽夢ちゃんのこと、運命だと思ったことあったよ。でも違ったし、そういうこともあるじゃん?」

 海斗くんの言葉の意味が分からなくて、私は首を傾げる。付き合ってみたら好きになるかも、と付け足された言葉に、私はどうかな〜、と曖昧に返した。

 だって知っているから。

 私、海斗くん以外の人を好きになれない。きっと一生、忘れられないの。

 海斗くんが唇を噛み、レモンサワーをぐいと煽った。あんまり強くないのに、一気飲みなんて珍しい。

「たとえば、俺とか」

「…………ん、?」

「浮気しないし、絶対大事にするけど……どうでしょう?」

 上目遣いに首を傾げて訊ねてくるのは、ずるいと思う。全然予想していなかった言葉に、私のほっぺたは真っ赤に染まった。

「咲子〜、聞いてる?」

「き、聞いてる……」

「返事くれなかったら、咲子の青りんごサワーも一気飲みします」

「なにそれ!?」

「潰れたらお持ち帰りしてよ」

 そんな冗談を言う海斗くんは、もしかして私の気持ちに気づいているのかもしれない。

 どうしよう。どうしよう。私、一生分の幸せを使い果たしてしまったかな。だってこの恋は叶わないはずで。一生忘れられない恋に、なるはずだったのに。

「……私、処女なの」

 私の飲みかけの青りんごサワーに口をつけた海斗くんは、突然の告白に咳き込んだ。

 しばらくして呼吸が落ち着くと、目を丸くして、マジで? と訊ねてくるので、私は静かに頷く。

「…………もらってくれる?」

 重くない? 大丈夫? 面倒だって思うなら、今この瞬間に突き放して。

 そんな気持ちを込めて訊いたのに、海斗くんは私の手をそっと握って、はっきりとした口調で言い切った。

「ちょうだい。咲子が運命の人を忘れられるくらい、頑張るからさ」

 どうやら海斗くんは、私の気持ちに気づいていたわけではないらしい。

 私が運命の人を忘れることはないんですよ。これから先も、ずっと。だって海斗くんが私を大事にしてくれるなら。やっぱりこの恋は、一生忘れられない恋になるのだから。

 でもそんなことを言ってしまったら重すぎるから、これは『初めて』が終わるまで秘密にしよう。

 何も知らない海斗くんが、「咲子が好きだよ」と優しい声で言う。

 懐かしい響きに泣きそうになりながら、私は海斗くんの手を握り返した。

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運命の人になれなくても 鈴谷なつ @szy_piyoko

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