第5話
気がつけば、颯真は夜の校舎の中にいた。完全に衝動に突き動かされ、廊下を突き進み、階段を飛躍するかのように駆け上っていた。当然、夜の学校は完全に真っ暗だ。わずかに欠けた月明かりだけが差し込んでいて、ほのかに颯真の行手を指し示している程度だ。人の気配がしない薄暗く大きな施設というのは、小学生の颯真でなくたって不気味に感じてならない場所である。
颯真は疾走しながら夜の学校にまつわる、いわゆる怪談話を思い浮かべていた。
『並走してくる足音』
話は単純だ。夜の学校で廊下を全力疾走していると、急に並走してくる足音が聞こえてくるという。走り続けていると、あっという間に並走される。振り向けば、そこには誰もいない。その代わりに、真っ黒な毛布を広げたような影が浮遊しているというのだ。その影に完全に抜かされると、影の中から給食の中で特に人気メニューのソフト麺が飛び出してきて体に巻きつき、どこかの空間に引き込むという。引き込まれた生徒たちは、好きなメニューに抱かれながらなので、意外と恍惚な表情を浮かべながら飲み込まれるそうだ。飲み込むはずの麺に飲み込まれる。ふざけた話だ。とはいえ、そんなふざけた妖怪めいた存在を直接目撃したものなど誰もいないので、どこまでが真実かは分からない。颯真も、信じてはいなかった。今の今までは。
何かが走ってくる。
颯真は背後から猛烈に何かが追いかけてくるのを感じていた。校舎に入って一分もしない内から違和感を覚えはした。体全体を重量のある掛け布団がのしかかってきたかのようなズッシリとくる違和感だった。ただ、颯真の頭の中にはもう檻のことしか頭になかった。まだ檻の部屋に灯りが灯っていたことに気が付いてからは、もう檻の中を確認しないと気が済まないでいた。だから、颯真は強力な違和感も振り払おうと全力で走り意識しないようにしていた。
しかし、その違和感はもはやすぐ横にいる。違和感が間近に迫り、ようやく颯真の意識はそれに向けられ、その瞬間に学校の怪談が頭に打ち上げ花火のように破裂して浮かんできた。
まさか……。
颯真は、自分の思いつきを自分で否定したかった。しかし、横を向けばおぞましい現実がそこにあった。
黒い影が並走するように颯真の横に浮かんでいた。
「また影かよ!」
颯真は思わず叫んでいた。
まるで、影取りで引き抜かれていったクラスメイトの影たちが、その恨みを結集して颯真を襲っているかのように見えた。影の外角に散る黒い塵のような何かは、本体を奪われた影たちの瘴気が滲み出ているのだろうか。燃え盛る炎から散る火の粉の如く絶えずそれを散らし、周囲を黒く染めようとしている。とはいえ、颯真は誰一人の影も引き抜いたことはない。これが誰かの影の集合体というなら濡れ衣もいいところだ。颯真はこんなところで勘違いが元でやられてたまるかと、更にスピードを上げて廊下を駆け抜け、一気に階段を飛び上がろうとした。コーナーを鋭角に曲がり、これでもかと言わんばかりに最短コースを取る。足に自信があるわけではないが、別に運動が苦手でもない。それに、一気に檻の部屋へ逃げ込めばなんとかなる気がしてならなかった。もちろん、根拠などない。
颯真は、また影を見やる。
そこには、白く細く伸びる触手のような何かがうねうねと蠢いていた。デデロンデデロンと脈打つ様は、土を掘っていた時に突然露わになってもがくミミズの様に似ていてゾワゾワしてくる。思わず悲鳴が出そうになる。素直に気持ち悪い光景だ。
「ピャー!」
颯真は、自分でも驚くほど滑稽な奇声を上げながらも、その驚きの反動でより加速を強められた。階段を段飛ばしで駆け上り、黒い影よりも差をつける。
こんなの聞いてないよ!
