都市と使途

神殿真数

#01 回遊する都市

 自生した発光藻ムーソルが微かに照らす薄暗い神殿の中で、透き通るような歌声が響いていた。

 覚醒前のぼんやりとした鼓膜を撫でる歌声は二つ。甲高い音の連なりが成すハーモニーと、滑らかに紡がれるメロディー。完全なる調和が生み出す、美しい奏歌ファンテニアの調べであった。

 旋律の心地よさに微睡んでいると、涼やかなメロディーが止み、柔らかい声が降ってくる。

「起きなさい。朝が来るわ」

 優しく頭を撫でる手の温もりで、少女は目を覚ました。

 まだ眠気に蕩ける目を擦り、声の主を見上げる。しなやかな褐色の四肢を晒す女が、柔和な微笑みを湛えていた。海獣の皮に藻類の繊維を編み込んだ衣装が体を包む。首や手首を彩るのは、貝と珊瑚の装飾物。長い黒髪から覗く緑の目は、崇高たる奏歌巫ファントゥナギリの証だ。

 その濁りのない翡翠の瞳に見下ろされ、少女の表情がぱっと綻ぶ。

「母様! アルマタがそう言っているのね」

「ええ。しっかり掴まっていなさい、フィーテ」

 ファントゥナギリは少女――フィーテの体を抱き寄せると、天井へ向けて一つ声を発する。

 淀みのない高音が、硬鱗ビンバンで組まれた神殿の直上、ぽっかりと空いた複気管へと吸い込まれて反響する。やがて、遠くの方で朝を告げる鐘の音が鳴り始めた。

 活気づく体内の様子に応えるように、アルマタが高らかに歌う。絶えることなく刻まれる心拍の鼓動がその激しさを増す。加速度によって生まれる慣性が、小さな体にのしかかる。

 全身で感じる浮上の気配に、フィーテは母から受け継いだ緑の目をぱちくりと輝かせる。少女は、高揚感を持って迎えるこの朝が好きだった。

 ざっぶん、という大きな衝撃を最後に、体への負荷がなくなる。アルマタが海面に顔を出したのだ。

 筋線維の収縮によって新鮮な空気が流れ込み、巨大な肺が満たされていくのを肌で感じる。

 慌しくなった神殿の外に目を向ければ、ミドゥンたちが五本から成る複気管を滑り降りてくるところだった。肺に降り立ったのも束の間、彼らはそのまま、打ち込まれた杭を頼りに主気管を登っていく。その先では、大きな鼻孔が呼吸のためにぽっかりと口を開けていた。

 男も女も、大人も子供も。各々が道具を担ぎ、慣れた手つきで外界へと続く道を登る。繰り返されるいつもの朝の光景を、フィーテは目を細めて見送った。

 鐘の音で目覚めると、外気を求めて肉の壁を登る。それが、地表の九割以上を海で覆われた海洋惑星〈エルミタ〉に住まうミドゥンという種の、巨大海洋生物の肺腑の中で暮らす海の民ミド・エルモアにとっての、いつもの朝であった。

ヴォルナギリ。

 魚類のように鰭を有する巨大な哺乳類に付けられた名だ。ミドゥンの言葉で〈偉大なる者〉を意味する。海の民エルモアはこの海の獣を神のように讃え、共に生きる。

 ミドゥンたちは小島ほどもあるヴォルナギリの背中に上がると、忙しなく働く。

 朝の時間は限られ、その間にやるべきことは山ほどあった。ヴォルナギリの体に生えた藻類や貝を採り、それを餌に寄ってくる魚を獲る。代謝によって剥がれ落ちた硬鱗ビンバンや、体表から分泌される聖油スィーツェの採集。炊事に洗濯。ときには、訪れる丘の民ミド・クトゥラとの交易も行う。

 彼らの暮らしは、水の星エルミタを自由気ままに回遊するヴォルナギリと共にあった。


 奏歌ファンテニアの響きが海を撫で、朝の終わりを告げる鐘が鳴る。息継ぎを終えた巨躯が、高波を起こしながら海中へと沈んでいく。酸素を求めて再び海面に顔を出したときが、次の朝だ。

