後編-1

天斗は、ゆっくりと瞼を開いた。どのくらい眠っていたのだろうか。時計を確認すると時間は五分ほどしか経っていなかった。

 いまだに重たい頭を持ち上げて、顔だけベランダの方に向けた。怜は、まだベランダにいた。楽しそうな姿は、五分前と変わっていないように見えた。

 天斗は、ゆっくりと立ち上がった。立ち上がる際にローテーブルに置いたアロマキャンドルを手に取った。

 ガラス容器の横にHと彫られ、かすかに甘い花の香りがする淡い青色のアロマキャンドル。

 天斗は、それをもとあった場所に戻した。怜にそれを天斗が手に取ったことが分からないように。できるだけ元の状態になるように置き直した。

 そして、天斗はベランダに向かって歩いた。

 あのアロマキャンドルは、見なかったことにすると天斗は決めた。

 今の二人の関係が、キャンドルに灯された小さな炎のように心もとなく、そして、やがてはキャンドルのように溶けて消えていってしまう関係だとしても。その炎が少しでも長く燃え続け、キャンドルが溶けていく時間が長くなっていくことを天斗は望んだ。

天斗は窓に手を掛けると天斗の存在に気付いた怜が振り返り、天斗に優しい笑顔を向けた。その笑顔を見て、天斗の心がチクリと痛んだ。それは心の錆が広がった痛みだと天斗は思った。

 天斗はベランダに出た。雨は今も降り続いている。

蒸し暑くて、いい気分とは到底言えない。どうして、怜は雨が好きなんだっけ。こんなに不快なのに。

天斗の横に来た怜は、天斗の手を握った。そして、ふふふと小さく笑った。

「なに?」

 天斗が尋ねると怜は

「ううん。なんでもない。ただ、天斗が来てくれて嬉しいなって」

「僕もベランダくらいなら外にも出るよ」

「そういうことじゃないんだよな」

 怜はわざとらしく拗ねたような口調で言った。そして天斗の傍を離れて一歩、天斗の前に立った。天斗は、その口調、仕草が可愛らしく愛おしいと思った。しかし、心のどこかで、それは自分に言い聞かせているだけなのではないかとも感じていた。そんなむなしさを心に宿しながら、天斗は微笑んだ。

「分かってるよ」

 そう言って、天斗は怜を後ろから抱きしめた。怜は、それを受け入れて天斗の腕に自身の手を置いた。そして、鼻をスンスンと鳴らして、天斗の腕の匂いを嗅ぎ始めた。

 それは、天斗が怜を抱きしめると必ずやる行為で、初めこそ驚きと恥ずかしさで天斗は何度も止めようとした。しかし、今ではすっかり慣れてしまって特に反応することもなくなった。怜いわく、天斗の匂いは落ち着く匂いなんだそうだ。

「ヒンメルだよ」

 怜が小さく呟いた。天斗はその言葉をはっきりと聞き取ることができなかった。

「なにか言った?」

「ううん。ねぇごはん食べに行かない?お腹空いちゃった」

 怜は自分のお腹を数回、軽く叩きながら言う。起きてから何も食べていないことを思い出し、天斗も空腹を感じた。

「そうだね。何が食べたい?」

「うーん。オムライスがいいかな」

「オムライスもいいけど、僕は和食がいいな」

「和食もいいね。そしたら、じゃんけんで決めよう。私が勝ったらオムライスで天斗が勝ったら和食ね」

「分かった」

「じゃあ一旦、部屋に戻ろうか。着替えもしちゃいたいし」

 怜がそう言って、天斗は怜を抱きしめていた手を離した。怜は、窓に手を掛けると天斗の方を振り返った。その瞳は天斗の目を見つめ、その後ろにある空を見ていた。

「雨、止みそうだね」

 怜はどこか残念そうに、しかし屈託のない笑顔で言った。

 天斗は、首だけを後ろに振り返らせ空を見つめた。

 鈍色の雲が覆い尽くしている空。そのわずかな隙間から青空が見えた。それは、あのアロマキャンドルと同じ淡い青色をしていた。

 しかし、天斗はその青空には気が付かなかった。天斗は、どこまでも広がる不快な鈍色の空だけを見つめていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る