第五話 夜空を見上げて

 次の満月の夜、月はやけに大きかった。

 また帰りが遅くなってしまった。何かがひっそりと忍び寄ってくるような、普段の静けさとは違う、どこか異様な気配が漂っている。落ち着かなくて、あたしは足早にアパートを目指した。

 家に帰ると、そこにヤキタテの姿はなかった。温かかったはずの部屋は今日は寒々としていて、ひどく広く感じた。

 あたしは半狂乱になってヤキタテを探した。何度も何度も名前を呼ぶうちに、心の中では焦りがじわじわと膨らんでいく。冷たい汗が背中を伝う。部屋中を探しつくした。クローゼットの中も、ソファの下も、棚の隙間も。でも、ヤキタテはどこにも見つからなかった。


 ――ヤキタテがいない。


 冷静でなんかいられなかった。あたしはついに耐えきれなくなって座り込んだ。深呼吸して気を静めようとしたそのとき、頬に微かな風を感じた。カーテンが揺れている。


 ――まさか……。


 ふらふらとベランダへ近づく。窓だ、窓が少しだけ開いていた。


『クッカッカ! プルッポ!』


 突然ヤキタテの興奮した声が頭上から聞こえた。はっとベランダに飛び出し、視線を上に向ける。

 ヤキタテは空に浮かんでいた。丸い体が月光を浴びて、まるで星のように輝いていた。


「ヤキタテ!」


 驚きと安堵が一気に胸に押し寄せ、思わず叫んだ。ヤキタテは上空でくるりと一回転して、一直線にあたしの元へ戻ってきた。

 

『にゅにゅにゅぅん』

「あんた飛べたんだね、知らなかった」


 口から出た言葉は、それだけ。体中の力が抜けて膝から崩れそうになりながら、ただその小さな背中を撫でた。

 ヤキタテはまだ興奮した様子でしきりに鳴き続けている。まるで何かを訴えるかのように。


 

 何とも言えない妙な予感がした。月を見上げるたびに感じる、胸が締め付けられるような違和感。ヤキタテがいつか本当にいなくなってしまうのではないか、そんな不安が胸の中に居座り、どれだけ振り払おうとしても消えることはなかった。


 それからの日々は何事もなく過ぎていった。

 あの夜以来、ヤキタテが勝手に外に出ることはなかった。その代わり、窓の外を見つめてはぼんやりと過ごす姿を度々見かけた。いや、違う。あたしが気づかなかっただけで、ヤキタテは今までだって空を眺めるのが好きだったではないか。

 気にしすぎかもしれないけれど。その後ろ姿はどこか寂しそうで、まるで何かを隠しているようにも見えた。

 それでも、ヤキタテがいつものようにマーガリンをおねだりしたり、部屋の中で飛び跳ねて遊ぶ様子を見る度に、ああやっぱりいつも通りだと胸をなでおろすのだった。

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