中編
天斗と怜が出会ったのは、二年ほど前になる。当時、大学の経済学部二年生だった天斗と教育学部の四年生だった怜は、アルバイト先で知り合った。
天斗は大手チェーンのファミレスで働いていた。しかし働いていた店舗が、大規模な改修工事のため一時的に働くことが困難となってしまったことがあった。店長に相談したところ同系列のファミレスが人員不足に困っており、短期でもいいから人手が必要だと教えてもらった。天斗の自宅からは、かなり離れていたが、働けないよりはましだと天斗は一に二もなくその話に飛びついた。そして、その店舗で働いていた怜と知り合うこととなった。
慣れない店舗での業務に四苦八苦していた天斗を積極的にフォローしたのが怜だった。
怜は、他の学生バイトと違いサボりや手を抜くことはせず仕事に励んでいた。それでいて、それを他人に強要することはせず、サボっているアルバイトには優しく注意をし、ミスに対してはそっとフォローをしていた。自分に厳しく、他人には少し優しい。責任感のある女性だった。見方によっては、損な役回りに見えるが彼女はそれを微塵も感じさせなかった。
そんな怜に天斗は徐々に惹かれていった。
ある日、二人は同じ大学に通っていることを知り、仕事以外のことも話すようになった。
しかし、学年も違えば学部の違う二人の関係性は、一定以上深まることはなかった。アルバイト先と大学が同じだけで、それ以上でも以下でもなかった。大学構内で会えば、二言三言、会話をする程度の仲だった。
「それで件の女性とは、どうなったんだ天斗?」
目の前で一杯二八〇円の素うどんを食べる同級生は、にやつきながら天斗に聞いてきた。
ところは大学の学食。天斗が怜と出会ってから、二か月ほどが経ったころだった。六月にしては、珍しく澄み渡るような晴天の日だった。
「どうもこうもなにもないけど……」
天斗も同じ素うどんをすすりながら答える。
「なにもないのかよ。でも、バイトももう終わるんだろ?」
「そうなんだよな」
天斗はコシなんてものは存在していないうどんを飲み込み、うなだれた。
天斗が元々働いていた店舗の改修工事があと一週間で終わる予定だった。そうなれば天斗は元の店舗に戻ることになっている。それは、怜とのつながりが一つ断たれるということだった。いっそのこと、このまま怜と同じ店舗に留まろうとも考えたが、交通の便を考えると元の店舗の方が働きやすい上に、大学に入学してから勤めているのでシフトなど融通も利きやすい。だから、その考えは即座に却下した。
「連絡先の一つや二つ交換したらどうだ。相手は、四年生で就活やら卒論やらで忙しくなってるんだろ。社会人になったら、大学生なんて相手にされねぇぞ」
「言われなくてもわかってるよ。工事が終わるまでには、なにかするよ」
「ほんとかよ。連絡先の交換だけじゃなくて、デートにも誘うんだからな。まずは意識してもらわないと何も始まらないからな。もしデートに誘えたら、学食のスペシャルランチをおごってやるよ。ダメだったら逆におごれ」
そう言って、彼は食堂の入り口にある食券機をあごでさした。
スペシャルランチは、学食の中でも一番高価なメニューだ。他のメニューは学食らしく、よくて六百円ほどなのに、スペシャルランチは一食三千円もする。その価格ゆえ学生はもちろん教授陣も頼んだことのないメニューで誰もその実態を知らない。そもそもランチで三千円を出すなら、わざわざ学食で食べる意味もないので、なんのために存在しているのか謎なメニューでもある。
もちろん彼自身もそんなことは百も承知のはずだ。だからこれは自分へ発破をかけているのだと天斗は考えた。彼なりの気遣いというやつだ。
「あれ一度食ってみたかったんだよな」
そう言いながら、彼は自分の唇をなめた。
どうやら、発破でも気遣いでもなかったようだ。彼の中では、天斗が怜をデートに誘えないことが半ば確定しているようだった。
「いや、あれを食べるのは僕だ」
そう宣言して、天斗は残りのうどんを平らげて席を立った。
後方から楽しみにしてるぞーと憎たらしい同級生の声を背に受けながら、天斗は学食を後にした。
学食を出た天斗は、図書館に向かうことにした。三時限目の講義が教授の体調不良により休講になったためだ。四時限目には、統計学の講義があり帰ることもできなかった。
前日までは梅雨らしく雨が降っていたためかじめっとした気温だった。晴天に広がる青空の爽快さとは、反対に、肌に纏わりつくようで不快な暑さを天斗は感じていた。図書館へと向かう足は自然と急ぎ足になっていた。
図書館内は天斗が思っているよりも涼しくはなかった。外よりは多少マシな程度である。図書館の出入り口正面にある掲示板に貼られたお知らせには、黒く縁取られた黄色い文字で大きく『節電中』その下に小さく『節電中につき、弱冷房運転しています』と書かれていた。図書館は、吹き抜けで建物自体の面積も大きいから冷房効率が悪いのだろう。弱冷房運転では、むしろ非効率ではないのかと思った。受付を見ると司書がラフなポロシャツ姿で、うちわを扇ぎながらパソコンの画面を睨んでいた。
そういえば、図書館の予算が今年度から削られるらしいと耳にしたことがある。なんでも図書館の利用者が年々減り続けていることが原因らしい。かくいう天斗も図書館を訪れたのは、数か月ぶりのことだった。
その結果が、この弱冷房の図書館なのだろう。パソコンとにらめっこしている司書の彼は、きっと予算の捻出、または利用者増加の施策を考えているのだろう。