「見て、母様の歌でみんなが戻ってくる」

 フィーテが指差す先では、一仕事終えたミドゥンたちが、釣果に頬を緩めて主気管を下る。

 獲物を狩る男たちの無骨な手には、火の消えた松明が握られていた。乾燥させた藻類に聖油スィーツェを染み込ませたものだ。不純物を取り除いた聖油スィーツェは可燃性が高く、その炎は闇を照らす光となる。どうやら、今日の朝は陽が出ていなかったらしい。

「わたしではないわ。アルマタが教えてくれたの」

 侍女に付き添われて体を横たえるファントゥナギリが、疲れ切った表情で言う。歌を用いた会話は、想像以上に体力を消耗した。

「でも、アルマタの歌がわかるのは母様だけなのでしょ? それって、凄く素敵!」

「ふふ、そうかしらね」

「わたしも、母様みたいにアルマタとお話がしたい」

「そうね。あなたにも、その内わかるようになるわ」

 娘の頭を撫でるファントゥナギリの微笑みは、何か憂いを帯びているようにも見えた。

 ファントゥナギリが一時の眠りに就くのを見届けて、フィーテは再び窓辺に立った。閉ざされた神殿から、緑の目を好奇心に輝かせて眼下を見下ろす。発光藻ムーソルの青白い光が頼りなく照らす五本の道を、ミドゥンたちが列を成して登っていく。赤黒く脈動を繰り返す肉の道の向こうには、彼らの〝街〟があるのだ。

 肺から伸びる複気管の先に広がるのは、副肺スクツァルと呼ばれるヴォルナギリ特有の臓器だ。

 背骨の上、体表のすぐ内側にあるこの器官は、瘤のように背部の表皮を持ち上げ、体外に隆起している。体を覆う硬質な硬鱗ビンバンも、ドーム状に盛り上がったこの部位だけには生えていない。

 外傷のリスクを投げうった進化の目的は一つ。熱伝達の効率化。

 ヴォルナギリはその規格外な巨体を維持するため、高い代謝能力を持つ。発生する膨大な代謝熱は、極度の体温上昇を引き起こす。そこで体温調整の役割を担うのが、第二の肺とも言える副肺スクツァルだ。

 体中を巡って体温を吸収した血液が、血管を通して肺内部を温める。複気管によって副肺スクツァルへと運ばれた暖気は、海水に熱を奪われる。冷却された空気が肺へと送られ、再び体温によって温められる。この熱サイクルが永遠と繰り返されるのだ。

 副肺スクツァルは、体内に溜まった熱を体外へ放出するための媒介器官だった。

 海の民エルモアの遠い祖先は、この広い空間に住まいとしての能を見出した。

 優れた空気循環をもたらす肺腑の中に、彼らが住み着いたのは太古の昔。鼻孔から覗く深淵へと、最初に飛び込んだ蛮勇の持ち主の名を知る者はいない。以来、海の民エルモア副肺スクツァルに街を築いて日々の暮らしを送る。その数、実に数千。

 表面積を稼ぐための皺が分割する小部屋を、硬鱗ビンバンで補強することで各々の住居とし、中央に開いた複気管をぐるりと囲む内壁を街へと変えた。

 都肺シュビレスク

 海の民エルモアが身を寄せ合う肺の都。それは、ヴォルナギリの意の向くままに海洋を彷徨う、回遊する都市であった。


 焚かれた時詠みの香が短くなり、シュビレスクに夜が訪れようとしていた。

 海で覆われたエルミタを絶えず移動する体内にあっては、星の運行を観測することなど到底叶わない。海の民エルモアにとって時間とは、ヴォルナギリによって与えられるものだった。