颯真は、勢いよく扉を開き柔道選手に豪快に投げられたかのように体を転がり込ませた。小さい扉の枠を計算したかのようにするりと通り抜けた様は、芸術点をあげていいくらいに綺麗に決まった。硬い床に体を打ちつけたが、それでも黒い影よりも先に部屋に飛び込めたことに安堵して気にはならなかった。
「なんだ、ダイハードでも観てブルース・ウィリスにでもなったつもりか?」
転がり込んできた颯真を見て、川上先生が眉を顰めた。
「大変! 影が……うどんが巻き付いてきて……」
しどろもどろな颯真の説明に、川上先生はますます眉を顰め目を細めた。
「うどん? 学校裏のうどん屋か? あのうどん屋の出汁は……実はな、月の裏側から汲んできた水で作ってるんだよ。だから満月の日に食べると、どんぶりの中で麺が踊り出すんだ。前の満月の夜なんてな、かけうどんのネギが『讃岐鉄仮面の歌』を歌い出して、天かすが伴奏してたな。全く、なんの因果か……」
川上先生は、一方的に喋り出すと最後にやれやれと首を振った。
意味が分からない。颯真こそ、やれやれと首を振りたいくらいだ。
ガゴゴゴゴ……!
颯真が呆然と川上先生を見つめていると、突然背後の扉が激しく震え始めた。ヤクザの取り立てでもこれほどまでに激しくしないだろと思えるくらいに激しい。扉を開けてもらおうではなく、最初から扉を破壊しようとする意思がそこには垣間見える。扉は教室のそれとは違って鉄製で分厚い。簡単にぶち壊れることは想像できないが、それにしても何かが猛烈に幾度も打ちつけられているようで、颯真はいつか扉がぶち壊されて吹っ飛んでくるのではないかと思えて身構えてしまう。
「なんだ、騒々しい」
颯真とは打って変わって川上先生は場にふさわしくないくらいに落ち着き、面倒そうな表情で扉の方を見やっていた。
「だから、影が追っかけてきてるの! 本当のうどんじゃないけど、うどんみたいのウネウネさせて!」
「影だって? 仕方ないやつだな。変なものを神聖な場に連れてきおって」
ウンザリしたような態度を見せながら、川上先生は踵を返して奥の方へ向かっていった。そして、一分も経たずに、ペットボトルを一本だけ持ってきて扉の前に戻ってくる。ペットボトルの中身は透明であり、水にしか見えない。
「それ!」
水などどうするのだろうか。颯真がキョトンとしていると、川上先生はなんの躊躇いもなくガンガン鳴り響く扉を開け、すぐさま持っていたペットボトルの中身をぶちまけた。
その刹那、扉の外から熱く焼けた鉄板の上に水をぶちまけたかのようなジューという音が響いてきた。更には「ウグォゴゴゴ……」
と道路工事の音すら穏やかな音と思えるくらいに不快な低音が部屋の中にまで押しかけてきた。全身に取り巻き、音で体を分解させてしまうのではと思えるような不快感が覆ってくる。颯真は、耳を押さえながら体を縮こませてもがく。
ほんの十秒くらいだっただろうか。けれども、颯真には十分に一時間にも思えるほどに長く感じられた。やがて、室内には静寂が戻ってくる。
「全く、不快極まりないやつだな。ちっぽけな怨念の有象無象が」
それだけ言うと、川上先生は空のペットボトルを適当に投げつけて、部屋の奥へと入っていった。
「何してるんだ? くだらないことしておってるから、もう時間が迫ってるぞ」
奥の方から川上先生の声が響いた。
よくは分からないが、颯真は慌てて川上先生の後を追う。つい今し方まで黒い影に追われて命からがら逃げ延びてきたというのに、どういう態度だろうか。肉体的にも精神的にも休む暇を与えられず、颯真は戸惑うことしかできない。影取り、黒い影との逃走劇ときて、次はどうしろと言うのだ。