彼の頭を悩ませる原因の一端を担っている天斗は、一方的に申し訳ない気持ちを抱えつつ受付の横を通り過ぎ、自習室を目指すことにした。
図書館内には十八帖ほどのスペースで座席が二十席ほどある自習室がある。予約などは出来ず、早い者勝ちで席を奪い合う。試験期間には、それは壮絶な奪い合いが毎度発生するのが恒例となっている場所だ。そして、室という名前が付いている通り図書館内での独立した空間となっている。すなわち、図書館全体は吹き抜けになっているため冷房効率が最悪だとしても、こと独立空間になっている自主室においては例外なのである。十八帖ほどの広さであれば、弱冷房運転でも十分な涼しさが確保されていることだろう。天斗はそう踏んで、自習室を目指していた。おまけに今は試験期間ではないから利用者は少ないはずだ。
しかし、天斗の予想は外れ、自習室はすでに満員だった。いや、椅子にだけでなく机に座り会話をする者、はたまた床に座る不届き者までいる始末で、満員以上の混雑率一五〇%といった具合の状態になっていた。いくら涼を求めているからといって、床に座ることまではしたくないと考えた天斗は自習室を後にした。学食に戻るのも面倒だったので、適当に日の当たらなそうな席を探すことにした。
図書館内には窓際に座席が設けられており、そちらも勉強や読書などに利用することができる。自習室と違いオープンな場所になるので、集中力が削がれるとあまり利用者は多くない。試験期間外ならなおのことである。座席を回った限り、利用している人は誰もいなかった。
天斗は西側の日が入ってきていない席を見つけ腰を下ろした。日が入って来ない分、まだマシであるが暑がりな天斗にとっては、それでもまだ暑かった。講義が始まるまでの約九十分程度なら我慢は出来そうだった。リュックからキャンパスノートを取り出し、うちわ替わりに扇ぐと汗が程よく冷えて少しばかりの涼を感じることができた。
ふと外を見ると日の照っている中、中庭の木陰でランチをしているカップルの姿が見えた。カップルがランチをとっている木陰は、中庭の中央に位置しており、たくさんの学生が必然とカップルの前を横切って行く。学生たちは一様に、木陰でいちゃつくカップルに冷ややかな眼差しを向けていた。
しかし、彼らはそんなことを意にも返していないだろう。彼らにとって世界は二人だけのもので、他人は空気となんら変わらないものなのだろう。その証拠に彼らは耳元で囁き、時折くすぐったい表情を見せながら会話を始めた。木陰を家かなにかと勘違いしているのだろうか。
天斗は見ていられなくなり、目を逸らした。
ああはなりたくないが恋人がいるというのは、実にうらやましい。本当に、ああはなりたくないが。でも、もし俺が雨宮先輩と付き合えたら、俺も人目を気にせずあんなことをしてしまうのだろうか。
意味のない想像をして、天斗は一人で悶えた。そんな天斗の頭上から声が降ってきた。
「うわーなにあれ。大学構内でよくやるね」
呆れを多分に含んだ声だ。その声は、天斗が想いを寄せる女性の声だった。
「あ、浅宮先輩?」思わずうわずった声が出た。
怜は、ゆったりとしたワイドパンツにカットソーと涼しげな装いだった。愛用しているアイボリーのトートバッグを右肩にかけ、左腕にはカーディガンらしきものを持っていた。
「辻井君お疲れさま。あれ見てよ。いちゃつきたいなら家でやればいいのにね」
「お疲れさまです。そうですね」
天斗は不埒な想像をしていたことをおくびにも出さず首肯した。
「ここ座ってもいい?」
怜は、天斗の対面の席を指差す。
「あ、どうぞ」
「ありがとう」
怜が椅子に座ると石鹸のような優しい匂いがふわりと香った。
「浅宮先輩も三限目は休講ですか?」
「ううん。私は今日の講義は終わったけどバイトまで時間があるからレポートをやりにね。辻井君は三限目休講だったの?」
「そうなんですよ。教授が体調崩しちゃったみたいで、四限目まで暇をつぶしてたところです」
「そっか。天気が不安定だと体調崩れちゃうよね」
怜はトートバッグから教科書やノートを取り出し、机に広げ始める。教育学部の講義がどんなものかは知らないが、ずいぶんと厚い教科書だった。
「あ、邪魔しちゃ悪いので、僕移動しますね。暇はどこでもつぶせますから」
「あぁごめんごめん。私、人とおしゃべりしながらの方がレポート捗るんだ。それに私から声掛けたんだから、邪魔なんて思わないよ」
怜は、笑いながら天斗の目を見つめる。その目に負けて、天斗は居住まいを正した。
「ありがとうございます?」
なぜかお礼の言葉は口をついた。自分で言っていて不思議に思ったのか、最後には首を傾げていた。
「どういたしまして?」
怜も天斗と同じく首を傾げた。
「ていうか何のお礼?」
「さぁ自分でもわかんないです」
そこから当たり障りのない雑談をした。それぞれの講義についての話や自習室が人で溢れかえっていた話、学食のスペシャルランチの話などをした。その間も怜は、宣言通りにレポートを進めていた。教科書とノート交互に見ながらも時折、顔を上げて天斗の話に応対していた。
「スペシャルランチかー。私も食べたことないな。うーん。食べてる人も見たことないかも」
怜は、ノートから顔を上げて記憶を辿るように、外を見ながら答える。天斗もつられて外を見る。中庭にはランチを終えたらしい彼氏が彼女のふとももに頭を乗せ、ベンチで横になっている。いわゆる膝枕の状態だ。
うらやま……。じゃなくて、本当にそれはどうなんだ。公共の場だぞ!