 息継ぎのために海面に顔を出している間を朝と定め、時詠みの香を焚いて昼の時間を過ごし、それが消えると再び浮上するまで眠りに就く。

 夜の身支度を始めるシュビレスクから、肉の道を下った肺の神殿では、ファントゥナギリがヴォルナギリと共に歌う。

 五本の複気管をそれぞれ伸縮させて発する複雑な和音に、透明な歌声で紡がれる旋律が重なる。その美しい奏歌ファンテニアの響きに、フィーテの目は既に蕩け始めていた。

 旋律が途切れ、ファントゥナギリが腰を下ろす。眠い目を擦りながら、フィーテが聞いた。

「母様、アルマタは何て?」

「いつも通りよ。魚の群れを追って、海を渡るそう」

「ふふ、食べてばっかりなのね」

 くすくすと肩を揺らすフィーテに、「そうかもしれないわね」とファントゥナギリが微笑みを送った。

 ヴォルナギリは生命活動の大半を食事という行為に充てている。常に腹を満たしていなければ、代謝による消費量に追い付かれてしまうからだ。故に、餌を求めて広い海を回遊する。

 燃費の悪い大食漢は、口に入ったものであれば何でも飲み込む。歯を持たない大口を開けたまま、その巨体からは想像もできない速度で泳ぎ続けるのだ。

 海洋ヒエラルキーの頂点に君臨する聖獣は、今日も魚の群れを追って暗い海を往く。

「けれど、彼女たちの旅の目的はそれだけじゃないわ」

「そうなの?」

 教え諭すようなファントゥナギリの声色に、フィーテは目をぱちくりと瞬かせる。

「時が来れば、星中のヴォルナギリは一斉に〈凍てつく海〉を目指すの」

「それは、一体どんな場所?」

「氷の大地に閉ざされた過酷な海よ。ここよりも、ずっとずっと寒い場所」

「大地……丘の民クトゥラが暮らす島というものとは違うの?」

「ええ、もっと大きな氷の浮島よ。集まったヴォルナギリを、全て覆い尽くしてしまうほどに」

「凄い、凄いわ! そんな場所があるのね。アルマタたちは、そこで何を?」

「コグルハドゥク。大いなる意志ヴォレニアによって導かれて、大いなる意志ヴォレニアを次の世代に受け継ぐために集うの。フィーテ、あなたもそこで一つ〈巡り〉を重ねるのよ」

 慈しむようなファントゥナギリの視線を受けて、フィーテの緑の瞳が期待に揺れた。心の内に秘めていた憧れが、言葉となって口の端から零れ落ちる。

「母様。わたし、外の世界を知りたいの」

「フィーテ……」

「こんな何もない神殿じゃ退屈だわ。母様の歌は素敵だけど、もっといろんなものを見たいの。アルマタの姿も、広い海も。それに、みんなが暮らす街のことだって見たことがないのよ? だから――」

「なりません、巫女フィーテ様」

 ぴしゃりと鋭い声が飛ぶ。魚の頭蓋骨をくり抜いた面で顔を覆った、侍女の一喝だった。

「御身は大いなる意志ヴォレニアによって導かれた崇高たる魂。穢れなきヴォルナギリの子。ゆくゆくは、その意志を我々にもたらす標となるお方。そう、奏歌巫ファントゥナギリとして」

 神聖なる御前に跪く侍女が、深々と頭を垂れる。

「そんな高貴なる者のお姿を、我々のような民草の衆目に晒すわけにはいかないのです」

「だけど……」

「なりません。戒律が、大いなる意志ヴォレニアがそう定めているのです。どうかご理解を」

 尚も深くかしづく侍女の気迫は、幼子の好奇心を黙らせるのに十分だった。

 時詠みの香が消え、どくん、どくんと響く聖獣の心音だけが夜の時を刻んでいた。


     ◇


 陽が昇ろうが、沈もうが、夜は等しく明けるものだった。どうやらこの日の朝は、空高く陽が出ていたようだったが。

 降り注ぐ貴重な陽の光を求めて、まだ幼い子供までもが肉の壁を登る。いつも以上に賑やかな朝の光景を、フィーテは冷めた流し目で見送っていた。

「あ……」

 ふと、押し合いへし合う雑踏の中から、自身と同じ緑の瞳を目ざとく見つけ出す。精悍な顔つきのミドゥンの青年だった。他の男たちと同じように、獲物を衝くための銛を担いでいる。胸元で黒光りする首飾りは、硬鱗ビンバンを加工したものだろうか。

