後編-2

 ベランダで雨を見ながら、スマホ触っている怜は、スマホのカメラを起動してインカメラにした。なんとなく、髪型が気になったからだ。

天斗には何度も寝起きは見られているし、だらしない姿も見せてはいるが、やはりかわいい姿を見られたい。久しぶりに会うならなおさらだ。

鏡代わりに画面を見ているとリビングにいる天斗の姿が映った。

天斗は、テレビに近づくとなにやらリモコンを持って、それをエアコンの方に向けていた。エアコンをつけたようだった。ベランダの室外機が勢いよく動き出して、怜は驚いた。それと同時に天斗の肩が小さく跳ねたのが見えた。

「あーびっくりした。あの時の設定戻してなかったのか」

 怜は一人呟いた。

 先週、これから梅雨本番だと言うのにフライングしたかのような夏日があった。その日をチャンスだと思った怜は、冷房が強くても平気になれるようにとある挑戦をしていたのだった。

 怜は寒がりで天斗は暑がりと正反対な二人のため特に夏場は、なかなかお互いにとって快適に過ごすのが難しかった。そこで、怜は暑がりな天斗に合わせることにした。冷房が強くても厚着をすればいいのだと考えた。そして、この挑戦は功を成し秋冬用のカーディガンを着て、足にはブランケットを掛けることで天斗に合わせた冷房の設定でお互いに快適に過ごせると分かった。

 昨年の夏は、怜が社会人になりたてで慌ただしく、二人はお盆休みもほとんど会うことができなかった。だが、社会人二年目になり、仕事にも慣れてきたので昨年よりはずっと余裕のあるお盆休みを迎えられそうだった。天斗も就活があるがお盆期間中は、あまり動きがないので、遠くに出かけるのは難しいが今年は家でのんびり過ごすことができそうだった。そのための挑戦であった。

 エアコンの動作に驚いていた天斗が面白く。怜はインカメラを起動したままにして、リビングにいる天斗を観察することにした。

 天斗はテレビをつけたかと思うと退屈そうにそれを見て、すぐに消した。そこからしばらくソファーに座っていた天斗は、おもむろに立ち上がってキャビネットの方に近づいていった。天斗はキャビネットの前で止まると、その上に置いてあったものを手に取った。

 それは怜が、昨日までの北海道旅行で富良野に行った際に手作りしたアロマキャンドルだった。

 天斗は、怜の作ったアロマキャンドルを不思議そうに見つめている。そんな天斗を画面越しに見ている怜は、顔が熱くなるのを感じた。あれは天斗には、できれば見られたくなかった。でも、一秒でも早く部屋に飾りたかったので、怜は北海道から帰ってくるなり、いの一番に荷物から取り出してキャビネットの上に置いたのだ。

 天斗はしばしアロマキャンドルを見つめて、それをキャビネットに戻そうとした。だが、キャビネットに置く寸前に天斗は、アロマキャンドルの下を覗き込んだ。

 それを見て、怜は思わずその場にしゃがみ込んだ。寒がりな怜にとっては、涼しいと感じる気温なのに顔の熱さが全然引かない。雨を浴びて冷ましてやろうかと思い、立ち上がりもう一度画面越しにリビングを見ると、アロマキャンドルはローテーブルに置かれ、天斗はソファーで横になっていた。

 一旦、落ち着こうと怜は、深呼吸する。少し顔の熱さが引いた。

 そして、自分に言い聞かせるように心の中で呟く。

 大丈夫だ。きっと天斗は、あのアロマキャンドルの意味には気付かない。でももし、気付いたら。

 それを考えてまた顔が熱くなる。

 ううん。大丈夫だ。というかばれても別に問題はない。なにか後ろめたいことがあるわけじゃないんだから。ただ、私が恥ずかしい思いをするだけ。もし、天斗に聞かれたら、はっきりと答えてあげよう。それは、天斗を想って作ったものだと。


 怜は、北海道旅行の旅程に組み込まれていた富良野の観光でアロマキャンドルを手作りした。こだわりの強い怜は、二時間あった自由行動の全てをアロマキャンドル作りに費やした。

 そして、完成したアロマキャンドルは、控えめながらも天斗を表したものになった。

 淡い青色は、青空を表しており、容器の底に彫ったHの文字は、ドイツ語で天・空の意味を持つHimmel(ヒンメル)のHから取ったものだ。この二つは、どちらも天斗の名前の天からインスピレーションを得たものだ。