天斗の耳に怜がノートを書き込む音と教科書をめくる音だけが響いた。しばしの静寂。それを崩したのは怜の小さな笑い声だった。ノートに目を落としたまま小さく肩を震わせて、こらえるようにして笑っている。ノートに書く文字も震えている。
「どうしました?」
突然のことで心配になった天斗は尋ねる。
「いや。ふふ。なんでもない」
怜はそう言いながらも笑いが収まる気配はない。
「なんでもないようには見えないんですけど」
再度、尋ねると顔を伏せたまま
「だって、辻井君の……。ふふ。顔が。ふふ」
僕の顔がなんだって。片思い中の相手に容姿のことを言われた気がして、冷たい汗が背筋を伝う。
「外のカップルを見てる顔が、面白くて」
そこまで、言って怜はこらえきれずに笑い始めた。図書館なのでボリュームは控えめで。曰く、膝枕をしている天斗の表情の変化が面白かったらしい。初めは、驚き羨ましそうに見ていたのに、すぐに怒ったような顔に変わっていく様相が愉快だったそうだ。
それを聞いて、先程とは違った意味で汗が天斗の背筋を伝った。羞恥からくるものと、きっとそれ以外のなにか。それは、なんなのか言語化する前に心にすっと入り込んで、消えてしまった。あとに残ったのは、温かな感情だった。
「確かにあれは驚くよね。構内で膝枕って、まさに二人の世界って感じだね」
一通り笑い終えた怜は、また中庭を見ていた。その口元は小さな笑みを浮かべていた。微笑むその横顔を天斗は愛おしく思う。それと同時に芽生えた確かな感情。名前をつけるなら、そう独占欲。だから、咄嗟に口に出てしまった言葉が、どちらの感情から放たれたものか天斗には分からなかった。
「浅宮先輩。デートしてくれませんか?」
静謐に包まれていた図書館に天斗の声が響いた。
自分から放たれたはずの言葉なのに、天斗はその言葉をどこかの他人が放った言葉のように感じていた。しかし、その言葉は確かに天斗のものであった。天斗だけを見つめる怜の目がそれを物語る。
天斗の唐突な言葉を咀嚼するかのように彼女は黙っている。再び静謐に包まれた図書館での数秒が天斗には永遠にも感じられた。そして、彼女が口を開く。その声は小さく今にも消えてしまいそうだった。でも、静謐な図書館にはそれで十分だった。
「それじゃあどこに行こうか?」
怜は照れくさそうに微笑んだ。耳の先が微かに赤く見えるのは、きっと自分の思い上がりが見せる幻なのだろう。彼女以上に、自分の顔が赤くなっていることに気付かない天斗は呑気にそんなことを考えていた。
昼休みの学食で天斗は一人、頭を抱えていた。その原因は、もちろん怜とのデートとのことだ。デートの約束を取り付けてから三日ほどが経過していた。デートの日取りを週末に決めて、連絡先も交換した。デートは、無難に映画を見ることに決めていた。デート当日の天気が梅雨らしく雨模様になるからだ。
もろもろのことが決まっていてもなお、天斗は悩んでいた。このままで良いのかと。デートは、二日後に迫っているし、今さら映画に行くことを変更することはできない。しかしこのままでは、印象に残らないデートになってしまう。デートという名目で誘っていなければ、ただの仲の良い男女が休日に出かけるだけにとどまってしまう恐れがある。だから、出来るだけ印象に残るようなデートにしたかった。その方法を天斗は、ずっと悩んでいた。
天斗はうんうんと唸りながら、スマートフォンで『デート 印象残る方法』と検索してみる。会話術や心理学のサイトがたくさん出てきたが、きっと緊張してしまってどれも実践できないと思うので参考にならなかった。更に調べてみると自分でも実践できそうなものを見つけた。今日はバイトが休みだから、帰りに駅ビルに寄ってみよう。そこにならきっと売っているはずだ。
天斗がそう決めてすぐに昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。天斗は急いでリュックを背負って、三限目の講義に向かった。
デート当日。天気は予報通りで朝から雨が降っていた。あいにくの空模様ではあるが、雲が高く、雨はそこまで強くなかった。だが、夏が近づいているからか、気温は高く湿度を強く感じる天気でもあった。
時間よりも十五分ほど早く、集合場所に指定したコンビニについた天斗は駐車場に車を停めて十分ほど時間を潰した後、コンビニの窓に映る自分の姿を見て身なりを整えていた。車の中で待っていてもよかったのだが、なんとなく失礼な気がして、外で待つことにした。その間、車のエンジンはつけたままにしておいた。蒸し暑いと感じる今日の天気では、車内をエアコンで冷やしておいた方がいいと思ったからだ。事実、天斗が朝に車に乗った時は、車内の蒸し暑さに辟易した。怜にそんな思いをさせる訳にはいかない。
エンジンの音を唸らせる自分の車を背に、天斗はつけ慣れていないワックスで整えた髪を微調整しつつ、服装に違和感がないかを確認した。黒のチノパンに薄手のネイビーのジャケット。シャツは無難に白色だ。アクセサリーの類は持っていないので、つけていない。我ながらシンプルにまとまっている気がする。かしこまった感じもしない。ちなみにネイビーのジャケットは今日のために買ったものだ。そして、先日、駅ビルで購入したものも忘れていないことを確認する。よし問題ない。