「……え?」
颯真は、部屋の奥、つまりは檻の前までくると唖然とした。つい昨日まで何もなかったはずなのに、今では巨大な物体が鎮座している。
卵だ。
颯真の背丈とほとんど変わらないくらいに大きな卵が檻の真ん中に鎮座していた。あまりにも堂々と置かれているので、まるでそこの主人であるかのように見える。燦然たるその姿は、話しかければその姿に比例するほど厳しく受け答えてくれそうだ。
「なんだ、これ……」
颯真は素直な心の声をそのまま漏らしていた。
「フン……僕たちの成果」
するとどうであろうか、卵から声がするではないか。颯真の声に応えたかのようで卵が震えているかのような錯覚さえある。卵に意思でも存在してるのか。これも、黒い影と同族なのか。
颯真は、恐る恐る卵の周りを確認する。もはや、常識はずれの連続で警戒する癖がすっかりと着いてしまった。
だが、すぐに安堵する。いや、むしろ安堵を通り越して呆れや僅かながらも怒りの感情すら湧き立ち出す。
「琢磨かよ!」
巨大な卵の裏には、琢磨がいた。琢磨が、自分の巨体を卵に張り付かせるようにしてそこにいる。まるで、卵が琢磨の母親だ。その姿に、颯真の呆れや怒りもすぐにかき消され、おかしくてニヤついてしまった。
「何やってんだよ。帰ったんじゃないのか?」
「……帰れない。満月の夜、帰れない……」
「え? どういうこと?」
「外を覗いてみるんだ」
川上先生が、颯真に部屋の細長い窓を指し示して外を見るように促した。颯真は、訳もわからずに窓の外を見てみる。
「空だ」
颯真が校庭の方を見ていると、川上先生が訂正してきた。
見上げれば、そこには青白くほのかに光る月が見下ろしていた。心なしか、いつも見る月よりも大きい気がしてならない。
「……満月」
「そうだ、満月だ。もっと正確に表現すれば、月白の裂け目だな」
「げっぱくのさけめ……」
月光にさらされ青白くなった颯真の顔は、不思議と穏やかだった。あまりに何度も起きた出来事で感覚が狂ったなどではない。満月の光があまりにも穏やかで、見つめているとそれまで荒ぶっていた心が業務用冷蔵後に放り投げられたかのように急速に静まっていったのである。颯真がこれほどまでに穏やかな気持ちになれたのは、いつ以来だろうか。
「これほど静謐な月明かりがあるだろうか。夜のしじまに奏でる鮮やかなラプソディといったところか。耳ではなく、目や肌で感じるコンサートだな」
川上先生も、窓を覗き込みながら心穏やかにゆったりと言葉を紡いでいた。
「先生、月白の裂け目って?」
「うむ、月と卵の同調。そして、闇の中に浮かぶ光。絶望の中で生まれる希望。見てみなさい。始まろうとしてる」
川上先生は、次に檻の中の卵を指差した。
窓から刺してくる月明かりは、計算されたかのように室内の奥へと伸びていた。そして、それは檻の中の卵をも浮き上がらせている。青白い光と黄色がかった白い体躯の卵が混じり合う。
「はぁ……」
卵に抱きついていた琢磨が息を飲んだ。至福の表情を浮かべ、自らのお腹を卵にこすりつけている。
細い窓から入る光は、どういう訳か部屋に入ると膨れ上がり部屋中に溢れかえろうとしている。颯真は、その光に満たされ、心が微睡から覚めたかのように心地よくなっていった。
月の光は、部屋の中を霧が立ち込めたかのように充満していた。やがて、光の霧は卵を中心として螺旋を描きながら一つに集合しようとしていた。
「あっ……ああっ……」
卵に抱きついている琢磨が、集合した光の霧に飲まれ、中からは恍惚とした声が漏れてきた。
「颯真くんも……」
