第8話 それでも研究は続く - そして明日へ

化学準備室の扉が開くと、そこから少し冷えた秋の風が吹き込んだ。

外では枯れ葉が舞い、つい先日の大盛況だった文化祭が嘘のように校内は静かに見える。

しかし、その化学室の中は、まるで新たなステージへと突き進むような熱気を帯びていた。


「はい、そこ踏むとコードが引っかかるから気をつけて!」

結城友梨が白衣をひるがえして声をかける。

背中まで伸びた黒髪をひとつに束ね、冷静さをたたえた瞳で部員たちの様子を見守る姿は、どこか医局のリーダーのような雰囲気だ。

「すみませーん、ちょっとまた配線増やしちゃって……」

柿沼隼人がノートパソコンを抱えながら、眠そうな顔で苦笑をこぼす。

前髪のかかった瞼がさらにとろんとしているが、彼の指先はキーボードを走り回り、例のAIプログラムの修正を行っている。

「文化祭での騒動を反省して、安全対策は万全にするって話じゃなかったの?」

結城が皮肉っぽく言うと、柿沼は「それはそうなんですけど……どうしてもデータ量が増えると配線も増えるわけで」と、あまり反省していないような弁解を返す。


文化祭の大混乱を乗り越えた化学部は、今や以前にも増して活気づいている。

誰もが新たな目標やアイデアに向かって取り組み始めていたからだ。

「北條くん、今度は何してるの? その装置、また常温核融合関係?」

桐島奈緒が不思議そうに首をかしげながら、エプロン姿で近づく。茶色寄りのセミロングヘアをゆるく結び、ほのかに土と植物の匂いをまとっている様子が、いつも通りの優しい空気を醸していた。

「それがさ、超音波を加える実験を試してみたら面白そうだと思って……ほら、振動で水素の挙動を活性化できたら核融合の確率が上がるかなとか」

北條直人は短めの黒髪を少しふくらませたまま、ゴーグルを首にかけ、身振りを交えて力説する。

「理論はともかく、まずは小規模テストだ。最近の文化祭騒ぎで、パワー回路はちょっと自重してるしな」

「前みたいに爆発しかけないようにお願いしますね?」

桐島がはにかむように笑うと、北條は「わかってるって」と口だけは強気だが、その白衣の端には何やら黒い焦げ跡がまた増えているようにも見える。


一方、部室の隅では三津谷知久が静かに実験ノートを広げ、プライメイラの改良プランを書き込んでいた。

サラサラの黒髪が頬に落ちて、メガネをかけた顔立ちは“クールな研究者”そのものだ。

「毒性試験はある程度クリアしたけど、まだ熱伝導が安定しないんだ。どうやって分子配列をコントロールするか……」

「そういうときこそ柿沼くんのAIじゃないの?」

凛々子が軽やかに近づいてくる。

肩上あたりの黒髪ボブに、小さめのヘアピンをつけてリボンをあしらっている姿は、文化祭のときよりもどこか落ち着きを感じさせる。

「ただ、また変な実験レシピが出てきても怖いけどね」

「まあ、そこは結城先輩に監視してもらえばいいか」

三津谷が冗談めかして言うと、凛々子は「きゃー、それは厳しそう!」と笑いながら顔を横に振る。


その結城友梨は、思いがけず薬学部進学に向けた相談が増えてきたらしく、最近は教員室に呼ばれることもしばしば。

「先生、私がいない間、みんな大丈夫ですかね?」とやや心配げに藤堂省三に尋ねると、藤堂は「ま、君がいなくても勝手に暴走するだろうから、気にしても仕方ない」と苦笑する。

藤堂自身は、細身の長身を猫背ぎみに折り曲げながら白髪混じりの髪をかき、「どこかで絶対に安全を見張ってやらないと」と思いつつも、半ば手放しで部員たちの自主性に任せている。


江夏颯太は相変わらず机いっぱいに基板やセンサーを並べており、今度はまるでぬいぐるみのようなフォルムを試作している。

「ほら、ピンク色のカバーを付けて耳をこう……ん? ちょっと可愛いかも」

「江夏くん、それが例の“可愛い系ロボ”?」

凛々子が目を輝かせて声をかけると、江夏ははにかむように笑って「そう! これならみんな警戒しないかなって。機能はまた壮絶だけどね」とさらりと言ってのける。「壮絶って何するの?」