天斗が自身の姿を確認している、つまりは窓を凝視していると窓の向こう側にいるコンビニの店員と目が合った。店員は怪訝そうな目をしていて、天斗を見つめていた。天斗は、あいまいな笑みを浮かべたあと何事もなかったかのように振り返り窓を背にした。変質者に思われていないといいが……。怜が来るより前に警察が来るなんて洒落にもならない。もちろんそんな珍事が、起こることはなく、天斗が振り返ると怜がやってくるのが見えた。
怜は淡い色合いのピンク色の傘を差し、小走りでこちらに向かってきた。
「お待たせ。待った?」軽く息を整えながら、怜は言う
白のTシャツにベージュのワイドパンツ。Tシャツの上にカーキのシャツワンピースを羽織っている。暑かったのか、シャツワンピースの袖が肘まで捲れていた。片手には、財布と小物くらいしか入らなそうな小さなハンドバッグを持っていた。いつもよりも大人びた姿にどきりとした。先輩に向けて大人びているは、あまりにも失礼な感想かもしれないが、普段の大学構内やアルバイト先で見ている姿とは、やはり違っていて率直に綺麗だと思った。それになんだかいつもより視線が合うなと思っていたら、ヒールサンダルを履いていた。天斗より少し背の低い怜の身長が、今日は天斗とほとんど同じになっている。
「い、いえ。全然大丈夫です」
いつもより近い視線に緊張してしまって、目を逸らす。目を逸らしたついでにスマホで時間を確認する。約束の午前十一時ちょうどを表示していた。
「時間もちょうどですし、行きましょうか」
「そうだね。行こうか」
天斗は先に運転席に乗り込んだ。車外で何かしているのか少しもたついて、怜が助手席に座った。怜の肘まで捲れていたシャツワンピースの袖が下りていることに、天斗は気が付かなかった。二人を乗せた車は天斗の運転で、映画館のあるショッピングモールへと向かった。
集合場所に指定したコンビニから映画館のあるショッピングモールまでは、車で約三十分の道のりである。しかし、二人を乗せた車は、安全運転に安全運転を重ねた結果、通常よりも一・五倍の時間が掛けてショッピングモールに到着した。だが、その道中はただ長く退屈なものではなかった。むしろ通常の道のりよりも短く感じられた。天斗が選曲したドライブ用のBGMが流れる車内で、これから見る映画のことや怜の就活のことなどを二人は話した。時々、怜が何かを言いかけては口ごもる瞬間があったものの、それは天斗も同じだったので、天斗はあまり気に留めなかった。
天斗はショッピングモールの立体駐車場に車を駐車した。映画館へは、ショッピングモール内を通り抜けて行くルートと一度外に出てから向かうルートの二つがある。道のりで行くと後者の方がスムーズに行くことができるが、あいにくの雨模様なので、二人は前者を選択した。ショッピングモールに入ると昼前ということもあり、飲食店が集合しているエリアは、廊下まで人がたくさんいた。しかし、そこを抜けると人の数はグッと減りスムーズに映画館へと向かうことができた。
映画館に入ると甘いキャラメルの匂いが天斗の鼻腔をくすぐった。映画館特有の匂いだ。この匂いを嗅ぐだけで映画を観に来たんだとスイッチが入る。それと同時に印象に残るデートの手法に基づいて、仕込んだ“あれ“の効果が薄まるのではないかと心配にもなった。すでに怜が気がついているのかはわからない。実際、車内では特に反応がなかったから、気がついていない可能性の方が高い気がする。もしかしたら、気付かれずに今日が終わる可能性だって十分にありうる。それは何としても避けたいが、自分から「実は……」と白状するものでもないので難しいところではある。
天斗が一人やきもきしていると
「わお結構、混んでるね」
怜がそう呟いた。確かにキャラメルの匂いの発生源たる売店には、長蛇の列が出来ていた。列には、子供連れの家族と休日なのに制服を着ている女子高生ばかりだった。男性だけのグループや一人の人もちらほらいるが、どこか肩身が狭そうだった。
人気アニメの映画が今日から公開だったことを天斗は思い出した。商品を購入し売店の列から抜けたほとんどの人が、そのアニメのキャラクターを模したポップコーンバケットを持っていたからだ。それ以外の普通のポップコーンを買っている女子高生達は、二週間前から公開したアイドルが主演のラブロマンス映画が目的なのだろう。
購入終えてベンチで入場案内を待っている家族づれに目を向けると、子供が待ちきれんとばかりにポップコーンを食べていた。中身のポップコーンを食べるには、どうやらキャラクターの頭頂部を開ける必要があるらしく、開頭される姿が痛々しくうつる。嬉々としてアニメキャラクターの頭頂部を開ける子供の姿に、そのキャラクターが好きで買ったのではないのかと思わず心の中でツッコミを入れてしまう。
「辻井君もあれ欲しいの?買ってあげようか?」
子供を見ている天斗が羨ましそうに見えたのか怜が冗談めかした口調で問いかける。
「いや、違いますよ」
天斗は、笑いながら軽い口調で返した。流石に、頭頂部を開けて食べる姿がグロテスクですよね。なんて口が裂けても言えない。間違いなく変なやつだと思われる。だったら軽く流すくらいがちょうどいい。
「チケットはもう取ってあるんでこっちです」
「準備がいいね。ありがとう」
そう言って、怜は天斗の後ろをついていった。
