第4話


「憶えている」

「そう」

 緋佳里はまだわたしを見続けた。鼻筋の通った日本人らしくない貌は東尋坊とうじんぼうの隅に追いやる探偵もしくは記者風情が督責とくせきせんと前にはだかるようであるからわたしは帰って金魚に餌を与えなければならないのである。さもなくば緋佳里はわたしの不義を大っぴらにあばいてそのうえで見捨ててしまうのである。かの米島をも連想せられる長さにまで髪を伸ばした緋佳里は結局何も言わないからわたしは立ち上がって古吉に背を向けた。

「まだピッツァ焼くよ」

「けど、餌をやらなくちゃあならないから」

「なら、持って帰れば良いじゃない」

 ああそうかと思って坐った。緋佳里は笑って肩に顔を乗せたかと思えばすぐキッチンに行ったが一方の古吉は飛び出た目を動かしながら眉間に皺を寄せ大層不機嫌になり「ピザを早く焼け」と要求した。緋佳里を見ると果せるかなピイマンを切る包丁の手が動いていなかった。わたしは怖くなって組んでいる足を見た。

「だいたい『ピザ』ではなくわざわざ『ピッツァ』と呼んでいるのに『ピザ』と言う意味はどこにあるんでしょう。所詮あなたは人の家に上がって人の作った料理を食べているだけなのにも拘らずなしてそげな態度をとるんでしょう。どこにその権利があるんでしょう。どうしてここにいるんでしょう。その役割を考えたことがありますか」

 川水がひとたびに千里を流るるが如く滔々とうとうと話すも古吉が鉄仮面になって言葉を発さなかったのは緋佳里の右手にありし庖丁が俎上でなく舌上正しくは咥内に置かれて滴下した紅血が薄桃色の絨毯に池を作ることにより極めて濃淡コントラストの高き一枚の画をなしていたからである。緋佳里はただ手関節のみ動かすことで口をり歯牙一つ残らず排すほどになると古吉は糸を切られた操り人形になってしぼんでしまった。緋佳里は古吉を見下ろすように立ってわたしはその姿を見ているだけだった。五分もすると持ち帰るためのピッツァの準備に取り掛かった。

「けれどもわたしの家に箱はないからピッツァはいかにして持って帰るの」

「弱ったね」

 冬の夜は東京でも十分に寒いから仮令たとい緋佳里とわたしの家が近くとも冷えてしまうゆえいかがせむと押し黙っているとピッツァをオーブンレンジに戻した緋佳里が再び赤き庖丁を持ったかと思えば古吉を指してかく語りき。

「ちょうどよい箱があるじゃない」

 緋佳里の意図することは言外に解ったから頷いた。ゆっくり古吉の殻に近づくと薄布を剝いで現れた浅黒い肌に刃を立て十字の切り込みを作り予備動作もなく緋佳里は古吉の筋を断って肺の下から胃を取り出した。幽門からは鮮血と水飴が漏れていたがこれを割って開くとまたも血と潰えた食物が溢れて元の胃よりずいぶんと小さくなってしまったが一応の容器を拵えることができた。胃にピッツァを置きわたしは辷らぬよう慎重に持ち上げた。

「それじゃあ今日はどうもありがとう」

 ――うんと微笑んだ緋佳里は朱い手袋をしていたがその手はわたしの前頸部に当てられ壁に押さえつけるように伸びた。貌の半分は鮮やかな体液に覆われ血海に眼球が浮かび長き睫毛の奥には角膜と水晶体があって水晶体で屈折したわたしと目が合う。わたしは微かに笑みを浮かべていたがすぐに波へと消えていった。頬に烈しい鼻息が当り口を開けば粘膜が乾涸びてすっかり力が入らないからピッツァを手から離してしゃがみ込むと竟に口が接着した。

 気が済んだらしい緋佳里は一切の抵抗をしなかったわたしを見下ろすと濡れた唇の隙間から雪白なる歯を見せた。

 わたしは墜ちたピッツァと胃を拾って抱き着いてくる緋佳里の腕を優しく払いながら足早に部屋を去った。

 金魚に餌を与えリビングに戻ると机上にあったピッツァが視界に侵入した。トマトソースか血液かで汚れたテーブルには気をかけずほんの一切れを口に入れると鉄臭い味が鼻腔にまで広がり先の緋佳里との行為が想起せられたことによる激しい動悸と時同じくして強烈な嫌悪感にも勝る興奮が脊髄直下に臀部を突き抜けたから膝から崩れ落ちまた口内の食物が緋佳里の手によって作られたものかと思えば腸から遡るように胃酸もろとも朱く輝ける内容物を快速に吐き散らしたのである。


 (了)

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テークアウト 雪見心理 @myogonichi2004

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