「兄様……」

 血の繋がりに向けた愛おしさは、つい声となって零れ落ちていたようだ。戒律を重んじる侍女が、それを聞き逃すはずもない。

巫女フィーテ様。トマテ様は――」

「わかっているわ。奏歌巫ファントゥナギリを継ぐことのできない兄様は、ミドゥンとしてシュビレスクで生きる。たとえ血を分けた兄妹であっても、触れ合うことは固く禁じられている。そうでしょ?」

「……はい。その通りでございます」

 頭を垂れる侍女を他所に、フィーテは再び神殿の外に視線を戻す。血を分けた実兄――トマテが、獲物を求めて主気管を登っていくところだった。

 一度も言葉を交わしたことはなかったが、敬愛の念を抱かずにはいられない。しかし、心身ともに成長したフィーテは、秘めた想いを分別という檻に閉じ込めておくことができた。少女は自身に与えられた役割を、徐々に受け入れつつあった。ヴォルナギリの〝言葉〟を聞き届けるという、その使命を。

 体の成長に伴って、尚のこと狭く感じるようになった神殿に、アルマタの歌声が響き渡る。

 ときとしてミドゥンの平均的な可聴域を超えるその音波を、フィーテの聴覚は容易に捉えることができた。それが、彼女が母から受け継いだ形質であり、代々、生まれてくる長女へと引き渡されてきた奏歌巫ファントゥナギリとしての資質であった。

 五本の複気管が奏でる音律に折り畳まれた意味を紐解くために、ファントゥナギリが歌声を重ねる。ただ聞くだけでは意味を成さない。共に歌うことで、初めてそこに込められた意味を捉えることができる。奏歌ファンテニアとは、そういう類の歌唱言語であった。

 音階と拍に意味を織り込んだ歌は、それ単体では情報の塊に過ぎない。受話者がそこに歌をぶつけることで、無数にある情報の一部を意味として切り出すことができるのだ。音の重なりが、波長の山同士の交点が、とりわけ重要だった。

 奏でる波紋は海を渡り、他の個体との情報交換に用いられる。五つの音を同時に操るヴォルナギリは、多くの情報を歌に込めることができた。そんな高密度の言語で、彼らが何を話し合っているのかといえば……。餌場のテリトリーだったり、絶えず変化する気象だったり、星の運行だったり。それすなわち、広い海における自身の位置情報に概ね収束した。

 群れを成さず単独で回遊するヴォルナギリの、航海の軌跡。歌として刻まれる、その足跡。

 エルミタの海は、孤独な航海者たちの歌声ビーコンで満たされていた。

 互いの居所を伝え合う波形は、広大な海図に無数の干渉縞を描く。その交点一つ一つが意味を持つのだとしたら。海洋惑星の全域に生息するヴォルナギリが、歌を重ね合わせるのだとしたら。星を揺るがす大合奏そのものに、何らかの意図が宿ることがあるかもしれない。

 海の民エルモアはそれを、大いなる意志ヴォレニアと呼んだ。

 とはいえ、そもそもの発音メカニズムを異とする彼らが、ヴォルナギリたちのお喋りから掠め取れる情報量など高が知れていた。御使いと祀り上げられてはいても、所詮はミドゥンの身。ファントゥナギリが発する音域には限りがあり、捉えることのできる意味など、ヴォルナギリが扱う情報量の内、ほんの一握りに過ぎない。

 それでも、代々受け継がれてきた鋭敏な聴覚が、彼女たちを伝道者たらしめるのであった。

 フィーテは母に倣って、覚えたばかりの歌を重ねる。まだ拙い読解力で紐解いたアルマタの言葉には、歓喜のニュアンスが含まれていた。その喜びのわけを、フィーテは知っている。

 浮上夜明けの少し前。まだ寝ぼける鼓膜を叩いたのは、遥か遠くの海域から届いた雄個体の歌声。扱う周波数帯域の頻出パターンから、この個体がアルマタの番いであると識別できた。