チケットは、ネットで事前に天斗が購入しておいたが、本当のところ全くと言ってその必要はなかった。二人が観る映画は、話題のアニメ映画でもなく、中高生に人気のラブロマンスでもなく二ヶ月前に公開されたアクション映画だったからだ。言ってしまえば、少々旬を過ぎた映画であった。だから、席はかなり空いていたし、上映されるシアターもこの映画館では一番小さなシアターである。それでも天斗が事前にチケットを購入したのは、単にスマートなデートを演出したかったからである。これも印象に残るデートの手法の一つ。
ネットで事前購入したチケットを自動発券機で発券し、一枚を天斗は怜に手渡した。その時に手が触れて、天斗は心臓が一瞬跳ねたのを感じて、手渡しがぎこちなくなった。事前購入のスマートさが帳消しになった気がした。
二人は長蛇の列の最後尾に並んだ。時間に間に合うかなと天斗は危惧していたが、アニメ映画の入場案内が始まると列に並んでいた半数近くが購入を諦め、入場案内の列の方へと流れていった。時刻は十二時ちょうどになる。観る映画の上映時刻は、十二時十五分だから、なんとか間に合いそうだなと天斗は安堵する。
列はスムーズに流れ、二人の注文の番になった。
「ご注文お伺い致します」
店員さんは、快活な笑顔で言う。あれほどの列を捌いた後だというのに、疲れをおくびにも出さない姿勢にプロ意識を感じた。
「僕は、烏龍茶Mサイズで。先輩はどうしますか?」
「私はオレンジジュースをSサイズで。氷なしにできますか?」
店員さんは、素早くレジを打ちながら答える。
「はい。可能ですよ」
「じゃあ氷なしでお願いします」
「かしこまりました。他にご注文はございますでしょうか?」
二人は顔を見合わせて、目配せでお互いに追加注文がないことを確認し
「いえ、以上で」と天斗が答えた。
お昼時なので、少しお腹が空いていないこともないが、映画を見終わったら昼食を食べに行くので食べ物を頼むのはやめておいた。
「お会計七五〇円になります」
店員さんは、金額だけ伝えると振り返り後ろにあるドリンクサーバーで飲み物の準備を始めた。
天斗は、財布から千円札を引き抜きカウンターの上にあるトレイに置いた。隣でハンドバッグから白の長財布を取り出したところ怜を天斗は手で止めた。
「ここは私が出すよ」
「いえ、僕から誘ったんでここは出させてください」
「でもチケット代もまだ払ってないし」
「それも僕が出します」
「でも……」
そんなやりとりをしていると飲み物を注ぎ終えた店員さんが振り返って
「千円のお預かりで、二五〇円のお返しになります」
そう言って、トレイに置いてあった千円札をレジに通して、二五〇円の乗ったトレイと飲み物を差し出した。
天斗は、お釣りの二五〇円を財布にしまい、自分の分と怜の分の飲み物を手にもち、Sサイズの方を怜に手渡した。
「ありがとうございました」
店員さんの声を背中に受けながら、二人は入場案内の列に並んだ。飲み物を注文している間に入場案内が始まっていたからだ。
チケット代と飲み物代を奢られたことが納得できていないのか、天斗の隣に並ぶ怜が小さな声で「私の方が年上なのにな」と呟いている。天斗はその呟きを笑いを堪えながら、聞いていないふりをしていた。
天斗としては、この後の昼食も含めてお金を出すつもりでいた。天斗自身、デート代は男が全額出すべきだとは、特別思ってはいない。ただ、好きな人の前で格好付けたいという気持ちはあるので、奢る前提で考えていた。
入場案内を抜けて、入場案内からは一番遠い十番シアターを目指す。途中にある現在公開されている映画のポスターを見ながら、あの映画面白いんですよ。なんて言いながら歩く。
十番シアターの入り口に着くと怜は入り口の横にあったブランケットを一枚取った。
「寒いんですか?」
天斗は尋ねた。
映画館内は、クーラーが効いてはいるものの梅雨の時期なので必要最低限といった感じだ。
「ううん。ただ一応ね」
そう言って怜は、飲み物を持つ手とは反対の手にブランケットを掛けて先にシアターに入っていった。天斗はその後ろを追った。
シアター内には、三組ほどしかお客さんがいなかった。それぞれのお客さんが、他のお客さんと前後も含め隣り合わないように席を確保していた。天斗も他のお客さんと同様に、誰かと隣り合わないような席を取っていた。事前購入を早めにしておいたので、シアターのほぼ中央に位置する席だった。
二人が席に着くと照明が薄くなり、映画の予告が流れ始めた。
天斗は映画の予告を見るのが好きで、食い入るようにスクリーンを見つめた。シアターまで移動する時に見たポスターの予告が面白かったので、今度見に行こうと天斗は頭の中に映画のタイトルを記憶した。
「この映画、面白そうだね」
怜が天斗の耳に触れそうな距離まで顔を近づけて、小声で話しかける。同時に香る甘い匂いにどきりとした。
「そ、そうですね。あの……」
一緒に観に行きませんかと言おうとしたが、天斗は口を閉じた。もし、ここで望んだような反応が得られなかったら、これからの映画の時間も含めて今日一日を耐えられる気がしなかった。誘うなら、今日が上手くいった帰り際にしよう。そう天斗は心に決めた。
「どうしたの?」
「いえ、なんでもないです」
誤魔化すように天斗は烏龍茶を一口飲んだ。よく冷えた烏龍茶は、喉を通って体を冷ましてくれる。同時に頭も冷えた気がした。
怜は追求したそうに天斗を見ていたが、シアター内の照明が落とされ映画鑑賞中のマナームービーが流れるとスクリーンに向き直った。
ほっと息をついて、天斗もスクリーンに目を向けて映画に集中することにした。
