第3話


 わたしが緋佳里と初めて出会った日は彼女と同じクラスになった第二学年の春ではなく中学第一学年だった七月の第一週すなわち夏休みを目前に控えた金曜の夕方である。わたしはその時から重く苦しい文鎮を背負って緋文字を胸に抱えているのである。

 故郷の中学でわたしはさして悪い成績を取るような生徒でなかった。生れつき馬鹿な真似をできない体だったから学童期はこのために随分と悩まされたが中学にも上がるとようやく馬鹿が馬鹿を見る目になり平穏な生活が始まったかと思われた。授業は真面目に聞くものだから定期考査で間違えることは滅多になく生徒会にも立候補を勧められるくらいだったが無用な責任は負うばかり損になるからと立候補は断って歴史研究部という活動実態のない部に所属していたため放課になれば大して蔵書のない図書室に行ってありふれた大衆小説を読むだけの起伏の少ない学校生活を過ごしていただけなのに嫌気が差すことはなかったのかと言われると答に窮す。なぜならその生活は長く続くことがなかったからである。

 わたしの第一学年時の担任は米島よねしまという女でまだ大学を卒業してまもない英語科の新人教員だった。地元では教諭の成り手が不足していたために米島は不運にもわたしたちのクラスを受け持つことになってしまったが彼女は至って冷静沈着であり理知的であり生徒のくだらぬ悪戯にはまともに取り合わなかった。もっとも適切な対処法であろう。馬鹿どもなどは放置しておけばそのうち大問題を起こすか飽きが来て自然と止すだろうと見込んでいたのである。ひどい目に遭う米島をすぐそばで目撃した時に堪えきれなくなって思わず駆け寄ったことがあったが彼女は首を振るだけで何も言わずにその場を去った。むだに怒らぬ聡明な人物に思えたからわたしは彼女に強く惹かれたこの情は恋とはまた異なると考えていたが今となっては分らず仕舞いである。その彼女はよくわたしを授業中に指名しこの具合に習う英語は他愛もない文法事項だからわたしが即答することで授業は円滑に進んでいた。とても褒められた授業法でないもののとにかくそれでもわたしは米島を慕っていたのである。

 そして来る夏の夕暮れにわたしはこの米島から体育館裏に呼び出された。定期考査では学年でも指折りの成績をおさめそれでもなお呼び出しされるのだから彼女のご機嫌を損ねてしまったのだろうかと思案しつつ最終下校時刻十分前のまだ太陽が完全に落ちていない頃合いにわたしは常に陰になって草の生えぬ体育館の裏に向った。髪を不便になるほどに伸ばした米島はすでにそこにいてわたしが会釈をすると無言で近づいてきた。

「米島先生、どうしたのです」と言えば米島は止まって「はあ分らないわ」と続けて「今からすることを誰にも話してはなりません」と言うから意味が分らず黙っていると米島はわたしの頸に手を伸ばしてそのまま体育館の外壁に押し付けた。陰になって見えぬはずの彼女の貌からはなぜかうるんで白くひかる眼だけが浮かび上がりその水面上にはわたしを映しだしていたのである。陽炎のわたしが徐々に大きくなって思わず転瞬すると突如として下顎骨かがくこつに羊羹が打ち付けられ水音を立てながらこれが唇に吸着した。酸素を吸入できないためにわたしの思考はしばらく砂嵐に吹き飛ばされていたが米島から流るる廃液が咽頭喉頭いんとうこうとう気管にまで達せられて発現した咳反射によりかくなる情況をぴたりと理解したのである。米島はわたしの頭に手を回して泉門せんもんをこじ開けようと強く掴み始めてこれに抵抗せんと暴れるわたしの四肢は虚空を掬うだけであったからせっかく還った思考も再び淵に落ちてしまうかと思われるもそうはならなかった。突然にからだが自由になった反動でわたしは地面に坐り込んだが見上げると米島が灰汁を垂れ流しながら校庭側に貌を向けておりわたしもこれに倣うとどういうわけか女がいたのである。この女が緋佳里である。すると米島はわたしに視線を戻して再び貌を近づけたがしかし緋佳里が大声を出したからすっかり血を喪ったようで音を殺して去っていきそのまま微動だにせず漠々と呻いていると肩先まで髪を伸ばした緋佳里が柔らかな土を踏みしめて屈みこんで顔を近づけた。赤銅の緋佳里の眼はわたしを銅色に映していた。緋佳里の眼にいるわたしと目が合う。そのわたしは真顔でいた。わたしはまたわたしを見てそしてわたしを見ているのである。

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