 広い海を隔てて尚、共鳴する番いたち。二匹は出会う前から、互いの存在を強く意識していた。想いを寄せ合う相手の姿さえ知らずとも、歌だけが彼らを繋ぎ留めいていた。

 親和性の高い二つの波形は、より濃密な干渉縞を描き出す。二匹の邂逅は、生まれながらにして宿命づけられた必然であった。

 興奮気味のアルマタが高らかに歌う。それは、名もなき番いへと想いを馳せる〝想歌〟であった。

「ふふ。彼のことを、本当に好いているのね」

 フィーテは自分のことのように喜ばしく思うと同時、檻の鍵をこじ開けて内省する。

 群衆の中にトマテの姿を探したのは、ヴォルナギリたちのような親密な関係を、彼に望んだからだろうか。たとえそれが、交わることのない兄妹愛に起因するものだったとしても。

 彼女には知る由もないが、その望みが形を変えて現実となるのは、もう少し先の話である。


     ◇


 神殿が大きく揺れていた。

「母様! 大丈夫⁉」

 天地をひっくり返すほどの衝撃で、玉座から投げ出されたファントゥナギリの下に、フィーテが駆け寄る。

「ええ、わたしは大丈夫。あなたの方こそ、こんな大しけは初めてでしょう?」

「はい、なんとか……。けれど、この嵐はいつになったら終わるの?」

「ヴォルナギリでも自然の力には抗えないわ。ただ身を任せるだけよ」

 諦めにも似た返答に、フィーテは周囲を見渡す。狭苦しい神殿はもので散乱し、硬鱗ビンバンの補強も所々で軋みを上げていた。きっと、シュビレスクも同じ惨状であろう。

 今、アルマタは巨大な低気圧の渦の中を、北へ向けて直進していた。

 海に覆われたエルミタでは嵐が頻発する。ヴォルナギリたちは、こうした障害を迂回するのが常だったが、今の彼女にそんな余裕はなかった。

「時が来たのね」と、ファントゥナギリが呟いたのは、いくつ前の夜明けだっただろう。

 星中に散らばったヴォルナギリたちが、一斉に北へと進路を取り始めるのを、干渉縞による足跡で感知することができた。一体何がトリガーになっているのか、当事者でさえ不明。ただ、彼らの中に眠る太古からの遺伝子が囁くのだ。「北へ向かえ」と。

 あるいは、それが大いなる意志ヴォレニアと呼ばれるものなのかもしれない。

 ともあれ、この機を逃せば次がいつ訪れるのかなど見当もつかない。無駄に浪費できる時間など、皆無だった。緯度を駆け上る波紋の群れが、我先にと北緯九〇度を目指す。

 激しい風雨と共に迎える朝にあっては、漁をすることすらままならない。海の民エルモアはこの局面を、陸棲生物の干し肉を齧って耐え忍ぶ。丘の民クトゥラとの交易によって得られる備蓄だ。

 食糧だけではない。漁に使う銛も、小ぶりなナイフでさえ。硬鱗ビンバンを加工する術を持たない海の民エルモアは、その多くを丘の民クトゥラに頼っている。その見返りとして、硬鱗ビンバン聖油スィーツェを差し出すのだ。

 僅かな陸地で定住生活を続ける丘の民クトゥラは、ヴォルナギリの発する歌声から、正確な航路を導き出す術を会得していた。海の民エルモアに先んじて、だ。占星術にも長けた彼らは、ヴォルナギリが近海に訪れるタイミングを見計らい、交易に臨むのだ。

 一方で、危険を冒してまで外洋に進出する踏ん切りをつけられず、その技術の大半を持て余してもいた。片や海の民エルモアはといえば、ヴォルナギリの手綱こそ握れないものの、危険な海を耐え忍ぶ知恵を持っていた。

 もしも彼らの交易が単なる物々交換以上のものであったなら、この星の文明レベルは幾分か好転していたかもしれない。

 もちろん、過去にそういった試みがなかったわけではない。

 海の民エルモアから分化したある一族が、どこからか手に入れた航海図と奏歌ファンテニアを組み合わせ、ヴォルナギリを御そうとしたことがあった。後に〝操歌〟と呼ばれる禁忌だ。

