おやすみ映画館

まさつき

おやすみ映画館

 都心のビル街から少し外れた路地で、私は立ち止まった。

 蛍光灯が明滅する看板の下、手書きの張り紙告知に、引き留められたのだ。

「ここも閉店か……」と独り言ちる私は、知らず定年間近の我が身と閉店を知らせるミニシアターのチラシを、重ねていた。


幻燈射影館げんとうしゃえいかん」は私が上京して以来、小さな商事会社に勤めてからずっと、折に触れて立ち寄っていた映画館だ。たしか経営者は、私よりニ十歳ばかり上の高齢者だった思う。寄る年波には勝てないのか、単に金の問題なのか、とにかくまたひとつ、私を形作った風景の一枚が、アルバムの隅っこに追いやられることになるのだ。


 映画館最後の作品は『昭和の断片』、これまた聞いたことのないタイトルの映画だった。一体どこで買い付けてくるのか、あいかわらず分からない。だがそこが、この小さな映画館の魅力でもある。

 開始まで20分、40分尺の上映時間だから、映画館を出てから駅まで走れば、終電には十分に間に合いそうだ。


 客席は意外なほど埋まっていた。私と同じような思いの人間が多かったのかもしれない。閉店日を惜しむラーメン屋にできる、わざとらしい行列みたいなものかと自嘲する思いも浮かんでしまう。


 スクリーンには私が生まれたころの商店街が映し出されていた。日常の何気ない風景が織りなす、群像劇のようだ。短編映画ながらも、物語はゆったりとしたペースで流れていく。今どきの映画みたいに、10分で客を掴んで引き込もうなどという、せっかちな作劇でないことは確かだった。


 しかし、やはりそんな掴みの映画は、今どきの客には退屈なのかもしれない。

 いつの間にか、満席同然の客席から、歯が欠けたように人影が消えていた。

 目の前に座っていた、ボーラーハットの男もいなくなった。帽子で鑑賞を邪魔をしていたマナーの悪い客がいなくなって、私としてはありがたい。


 そうしてぽつりぽつりと客が消えるうち、不思議なことに気づいた。

 誰が席を立っても、音一つしない。ドアの開閉音も、差し込む外光も無かった。

 視界を横切る歩き姿にも覚えがない。

 それなのに、客席の人影が次第に薄れていく。

 そんな不可思議な違和感を覚えながらも、私はますます、スクリーンに映る懐かしい風景に引き込まれて、目が離せなくなっていた。


 映画は、一本筋の通った物語を紡ぎはしなかった。ひとつひとつのシーンを、市井の人々の人生をタイトル通りに「断片」として、淡々と描いていく。それが却って、私の心を深く、ときに抉るように打つのである。

 今は、古ぼけた八百屋の前で、ボーラーハットを被った紳士がなにやら野菜を買い求める姿を映していた。裕福そうな身なりのくせに、値段の交渉をしているらしい。

 画面の端では、路地裏に何かを追うようにして、制服姿の女学生が消えていく姿があった。あの制服、たしか隣に座った若い女性が着ていたものと、同じような……。


 夏空のパノラマを挟んで、場面が変った。

 スクリーンに、馴染みのある思い出深い雑貨屋が現れた。

 横並びの数件、今では大型店舗のビルに建て替わった辺りの土地にあった店だ。

 見覚えのある店番の娘が、登場していた。

 あの頃とまったく同じに、胸が高鳴った。

 夏になると、この雑貨屋の店先ではラムネが売られていた。

 足しげく通ったものだ。

 最初は素直にラムネを目当てにしていたが、いつの間にか、名も聞けずにいた娘へと、私の目当ては変っていた。


 妻とは、見合いで結婚した。

 雑貨屋のひとり娘に私が心を奪われたのは、それ以前のこと。

 名前を聞こうと、意を決して声をかけると決めた日――娘は、いなくなった。

 後から聞いた話では、肺を患い地方の療養所に入院してのち、亡くなったという。

 会えるものなら、もう一度会いたい。もう一度、本当なら、あの時、こうしていれば……そんな夢を、映画はいつでも叶えてくれた。

 今だって――と、私は静かに、目を閉じる。


 ――瞼の向うに、暑い日差しを感じた。

 目を開ける。

 夏風に吹かれてはためくラムネののぼり旗の隣に、焦がれた娘の姿があった。

「今日も暑いですね」と声をかける私の手の中には、映画のチケットが二枚、握らていた――私はあの日、彼女を映画に誘おうとしていた。

 意気地がなくて叶わず、私はもう一度次の日にチケットを買い直して……駄目だ、今誘わなければ、駄目なのだ。


 ラムネを買う小銭と一緒に、映画のチケットを差し出した。

 会社の面接を受けた時よりも、よほど緊張していた。

 何をどう言って誘ったのか、後からまるで思い出せないほどだった。

「待っています」とその言葉だけを、私は鮮明に覚えていた。


 その日の仕事を定時に終えてすぐ、私は娘を迎えに行った。

 彼女は、荷物を詰めた旅行鞄を携えていた。映画を見終えてきっと、療養所への列車に乗るのだろう。


 真新しい幻燈射影館のシートは、とても座り心地が良かった。

 しんと静かな客席には、私と彼女のふたりだけしかいなかった。

 彼女の息づかいだけが、聞こえていた。

 本日最後の上映時間を迎え、ブザーが鳴り、暗くなった。

 映画のタイトルは『在りし日を再び』。短編映画だ。

  再会した恋人同士が――というような、情緒と哀愁溢れる、若い男女の登場人物が織りなす……とても感動的な物語で、恥ずかしながら私は、泣いていた。

 しかし、彼女の隣で緊張しすぎて、やはり話の筋はあまり入らずでもあり――。


 ――上映が終わって、客席は静かな明るさを取り戻していた。

 隣から、かすかな嗚咽が聞こえる。

 娘の瞳では穏やかな照明を受けて、涙が光っていた。

 私の眼がしらも、熱くなっている。

「良い映画でしたね」と、私たちは笑みを交わした。


 映画館を後にすると、外は気持ちの良い夜風が吹く時間になっていた。

 ネオンの消えた映画館を振り返ると、年若い店主が入口扉の札を「CLOSE」にかけ替えていた。

 店主の腕の中にはフィルムリールが数本、大切そうに抱えられていた。

 彼は私と娘に、軽くお辞儀をしてから「おやすみなさい」と一言、声をかけた。

 そうして暗い路地の向うへと去り、姿を消した。


 私は――いったい、どこへ去ればよいのだろう?

 となりで咳をする娘のハンカチに、赤いものが滲んだ。

 彼女の手を握って「一緒に行きます」と、私は呟いていた。

 手の中にある小さな娘の手に、小さく力がこもった。

 そうだ――ここから新しい物語を、私は彼女と紡いでいこう。

 私が本当に演じたかった物語を、真新しい、フイルムに焼きつけて。

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おやすみ映画館 まさつき @masatsuki

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