「はー面白かったね」
怜は、座席に座ったまま大きく伸びをして言った。
「ですね。裏切り者が判明したシーンはまさかお前がってなりました」
「私も映画館じゃなかったら、声出して驚いてたかも」
感想を言い合っていると清掃のため映画館のスタッフがシアターに入ってくるのが見えたので、天斗は席を立った。続いて怜が席を立った時、彼女が膝に掛けていたブランケットが落ちそうになった。天斗はそれを掬い上げる。
「寒かったんですか?」
掬い上げたブランケットを手に掛けて、天斗は問いかける。
「うん。少しだけね。小さなシアターだったから、冷房が効きすぎてたみたい」
そう言われてみれば、映画館の売店のあったところよりもシアター内のほうが少し涼しい感じがした。
「だから、氷なしで注文したんですね」
天斗は、座席のカップホルダーに置いてある紙コップを見つめる。ストローには、ほんの少しだけ口紅がついていた。
「そういうこと。ブランケットありがとう」
怜は席から立ち上がり、天斗の腕からブランケットをとって、持ってきた時と同じ大きさに折り畳んでいく。天斗はその動作を見守りながら、自分の紙コップと怜の紙コップをカップホルダーから取った。怜の方の紙コップは空っぽで、天斗の紙コップにはたっぷりと氷が残っていた。なるほど、映画が終わるまで溶けきらないほどの氷が入ったジュースを飲むのは、少しだけ寒いと感じるほどの室内では辛いことだ。そう思って、天斗は怜の方の紙コップに目を落とす。
「よし。あ、コップもありがとう」
ブランケットを畳み終えた怜が自分の紙コップを受け取ろうと天斗に手を伸ばす。視線を紙コップに落としていた天斗の目には、紙コップに触れる怜の手とカーキ色のシャツワンピースの袖が写っていた。
それを見た天斗は、一言「あ」と呟いた。
天斗の呟きに気づいた怜が紙コップを取ろうとしていた手を止めて、どうしたのかと言いたげに首を傾げる。天斗は話そうかと思ったが、清掃に来た映画館のスタッフが二人を見ていたので、天斗は怜を外へと誘導した。
シアターの外に出ると紙コップを両手に持ったまま勢いよく怜に向かって頭を下げた。
「すみませんでした」
「え、なんのこと?」
ブランケットを返却口に返していた怜が驚いて振り返る。
「来るときの車の中、寒かったですよね」
怜の服の袖を見つめながら、天斗は言う。捲られていない袖を見ながら。
天斗は、怜が紙コップを受け取ろうした時に彼女が服の袖が捲られていないことに気が付いた。コンビニで会った時には、捲られていた。じゃあ、いつ怜は袖を直したのか。怜は、シアター内のちょっとした冷房の変化で寒さを感じると言っていた。それを聞いて、冷房を効かせた車に乗った時だと天斗は思い当たった。話に夢中で気が付くことができなかった。何度か怜が何かを言いよどんでいる瞬間があったのにだ。天斗は原因を作ったうえに、気付くことのできなかった自分を責めた。
「あ、そのこと。気にしなくていいよ。言わなかった私が悪いんだから、辻井君が謝ることじゃないよ」
「いえ、僕がもう少し気を配れていたら……」
「いやいや、それでも知らなかったんだから仕方ないよ」
怜は、気にしていない素振りを見せるが、天斗は納得できないでいた。
「でも、やっぱり……」
食い下がろうとしている天斗の手から紙コップを奪った怜は、それをゴミ箱に持っていき、丁寧に分別してゴミ箱に放り込んだ。数秒の出来事を天斗は、ただ黙って見ていた。
ゴミを捨て終わった怜は、振り返るとわざとらしく手を払った。
「今回は、お互いが悪かったってことにしようよ。言わなかった私も悪いし、気付かなかった辻井君も悪いってことでさ。それでお互い納得しようよ」
明るい口調でしかし有無を言わさぬ態度で怜は言った。
「それに折角の楽しいデートがこのままじゃ台無しだからさ」
少し照れくさそうに言う怜を見て、天斗は顔が熱くなるのを感じながら同じく照れくさそうに言う。
「そうですね。じゃあご飯に行きましょうか」
天斗は怜に顔が見られないように先を歩いた。
怜には、悪いが今はキンキンに冷房の効いた部屋に行きたいと天斗は思っていた。
二人は、ショッピングモールから車で五分ほど行ったところにあるイタリアンレストランに向かっていた。住宅街を通り、慎重に車を走らせていると緑の植栽に囲まれた真っ白な外壁の四角い建物が見えた。住宅街から浮いているその建物は、まさに地中海風といった外観をしていた。ここが目的地のイタリアンレストランだ。建物の正面にある駐車場に車を停めて二人はレストランに入店した。
このレストランは学生でも手が届きやすい価格で美味しいパスタを出す有名なお店であることを天斗は知っていた。しかし天斗は、普段からチェーン店以外で外食することがほとんどないので来店したのは初めてだった。だから、新鮮な気持ち半分、慣れないお店でかっこ悪いところは見せられない気持ち半分といった心持ちだった。一方で怜は何度かこのお店には来たことがあるらしく、慣れた様子であった。
入店するとお店の奥から同い年くらいの女性の店員さんが、腰に巻いた藍色のエプロンを揺らしながら、小走りで近づいてきた。
「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」
「予約していた浅宮です」
怜が答えた。
「浅宮様ですね。少々お待ちくださいませ」