 結果、不十分な知識による介入を受けたその個体は、混乱をきたし、浅瀬に乗り上げた。彼らの旅は、神獣の死と共にそこで途絶えた。

 そんな暗い歴史を背負った海の民エルモアは、ヴォルナギリの往くに任せる旅路を、今も続けているのだった。


 ごっがんっ‼

 ここ数日繰り返されてきた異様な衝突音で、朝は迎えられた。

 それは、アルマタが浮上するときに、硬鱗ビンバンで分厚い氷を砕く豪快な音だった。

 北極圏、〈凍てつく海〉。

 いくつかの嵐を乗り越えた先に広がっていたのは、白銀に染まる氷の大地であった。

 極寒の海から顔を出したアルマタは、鼻孔を大きく広げ、肺、副肺スクツァルへと空気を取り込み始める。ゆっくり、そして大量に。徐々に増していく氷の厚さを考えると、ここが最後の息継ぎ地点だった。長い潜水に備えて、十二分に酸素を巡らせるには、普段の数倍の時間を要する。白夜ビャージャと呼ばれる行動だったが、その本来の語義を正しく知る者はいない。

 アルマタは、ここから一息の内に目的地までを往復する。旅の終着点、北極点だ。

 長い長い朝だったが、アルマタの背に上がり、北極圏の景観を望もうとする者はいなかった。

 体温を上げるために、肺‐副肺の熱サイクルは止められていたが、シュビレスクに籠る方が、極寒の外気に晒されるよりはましだった。ただ、幾分かはましというだけで、既に何人もの凍死者が出ていた。

 多くの犠牲を伴った過酷な旅が終わろうとしているのを、フィーテは自身の耳で感じ取っていた。

「凄い。本当にみんな集まってる」

 彼女の聴覚は、北極圏全域を埋め尽くすヴォルナギリたちの歌声を、余すことなく捉えていた。その数、実に数万。

 重なり合う無数の交点は、慰労を、感嘆を、待望を、その他諸々をない交ぜにした、耳を聾する大合奏となっていた。

 さすがのファントゥナギリも堪えるのか、片耳を塞ぎながらフィーテに歩み寄る。

「言ったでしょう。皆、大いなる意志ヴォレニアによってここへ導かれたのよ」

「ええ、そうね」

「さあ、あなたも準備なさい」

「……はい、母様」


 どっばん、と氷塊をまき散らして、アルマタが潜水を開始した。

 氷に閉ざされた海は陽の光を通さず、深海のように暗い。視界不良もいいところだというのに、先ほどまでの大合奏はぱたりと鳴り止み、完全なる静寂だけが漂っていた。

 頼りにできるのは、己自身の感覚だけ。

 覚悟を決めたアルマタは、より深みへと潜り込んでいく。深く、深く。尚も深く……。

 しかし、進めど進めど、広がるのは静謐な暗闇だけ。

 どれぐらいそうしていたことだろう。時間の感覚すら怪しくなりはじめ、もう諦めてしまおうかと思ったときだった。

 視界の端に、動くものを捉えた。暗がりの向こうで、何かが固まりとなって蠢いている。

 恐る恐る近づいてみると、それは、群れを成して泳ぐ同胞たちの姿だった。

 彼女は、ついに辿り着いたのだ。

 球状の塊となって泳ぐ彼らは、アルマタに気付くとスペースを空け、彼女を群れへと迎え入れた。その後も続々と合流を果たす同胞たちによって、群れはその密度を増していく。

 最後の一匹が加わると、彼らは示し合わせたかのように再び歌い始めた。

 北緯九〇度、北極点。

 そこから同心円状に広がる無数の波紋は交点を持たず、単純な合成のみが成されていく。やがてその純粋な合成波は、一つの意味へと収束する。遺伝子に深く刻まれた特定因子に働きかける、特殊な波形へと。

 コグルハドゥク。

 海を渡る遺伝子を、次の世代に受け継ぐための集団繁殖行動。長いこと眠っていたそのチャンネルが今、一斉に開かれた。後のことは、互いに想いを寄せる番い同士の仕事だった。