 本当は、天斗の頭文字であるA.Tと彫るのが普通だと思ったが、怜は直接的に天斗のことを指すのは、恥ずかしくて自分だけが分かるようにHと彫った。

 そして、アロマキャンドルの香りはラベンダーの香りを選んだ。だからこそ、ラベンダーが有名な富良野の地でアロマキャンドルを作ったのだ。

 怜がラベンダーの香りを選んだ理由も天斗を表すためのものだった。それは、天斗がラベンダーの香水をつけているからだった。

 天斗は怜と付き合う前の初デートの時から、ラベンダーの香水をつけていた。それは、今も継続してつけている。昨日もつけてきてくれた。だから、怜にとって、天斗の匂いはラベンダーの香りだった。そして、それは怜にとって、もっともよく落ち着く香りでもあった。

 天斗は目を覚まして、ソファーから立ち上がるとアロマキャンドルを元の位置に戻して、ベランダの方に歩いてきた。

 怜はスマホをポケットにしまって、今、天斗が来ていることに気づいたふりをして、微笑んだ。

 天斗がベランダに出てきたので、怜は天斗の隣に立って、手を握った。何だか嬉しくなって、思わず笑みがこぼれてしまう。

「なに?」

 天斗が不思議そうに尋ねてくる。

「ううん。なんでもない。ただ、天斗が来てくれて嬉しいなって」

「僕もベランダくらいなら外にも出るよ」

「そういうことじゃないんだよな」

 わざと拗ねた口調で天斗に言う。悪い癖だ。天斗は優しいからついつい甘えてしまう。それを隠すように怜は天斗よりも一歩だけ前に出た。

「分かってるよ」

 天斗はそう言って、後ろから抱きしめてくれた。怜は、いつもの癖でつい匂いをかいでしまう。ラベンダーの優しくて甘い花の香りがした。これも悪い癖だ。

 抱きしめられながら、怜の心にふとした思いつきが芽生えた。天斗はきっとあのアロマキャンドルの意味に気付かない。でも、それはなんだか寂しいものように思えた。だから、少しだけヒントを上げようと思いついた。

「ヒンメルだよ」

 それだけでは、天斗が充分に理解できないことを怜は分かっていた。しかし、全てを教えてしまうのは、どこか味気なくも感じてしまうので、後は天斗自身に気付いてもらうことにした。

「なにか言った?」

「ううん。ねぇごはん食べに行かない?お腹空いちゃった」

 起きてから何も食べてないから、すごくお腹が空いている。わざとらしくお腹叩いてポーズを天斗に見せた。

「そうだね。何が食べたい?」

 天斗は怜の耳元で優しい声で尋ねる。それをくすぐったく思いながら、怜は少し考えて

「うーん。オムライスがいいかな」

 そう答える。

 怜の頭の中には、白猫のクッションを買いに行った際に訪れたオムライスのお店が浮かんでいた。そこから天斗がヒンメルをドイツ語だと気づいてくれることを、怜は少しだけ期待していた。

「オムライスもいいけど、僕は和食がいいな」

「和食もいいね。そしたら、じゃんけんで決めよう。私が勝ったらオムライスで天斗が勝ったら和食ね」

 怜は天斗の提案を拒否しなかった。なにも今日、あのお店に行く必要はないし、いずれヒンメルの意味とあのアロマキャンドルの意味に天斗が気付いてくれればいい。二人が一緒にいれば、時間はいくらでもあるのだから。その間に天斗にはまたヒントをあげよう。そして、天斗があのアロマキャンドルの意味に気付いたら、一緒にアロマキャンドルに火を灯そう。怜は、そう決めた。

「分かった」

「じゃあ一旦、部屋に戻ろうか。着替えもしちゃいたいし」

 怜がそう言うと天斗は、抱きしめていた手を離した。怜はリビングへと続く窓に手を掛け、後ろを振り向く。

 天斗の目を見つめる。天斗も怜を見つめている。

 怜は、恥ずかしくなり、視線を逸らして空をみた。

 鈍色の曇天のわずかな隙間から青空が覗いている。アロマキャンドルと同じ淡い青色。天の色だ。

「雨、止みそうだね」

 怜の一言に天斗は振り返って、同じように空を見た。

天斗の目には、あの曇天の隙間から見えるわずかばかりの青空は映っているのだろうか、それは怜にはわからない。でも、きっと同じものを見ていると信じて、怜は小さく微笑んだ。

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雨の中、一人錆びつく 石橋 奈緒 @Ishibashi_Nao

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