そう言って、女性店員はバックヤードに行き、すぐに戻ってきた。
「お待たせ致しました。それでは、ご案内します」
店内は、昼時を過ぎたこともあり空席が目立っていて、座る席には困らない状況であった。しかし、案内をしてくれている店員さんは、店内の空席には目もくれず、まっすぐに二人をテラス席へと案内した。
テラス席には、窓際に三組、天斗の肩まではあろう植栽が目隠し替わり植えられている側に三組の合計で六組の座席があった。店員さんは六組ある席のうち、窓際三組の中央の席を二人に勧めた。
天候は、朝から回復しておらず依然として雨は降り続いている。もちろんテラス席には屋根が付いており、雨に濡れる心配はない。でも店内の席が空いているのに、なぜテラスに案内されたのか。天斗は疑問に思い、女性スタッフに尋ねようとしたが、彼女は何か問題でもと言いたげな顔を向けたかと思うと「メニューをお持ちします」と言って、店内に戻って行ってしまった。
立ち尽くしている天斗をよそに、怜はさも当然のように勧められた席に座った。
「座らないの?」
怜は小首を傾げながら問いかける。
「あ、えっと。座ります」
天斗は疑問に思いながらも席に座った。
しとしとと降る雨のおかげもあってか涼しさを感じるものの、やはり外は湿度が高く冷房の効いていた店内とは違って、若干の不快感を天斗は感じていた。しかし、冷房が苦手だと言っていた怜のことを考えると店内に戻ろうとは言えなかった。それに、植栽に雨が当たる風景を眺めている怜の横顔は何だか楽しそうに見えた。
「こちらメニューになります」
いつの間に近くにいたのか、案内をしてくれた店員さんがメニューの書かれたA3サイズほどの紙をテーブルの中央に置き、お冷の入ったグラスを二人の正面に置いた。
「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」
そう言って、店員さんは店内に戻って行った。
天斗は、メニューを手に取る怜が見えやすいようにとメニュー表を九十度回転させて、怜のほうへ差し出した。
「私は決まってるから大丈夫だよ。ゆっくり決めな」
そう言われて、天斗はメニュー表に目を通した。メニュー表には、料理名と金額しか書いていなかった。金額は、確かに学生にも手が届きやすく、千五百円以内のメニューが多い。平日には、ランチセットがあるらしく好きなパスタとサラダ、ドリンクが付いて千五百円になるそうだ。あいにく今日は休日なので、素晴らしいランチセットの文字から目を離す。天斗は改めて、メニューを見てみるとほとんどの料理名が横文字で書かれていて、天斗が聞いたこともない料理名ばかりだった。分かったのは、ミートソースとカルボナーラ、ペペロンチーノの三つだけだった。
十何種類もあるメニューの中から選択肢が三つしかないのは心もとないし、それにこの三つでは、いまいちボリュームにかけるような気がしていた。二つ注文すれば事足りるのかもしれないが、さすがに初デートでパスタを二人前平らげる暴挙に出る訳にもいかない。ここは、先人もとい常連にアドバイスを求めるべきだろう。と天斗は考えた。
「浅宮先輩、おすすめってあります?」
聞かれた怜は、右手を顎に当ててうーんと考えこみながらメニューを見つめ
「魚介系ならペスカトーレかボンゴレビアンコがおすすめかな。お肉系なら食べ応えがあるのはボロネーゼ、チーズ系が好きならカチョエペペがおすすめ」
怜はすべてのメニューを把握しているのか迷いもなく指差していく。
「そしたら、ボロネーゼにします」
そう言って、天斗は注文するために店員を呼ぼうと店内に目を向ける。ちょうど店員さんと目が合い、オーダー表を持った店員さんが小走りでテラスに出てきた。
「ご注文、お伺い致します」
「ボロネーゼと……」
天斗が言い、続けて怜が
「カルボナーラでお願いします」
と注文を告げた。
店員さんは、注文を手早くオーダー表に書き込むと「かしこまりました」と言って、店内に戻っていった。
再び二人になったテラス席には、屋根に当たる小さな雨音が鳴っていた。
天斗は、当初の疑問を思い出し、怜に聞いてみた。
「どうして、僕たちテラス席に案内されたんですかね。店内の席は、あんなにたくさん空いているのに」
天斗は、店内を見つめた。店内には、四人掛けのテーブル席が六組、二人掛けが三組、カウンター席が五席ほどあった。三人組の女性グループと一組のカップルが四人掛けのテーブル席に座り、大学生くらいの女性客が一人で二人掛けのテーブル席に座っていた。空席になっているテーブルの上には、なにも置かれていないので、案内ができなかったというわけでもなさそうだ。
店内を観察していると三人組の女性客の一人と目が合った。その女性は、なぜ雨の中テラス席にいるのかと僕らを不思議そうな目で見ていた。そして、同席している女性たちにもそれを伝え、三人でこちらをちらちら見てくるようになったので天斗は視線を戻した。
「この席が私のお気に入りだからだよ」
そう言って、微笑んだ怜は、また植栽の方に目を向けた。
天斗もつられてそちらに目を向ける。
緑の葉に雨の滴が溜まっては流れていく様を二人でしばし眺めた。
「ここに来るときは、いつもこの席にしてもらっているの。晴れの日ももちろん雨の日も。先にお客さんが居る時は遠慮してるけどね」
怜は、“もちろん”の部分を強調しながら言った。
「雨が好きなんですか?」