 時を同じくして、肺の神殿では儀式が始まろうとしていた。

 普段、女人以外の立ち入りが禁じられる神殿には、魚の面を被った数人の男が集まり、円陣を成していた。その輪の中心には、艶やかな衣装に身を包んだフィーテの姿があった。聖油スィーツェを塗り込んだ黒い髪と褐色の肌が、発光藻ムーソルの光を浴びて艶めく。

 立ち並ぶ男の中に、黒光りする首飾りをした一人を見つけたフィーテの瞳は、安堵と悲哀に揺れていた。

 アルマタが番いの雄と身を寄せ合うのを聴覚に感じながら、彼女も一つ〈巡り〉を重ねるのであった。


     ◇


 打ち込まれた杭を頼りに主気管を登る。長い神殿生活によって体力は蝕まれ、頂上に辿り着く頃にはすっかり息が上がっていた。

 酸素を求めて喘ぐ肺に、新鮮な外気が流れ込む。まばゆい光に眩みながら目を開ければ、いつの日か焦がれた光景が視界いっぱいに広がった。

 この日の朝はよく晴れていて、どこまでも続く海原を遠くまで見渡すことができた。

 水平線に沈みゆく太陽が、空と海を赤く染める。水面では小魚が跳ね、それを狙った鳥が低く飛ぶ。目を凝らせば見えてくるあの小さな盛り上がりが、島と呼ばれるものだろうか。

「ここが、外の世界……」

 感嘆の声が、波のさざめきに溶ける。

 これがフィーテ、いや、新たなファントゥナギリにただ一度だけ許された、外界との接触だった。胸中に去来する激情を、抑えられるはずもない。

 しかし感激に浸るのも束の間、背負った赤子がぐずり始める。抱き直した我が子を覗き込むと、大きな目をぱちくりと瞬かせていた。その緑の瞳は、奏歌巫ファントゥナギリの血をしっかり受け継いでいる。まだはっきりとはしないが、恐らくあの鋭敏な聴覚も。

 ヴォルナギリの子として生まれる巫女フィーテに、ミドゥンの父があってはならない。

 民族に伝わる因習は、複数の男と交わることで、誰の子か分からなくするほど徹底したものだった。だが、神聖なる乙女の柔肌に、一介の民草の無骨な指が触れることもまた許されない。

 交わる相手は、必然的に近親者に限られた。

 それは期せずして、ある因子の潜性遺伝を引き起こす。潜性遺伝子同士の掛け合わせで顕在化する因子。そう、ヴォルナギリの言葉を解する優れた聴覚だ。

 代々受け継がれてきた神性は、海の民エルモアの信仰が図らずして生んだ、ある種の疾患だった。

奏歌巫ファントゥナギリ、そろそろ」

 新たに侍女となった魚の面が告げる。彼女が指し示す方を見れば、アルマタに寄り添う一回りほど小さな個体の姿があった。ケテイネと名付けられた、新たな神だ。

 〝移住〟は既に済んでいて、副肺スクツァルのシュビレスク化が着々と進んでいる。乗り移った者が半数。もう半数は、アルマタと最期を迎えることを選んだようだ。

「ええ。だけど、あと少しだけ」

 ファントゥナギリは再び赤く染まる海へと視線を向ける。彼女はこの朝の光景、そして、「さよなら、リトゥリ」と震える声で真名を呼んだ母の顔を、生涯忘れることはないだろう。


     ◇


 別れの言葉を最後に、一つの波紋が途絶えゆくのを聞いた。

 かつて大海を渡った偉大なる者の魂が、大いなる意志の環から解き放たれたのだ。

「あぁっ」

 抑えたはずの感情が、嗚咽となって漏れ出した。腕に抱いたフィーテが、心配そうに見上げてくる。

「お母様、泣いているの?」

「いいえ、大丈夫よ。さあ、共に歌いましょう」

 狭い神殿を〝葬歌〟が満たした。

 そこに込められた意味を紐解ける者は、もうこの海にはいない。


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2025年2月14日 14:14

都市と使途 神殿真数 @kamidono

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