第六話 月夜のメロンパン
その次の満月はとんでもなく大きかった。
今夜も残業だ。あたしはなぜか胸騒ぎが止まらなかった。そんなはずはないのにそこらじゅうが香ばしい甘い香りでいっぱいのような気がして。
ふとヤキタテの声が聞こえた気がして、あたしは立ち上がった。同僚たちの不審そうな視線、キレる上司。でもそんなものどうでもよかった。気が気じゃなくて、あたしは会社を飛び出した。残った仕事は明日埋め合わせすればいい、今はヤキタテが最優先だ。
たった五センチのヒールが、こんなに邪魔に感じたことはない。何度も転びそうになりながら、アパートまでの道を走った。
「ヤキタテ……?」
甘い香りを乗せた風が吹いてくる。ヤキタテはまるで風に乗るようにふわふわと夜空に浮かんでいた。隣には淡い黄金色の光を放つ大きな丸い物体、その正体に気づいてあたしは度肝を抜かれた。
それは満月なんかじゃなかった。夜空に浮かぶ巨大な――メロンパン。表面にはほんのりと焼き目がついていて、クレーターのような模様を浮かび上がらせている。
あたしはその場に立ち尽くした。目の前に広がる光景が、すぐには信じられなくて。
――何? 妖……怪? あんなに大きな……どうして?
次々と疑問がわいてくるが、 不思議と恐怖は感じなかった。それよりも……。
「待って、あたしを置いて行かないでっ」
それだけ叫んで、あたしは座り込んだ。本当は呼び止めたいのに、追いかけたいのに、体が言うことを聞かない。
「いつもマーガリンばっかでごめん、今度とびきり美味しいバター買ってくるからあっ」
ヤキタテは一度、巨大メロンパンをゆっくり振り返った。巨大メロンパンの表面が優しい光を帯び、微笑んだように見えた。それが合図だったように、ヤキタテはあたしの元へと降りてきた。
両手を差し出しそっと受け止める。ふわりと触れた瞬間、ヤキタテの意識が流れ込んできた。実際にそうだったのかは分からないけれど、ヤキタテの動きや表情から、ヤキタテの気持ちが全部伝わってきたような気がした。こんなの、初めてだ。
『にゅう……ポポポ……』
――ああそうか、ヤキタテは迷子だったんだ。やっと、帰れるんだね。甘い風の向こうにいる仲間のところに。一年に一度、月が地球に一番近づくこの特別な夜に、やっと……。
『イッショニ、イテクレテ、アリガトウ。タノシカッタ』
今度はヤキタテの声ではっきりとそう聞こえた……気がした。嬉しそうで、それでいて寂しそうな気配を感じ、思わずぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう、あたしも……あたしも楽しかった」
声が震える。止めてはいけないことは分かっていた。もう止められないことも。
こみ上げてくる涙をこらえ、あたしはヤキタテを見つめて精いっぱいの笑顔を作った。
「元気でね、ヤキタテっ……」
『ポポポポ……ククク……』
ヤキタテが笑うと、あたしの手元で何かが明るく光った。ヤキタテが残していった最後の贈り物、それはヤキタテの欠けらだった。
うっすらと光をまとったヤキタテは、どこか誇らしげに見えた。そしてそのまま飛び跳ねるように宙を舞い、まるで吸い込まれるように巨大メロンパンの中心へと消えていった。
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