第2話


 扉を開けた位置でわたしは立ったままであったが緋佳里に押され古吉と差向に坐ることになった。彼とは大学が始まったばかりであるから二十二カ月ほど前に講義で一度だけ隣になってしまったことがある。そのための数単語しか交わしたことがないから向うはわたしをうに忘れているだろうと思っていたがそうではないらしく低く聞き取りにくい声を出した。

「前に……席が隣になったか……」

「……そうだね」

「ああ」

 時変はさずに古吉はテーブルのコップへと魚眼の焦点を合わせた。わたしは首をゆっくり回転させひかがみにまで髪を伸ばしている緋佳里に目をやるとキッチン横にある棚の天板上に据えられた白色のオーブンレンジをしばしば確認して物を取ったかと思えば置くなどの行動を繰り返していた。仕方がないからなぜ古吉がここにいるのか当人にただすとアルバイトの職場が緋佳里と同じでそれゆえに今日はお呼ばれしたと言うのである。

「それは本当なのか」

「本当だ」

「君に言っているんじゃあないよ。緋佳里に聞いているんだ」と返せば古吉は「ならば俺の顔を見て言うんでなくて緋佳里の顔を見て言え」と言うからさもありなんと緋佳里を見ると「そうよ」とわたしを見ることなく呟いた。これは何かのあやまりであるいは単に古吉が無理を言って押しかけてきただけであればどれほどこの弱小な心持がいだであろうかと目を閉じた。

 しかしまた緋佳里の交際関係に口を出そうとは少しも思わぬ。哀れな一兵卒が上官命令に絶対であるように緋佳里にわたしは逆らうことができないふうであるとはいえわたしがしもべであるとするのはむつかしく例えば主にひたすら従順で愚直に倣う者は隷とでも確かに言えるけれどもわたしは緋佳里の言うことにつき無批判に従っているわけでなく自律的判断装置たる「緋佳里」に干渉することに嫌気が差して――それはまた逆に彼女がわたしに干渉することを忌んでいるだけなのである。返せばわたしはこの女にさえ侵入して一つの主体となれぬ男なのである。

 目を開けたわたしは緋佳里の後ろに立って黒髪の間に見える白皮のくびを一瞥しオーブンレンジの中を凝視する。微量たる桃の匂いは瑞々しい彼女の肌から発せられていたらしいがすぐさま焦げ臭い空気が顔を覆った。赤色光を浴びているピッツァの上のチーズは泡になっては弾けていてしばらく見ているとただに薄い意識が喪失するばかりでなく別の新たしき強酸性の人格がスウッと鼻先からつま先まで毛細血管を支配しそうであるのに緋佳里は数分頭を動かすことなくしかしそのうちに気づいてわたしに向き直ると頬を少し赤らめたちまちに目を逸らしそのまま直立していた。わたしは寒天の上に全身を突き落とされたあの奇怪珍妙の生物的ぬめりと卑小の生暖かさに包まれていたかつての貌の触覚がまたも心臓を強く縛り上げるような感覚に襲われた。それは面皰にきびもぐら男がいるテーブルに戻っていなければどうしようもならないほどの嗚咽を引き起こすものでありながら鈍麻の古吉は気にするそぶりもせずわたしと緋佳里を交互に見てやがて低い声で問うてきた。

「お前と緋佳里は、どういう関係なんだ」

 緋佳里は応えなかった。胃酸を飲んでわたしは返した。

「どうもなにも、中学の級友で、大学が同じ、というだけだが」

「それだけには見えねえが」

 古吉からする非生物的な刺激臭はタールとニコチンとアルコホルに由来するのだろうがそれより見るからに下劣下賤の男がわたしたちに対して要らぬつまらぬ役立たぬ詮索をしていることのほうが厭だった。「君は眼医者に診てもらったほうがいいらしい」と言えば古吉は黙ってコップの麦茶を飲み干すとあごの髭をいじくりながら「ピザはまだか」と叫んだ。わたしはいつからか心のうちに温めていた癇癪かんしゃくを引き起こして殴らんと立ち上がろうとしたところで肩に二本の腕が乗り耳元で「言わせておいて」と音がしたから座り直すほかなかった。竜の如き癇癪は蛇の如く藪に消えていった。

 古吉が再びピッツァを要求したところで緋佳里は大皿を持ってきたが壁掛け時計は午後七時四十五分を示していた。均一に焼き色が付いた生地は柔らかくトマトソースの酸味は調度がよくて緋佳里が調理師免許を持っていれば店を出せる出来栄えで古吉もうまいと言ったが誰も返事することなくわたしと緋佳里は二人であれこれ話ながら食べていた。

 八時を回りピッツァ二枚を三人で平らげたところで第三脳室にてわたしの神経を喰っていた扁形動物あるいはその類型の素性が判った。わたしは神経が何のゆえに食い蝕まれているのかおよそ見当がついていなかったが簡単なことであった。行為の欠落である。気が向いていなかった空間にようやく灯台の光が届いたわけであってつまりとめどない不安があたかも雪崩アバランシュの押し寄せるが如く生み出されるあの原初感覚が完全によみがえったのである。自覚しながらも心臓の拍動を止められないのと同じで思考を止めるとか後に回すとか代替手段を取ることができないのである。

「餌を与えていないかもしれない」

金魚デメキンに?」と緋佳里が言ったので頷いた。わたしは一人暮しに色取があったほうがよろしいと金魚を飼っているが彼には午後七時きっかりに餌を与えるきまりなのである。このきまりは誰が決めたことでもなくただそういう習慣となっているだけであるがしかしこれを破ることは許されないのである。さらばこの緋佳里は何を言い出すか分らないからである。

「ねえ、憶えてる?」と緋佳里は身を乗り出した。

「何を」

「あの時のこと」

 緋佳里の眼はわたしを銅色に映していた。緋佳里の眼にいるわたしと目が合う。そのわたしはまたわたしを見てそしてわたしを見ているのである。あの日と同じである。

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