つま先まで、しびれてる

大田康湖

つま先まで、しびれてる

 1992年(平成4年)大みそかの夜。いつもより早く店じまいした喫茶店「リッチ」では、店主の娘で24歳の関本せきもと定子さだこと28歳の店員、田城たしろまもるが店内の掃除をしていた。定子はカウンター、士は座席の担当である。

「これも掛け替えなくちゃ」

 ベージュのワンピースにエプロン姿、セミロングの髪をバレッタで押さえた定子は、1993年(平成5年)と書かれた一枚物のカレンダーを持つと、カウンターの奥を見た。一所懸命つま先立ちして画鋲を外そうとするが、背の低い定子ではなかなか届かない。その時、背後から声がかかった。

「手伝いましょうか」

 グレーのセーターにオリーブ色のチノパン、エプロン姿の青年が立っている。

「士さん、良かった。上の画鋲に手が届かなくて」

 定子は士をカウンターの奥へ迎え入れた。


 士が古いカレンダーの画鋲を外すと、新しいカレンダーを上から張り替えた。カレンダーの下部は定子が支えている。

「お店の定休日に印を付けておいたの。士さんのお休みも後で付けといてね」

 定子の言うとおり、水曜日と1月1日にピンクのマーカーが引かれている。

「ありがとうございます。定子さん、弟のちからのことで少し話があるのですが」

「なあに」

 下のカレンダーを貼り替えながら定子が尋ねる。

「実は、力がうちのメッキ工場に正式に就職することが決まりました。大学を出てもこの不況で就職口が無くて、それなら工場の跡継ぎになろうと決めたそうです」

「おめでとう。でも、そうするとチヨとはどうなるの」

 チヨというのは定子の親友、村橋むらはしやちよで、薬剤師になるため東京の医大に行っている。力とは高校時代からの付き合いだ。

「やちよさんも陽光原ようこうばら周辺で就職先を探して、大学を出たら結婚するそうです」

「そんな大事なこと、チヨは何にも言ってくれなかった」

 軽くむくれる定子を見ながら、士は真剣な声で呼びかけた。

「それで、僕たちのことについてもそろそろ考えないと、と思ったんです。僕は『リッチ』の味が大好きです。この味を引き継ぐと同時に、僕の好きなブレンドも極めたいと思っています。そして、もちろん定子さんのことも」

「え?」

 定子はあえて何も聞いていなかったように問い返す。

「力とも話し合って、決めたんです。僕は定子さんと結婚して、関本せきもとまもるになる。そしてもし息子が生まれたら『直利なおとし』とつけたいんです。昔僕が付けてもらったもう一つの名前を」

 定子の脳裏に7年前、士と出会った時のことが浮かぶ。記憶喪失で河原に倒れていたところを定子とやちよに保護され、記憶を取り戻すまで関本家で過ごした日々が、どれほど士に強く刻まれているのか。定子は胸が押しつぶされそうになりながら答えた。

「嬉しい。きっとパパとママも喜ぶわ」

「僕ももうすぐ30だし、力とやちよさんが結婚するのなら、これ以上定子さんを待たせてはいけないと思ってます。定子さんはどうですか」

 士の言葉は、定子がずっと待っていたものだった。

「断るわけ、無いじゃない」

 定子は立ち上がるとつま先立ちして士に抱きついた。士は定子を抱き留めると、そっと頭を押さえる。

「背伸びしなくてもいいんですよ。僕が合わせますから」

 定子の唇は士の唇で塞がれていた。靴のかかとが地面に付く。

(つま先まで、しびれてる)

 士の気持ちを全身で受け止めながら、定子の心は震えていた。やがて唇を離した士が、照れたようにささやく。

「こないだ見たドラマを真似してみました。どうですか」

「満点よ」

 定子が微笑んだその時、「リッチ」のドアが開いた。定子の父、直定なおさだが呼びかける。

「そろそろ片付いたと思って来たが、まだ早かったかな」

 二人は慌てて体を離すと、何事もなかったように掃除の続きを始めた。


終わり

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