光の霧の中から手が伸びてきた。琢磨の手だ。颯真も中に入るように誘っている。
颯真は、無意識にも自然と琢磨の手を取り光の霧の中へと進んでいく。
「ああ……」
颯真も耐えきれずに快楽の響きを漏らした。脳天を直接揺さぶられているかのような麻痺と快楽が颯真の感覚を激しく揺さぶっている。あまりの快楽にまともな思考ができやしない。それでも、颯真はそれでいいと思えた。気持ち良すぎる。
「これが……月白の裂け目なの?」
「そうだ。これこそが月白の裂け目だ」
颯真の問いかけに川上先生が答えた。
「見ろ、光の中にもう一つの月が見えるだろ」
川上先生が嬉しそうに光の霧の中を指差した。そこには、巨大な卵が鎮座している。そして、その卵の中心部分が薄らと明滅し出し、そこに銀色の丸い輪郭が浮かび上がってきた。それは、目だ。銀色に光る目が、窓を通り越し月を見上げているのだ。月と卵が共鳴している。
きれいだ。
颯真は素直にそう思えた。
横にいる琢磨も、穏やかな笑顔をしている。おそらく、気持ちは同じだ。月と卵が共鳴し合う様が実に美しく感じられた。
光は濃密度を一層高め、颯真と琢磨の表情ははち切れんばかりに恍惚なそれへと変わっていった。これでもかと言わんばかりに暖かな風が吹き荒れる。
やがて、どこからともなく颯真の耳に囁き声が聞こえてきた。それは何を意味するかはわからない。ハッキリと耳元に届いているのだが、日本語ではない。英語ですらなさそうだ。颯真の知らない言語が囁かれている。けれど、決して不快ではない。むしろ、全てを肯定したくなる気分だ。颯真はわからないなりにも囁き声に頷いて答えた。
琢磨もそうだ。フンフン言いながら同じように頷いている。
「聞こえるんだな、月の囁きが」
囁きに混じって、川上先生の声が聞こえてきた。でも、颯真はもう返答する気にはなれない。このままずっと委ねていたい。
「満ちては裂け、秘められたものをひそやかに覗く、祝福の時だ。人が忘れかけた真実や、行き場を見失った願いは、すべてあの裂け目から覗いている。お前たちの歩む道もまた、きっとそこに映っていたはずだ。瞳を覗き返してみなさい。君たちは約束された存在になれる」
突然、川上先生とは別の声が聞こえてきた。声から判断するに、浅間だ。浅間がいつの間にか現れたのだ。
「瞳を覗き返しなさい!」
また、浅間の言葉が響いた。今度はいつになく強さを孕んで。
その強さに颯真はハッとした。そして、言われた言葉通りに卵に浮かぶ瞳を覗き込んでみる。銀色の縁に現れる青白い光。その中には、確かにぼんやりとだが何かの輪郭が浮かんでいた。人だ。ほのかに光る白い燐光を纏った人がそこに佇んでいた。誰だかはわからない。でも、颯真はその光の人物を見ているだけで安堵と自信めいた力強い何かを感じられていた。
颯真にとって、いつか来る日の光景にも感じられた。
「よかった……」
すぐ隣で琢磨の声がした。琢磨も何かを見たのだろう。颯真は琢磨の方に手を伸ばし、琢磨の手を掴んだ。琢磨もそれに応えて強く握り返してくる。そして、二人で卵を優しく抱きしめた。卵はとても暖かかった。
やがて、青白い霧は収まり、部屋の中が晴れ渡る。小さな窓からは、純粋に白く輝く光が差し込んでいる。それは、抱き合う二人と卵を照らし、長細い影を作り出していた。
そして、その影を川上先生と浅間が触れる。
「……暖かい影だ」
「ええ、とても暖かいケモノの影ですね」
了
影喰らう クロフネ3世 @kurofune3
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