「うーん、まだ内緒。秘密兵器さ」

悪戯っぽい笑みを浮かべる江夏に、結城や桐島は微妙に嫌な予感を覚えるが、止めても仕方ないとあきらめ気味だ。


そして、桐島奈緒の改造植物は、大学の研究室との共同研究の話が進みつつあるらしい。

「レアサボテンの種で乾燥地に強い特性を生かせないかって。遺伝子組み換えの許可はまだ先だけど、もし実現したら本格的に砂漠緑化を目指せるかもしれない」

「いいじゃん、桐島さん。今度はツタじゃなくてサボテンかあ。トゲの代わりに花が咲いたりするとロマンあるよね」

凛々子が無邪気に盛り上げると、桐島は「そこはちゃんと制御しないと……もう暴走はこりごりです」と苦笑しながらも、瞳には新たな探究心がきらめいていた。


そんな部員たちがあれこれ動き回る姿を、北條が不意に眺めて「しかし、面白いよな。みんな別々のことやってるのに、結局は同じ部室に集まって、一緒にトラブル対処してんだから」と呟く。

「まあ、トラブル多いのは俺たちのスタイルってことで」と三津谷が肩をすくめると、江夏は「じゃあ、そろそろ各自次の目標でも宣言する? せっかくだし」と楽しそうに言い出す。

「私はAIの安全制御を徹底して、“危険実験レシピ”は出さないようにするっす」

柿沼がまず宣言すると、みんなが「いや、そこはマストでしょ」と即ツッコミ。

そのたびに柿沼は「はい、ごめんなさい」と頭を下げる。


「私は改造植物の研究範囲を広げつつ、安全優先でやってみる。まさかのサボテンかもしれないけど……でも本当に砂漠緑化に役立てるなら夢みたいだし」

桐島が恥ずかしそうに言うと、部室はやんわりとした空気に包まれる。

「いいね、桐島さんの花、また見たいわ」と結城が微笑むと、凛々子も「今度はちゃんとツタが暴れないようにね」と冗談交じりに声をかける。

「俺はもーっと常温核融合装置を進化させる! 単なる電気化学反応を超える何かがあると信じたい」北條が拳を握りしめると、三津谷は「大事故だけは勘弁な」と肩をたたき、「俺はプライメイラを本物の新素材として実用化できる段階まで持っていきたい。論文にもまとめる予定だから、みんなデータ取り手伝ってくれよ」と口にする。


江夏は目を輝かせながら「オレは“癒し系ロボ”の完成を目指す。実は自律制御だけじゃなく、ちょっとした対話システムも組み込みたくてさ。人感センサーとリアクション機構の組み合わせで、ほんとに可愛い動きするはず」とニヤニヤが止まらない。「そこに謎アルゴリズムをぶっこんでまた暴走しなきゃいいけど」

凛々子が呆れつつも笑う。

「私は……やっぱり面白そうなスイッチがあったら押したくなるし、植物もロボも好きだけど、もう少しじっくり自分なりのテーマ探そうかな。押しちゃいけないボタンを我慢するのって結構難しいね」

凛々子がそう言うと、結城が「とりあえず実験レシピをよく確認してから触って」とたしなめる。


結城自身は薬学系の勉強を並行しながら、部内の調整役に徹するつもりらしい。

「みんなが一斉に何かやらかさないように、私もサポート頑張るから。安全管理だけはよろしくね、藤堂先生」と結城が顧問に視線を向けると、藤堂は「おう、まあ任せてくれ。俺も死なない程度に頑張る」と返す。

こうして化学部の面々は、文化祭後も変わらぬ情熱と新たな方向性を見出し、今日も明日も研究と実験に邁進する。

トラブルやドタバタは避けられそうにないが、それさえも彼らの活力となるのだろう。


穏やかな夕方、部室の窓から差し込む陽射しがほんのりオレンジ色に染まっている。その光に照らされるシルビアやオクタヴィア、あるいはプライメイラのサンプルが輝き、まるで次のステップへの期待を示しているかのようだ。

いつもの静かな高校生活とはかけ離れていても、ここには類まれな発想と若い研究者たちの無限の可能性が詰まっている。

「さて、続き、やろうか」

三津谷がもう一度、実験ノートを開くと、北條や江夏、桐島たちもそれぞれの場所へと散っていく。

彼らはまだほんの入り口にいるに過ぎないのかもしれない。けれど、その先に待つ未知の景色を見ずにいられない――皆のそんな想いが、部室全体に浸透していく。

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化学部、爆走ラボライフ! 三坂鳴 @strapyoung

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