最終話 『満月の夜に吹く風は』

 ヤキタテがいなくなり、しんと静まり返った部屋に一人。あたしはヤキタテの残した欠けらをぼんやりと眺めていた。

 種みたいだ。植えたら芽が出るだろうか。そんな突拍子もない想像をした自分が可笑しくて少しだけ笑えた。

 置きっぱなしだったあのマグカップ、ヤキタテが倒した拍子に欠けてしまったお気に入りのマグカップに土を入れ、そっと欠けらを埋めた。その上にマーガリンを少しだけのせ、スティックシュガーを一袋振りかけてみる。でも何日たっても何も起こらなかった。

 相変わらずの激務に追われる毎日。ただ機械のように仕事をこなし、帰ったら顔も洗わずに寝落ちする生活。ヤキタテのいない日々は何もかもが味気なく、すっかり色を失っていた。もうたぶん、あたしには何の感情も残っていない、そんな気さえした。


 

 また満月の夜がやってきた。

 夜はすっかり冷たくなっていて、肩をすくめながら帰宅したあたしの鼻先を、懐かしい甘い香りがくすぐった。

 思わず玄関で足を止めた。その香りが疲れた体にゆっくりとしみ込んでいくと同時に、心の奥をがつんと揺さぶられたような感覚を覚えた。導かれるように香りの元へ一歩、また一歩と足を進める。

 あたしの視線の先にはあのマグカップがあった。土の中から小さな芽がそっと顔をのぞかせている。あたしの帰りを待っていたかのように、その芽がふるっと揺れた。

 

 ――ああ、ヤキタテの香りだ。


 あたしの中でずっと張りつめていた何かが、ぷつんと音を立てて切れた。


「ヤキタテ……っ」


 その名前を口にした途端、目の前が一気にぼやけた。嗚咽とともに、胸の奥に長い間閉じ込めていた重苦しいものが静かに流れ出ていく。代わりに温かい甘い香りが、空っぽになった心をじんわりと潤していった。


 

 リフレッシュしよう。

 心からそう思った。休むことは決して甘えではないのだから。どうしてだろう、ずっと前から立ちどまることなんて許されない気がしていた。

 これまでのあたしは、ただがむしゃらに働いて、自分を追い詰めて。眠れない夜も、食事を抜いた日も、すべてが当たり前のように過ぎていき、いつの間にか心が冷たく乾ききっていたことにも気づけずにいたのだ。

 弱弱しい鳴き声に引き寄せられたあの夜、迷子だったのはヤキタテだけじゃなかったのかもしれない。本当はずっと、あたしが迷っていたのだ。

 誰に何を言われても、あたしの意思は変わらなかった。だから、きっぱりと会社を辞めた。あまりにも毅然としていたせいか、何かに取り憑かれたとか、乗っ取られたとか、そんな風に噂されていたらしいが、もう関係のないことだ。

 ヤキタテが見守ってくれている、そんな揺るがない確信があたしにはあった。

 

 あたしはそっとスマホのメモ帳を開いた。

 そこにはまだ書きかけの、明るい世界が広がっている。どうしても書き残したかったのだ。あの不思議な温かい日々を、あたしとヤキタテの最高の物語を。

 タイトルは、そう――『満月の夜に吹く風は』。

 

 少しだけ窓を開ける。かつての巨大な「月」が静かにあたしを見下ろしていた。

 部屋の隅に『にゅ、にゅっ……』と楽しそうに遊ぶヤキタテの姿が見えた気がして、思わず「ふふっ」と笑い声が漏れた。ふわふわと宙に浮かぶように跳ねるヤキタテは、柔らかな光に包まれている。淡い光が揺れるたびに、部屋の空気がほんのり温かくなっていくようだった。

 

 さあ、物語の続きを書こう。

 淡い光に照らされた部屋でマグカップの小さな芽がぷるんと揺れ、風が甘く吹き抜けていった。

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『満月の夜に吹く風は』 ゆげ @-75mtk

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