怜は意表を突かれたような顔を見せて、天斗を見つめた。そして、柔らかい表情に戻り
「うん。好きだよ。太陽が照ってる雲一つない晴れの日も好きだけど雨の日の方がずっと好き」
「ちょっと意外です。浅宮先輩は、活発なイメージがあったんで夏日とかの方が好きだと思ってました」
「そんなに活発なイメージあったかな」
怜は記憶を掘り起こすかのように、目を閉じると考えるポーズを見せた。
「サークルからのイメージですかね」
「なるほどね」
それで納得したのか怜はうんうんと頷くと水を一口飲んだ。
「どうして雨が好きなんですか?」
天斗は問いかけた。
天気に対して好き嫌いがあるのは、天斗の感覚としても当たり前のことである認識はあるが、少なくとも身近で晴れの日よりも雨の日の方が好きだと言う人は一人もいなかった。だからこそ純粋な疑問であった。
「どうしてか……。うーん面白くない理由だけどいい?」
「いいですよ」
多分、どんなにつまらない話でも怜が話してくれるだけで、今の天斗にとっては値千金の価値がある話になる。それだけ彼女のことを知ることができるのだから。
「私の名前、怜っていうでしょ。お母さんがつけてくれた名前なんだけど、由来が雨の日に生まれたからって小さい時に教えてもらったの」
怜はちょっと恥ずかしそうに話す。
「それで英語のレインから怜ですか?」
天斗は、相槌替わりに言葉を挟む。
「ううん。半分はそうなんだけど。正確には、ドイツ語で雨を指すレーゲンから。お母さんドイツがものすごく好きなんだ。大学生の時にドイツに留学したことがあって、それから好きらしくて。だから、家のクリスマスはドイツ式で、クリスマスには必ず家族で過ごす決まりなんだ。今年もクリスマスは、実家に帰らなくちゃ」
ということは、クリスマスは恋人になっていようがなっていまいが一緒には過ごせないのか。と天斗は話を聞きながら一人で勝手に落ち込んだ。
「話が逸れたね。でもれーだけじゃ名前にならないからって、レインからもとってきて怜にしたんだって」
確かにレーゲンだけだと“レン”や“ゲン”という名前にはなるが、女の子の名前として適しているかと言われると“レン”はまだしもさすがに“ゲン”は厳しいものがある。
「それで自分の名前の由来にもなっているから、なんだか雨に親近感みたいなものが湧いちゃって。だから、雨が好きな理由はそんなところかな」
「そうなんですね。素敵な理由だと僕は思いますよ」
天斗は率直な感想を述べた。家族の話をする怜は、どこか気恥ずかしそうにしながらも嬉しそうに見えたからだ。
「辻井君の名前の由来は?なんで天斗っていうの」
怜に問いかけられた天斗は、思い出そうと考えてみたがすでに忘れてしまったのか。そもそも聞いたことがなかったのか。思い出すことができなかった。
「いや知らないですね。聞いたことないかもしれないです」
「折角だし聞いてみなよ。私も知りたいし。それに名前の由来には、親が子にどんな風に生きて欲しいかって願いが込められているものだしさ。私の場合、そんなのなさそうだけどね。安直だしさ」
怜は笑いながら言う。天斗はその笑顔に微細な自虐が込められているような気がした。だから自然と口が動いた。
「そんなことないと思いますよ。浅宮先輩の生まれた瞬間をいつでも思い出せるように、お母さんが大好きなものから選んだ素敵な名前です。だから、お母さんの好きが詰まった怜って名前を僕は素敵だと思います」
天斗は一息で言い切った。そして、自分の言った言葉が耳に返ってきて無性に恥ずかしくなった。
「ごめんなさい。今のは、そのなんというか。……生意気言いました」
天斗はしどろもどろになりながら軽く頭を下げた。
「謝らなくていいよ」
雨音に紛れて、怜がつぶやいた。
天斗が顔を上げると怜は片肘をついて、三度雨に濡れる植栽を見ていた。頬を隠すようにあてた手の隙間から、じんわりと赤く染まる肌を天斗は何も言わずに見つめた。
程なくして、二人のもとに料理が運ばれた。おすすめされたボロネーゼを見た天斗は、はじめミートソースと何が違うのか分からなかった。だが、食べてみるとミートソースよりも濃厚で肉感が強く、おすすめされた通り食べ応えのあるパスタだった。ボリュームを麺の量でごまかして食べている、いつもの味が薄いレトルトソースのパスタとは比べものにならない。比べるのすらおこがましい。正に月とすっぽん。いや、すっぽんは高級食材だから、月とその辺の石ころといったところか。
天斗はくだらないことを考えながら、ボロネーゼを完食した。
ボロネーゼよりは、ボリュームが控えめだったカルボナーラをすでに食べ終えていた怜は、料理を配膳した時に店員さんが一緒に持ってきたデザートメニューを見ていた。天斗の視線に気づいた怜がメニューを見ながら言う。
「ここのお店、デザートもどれもとってもおいしいの。でもおいしいからこそ悩んじゃう」
天斗には、メニューが見えないので、何品目あるのかは分からないが、少なくとも二、三品目では収まらないのだろう。
たっぷり一分ほどメニューとにらみ合っていた怜は、首を小さく縦に振ると
「よし決めた。辻井君はデザート頼む?」
怜は、天斗にも見えるようにメニューを差し出した。デザートメニューは、ぱっと見た限りだと十品目くらい載せられていた。確かにこれだけあると迷ってしまうのも納得だ。
メニューを見せられた天斗は首を横に振った。
「僕は大丈夫です。コーヒーを頼みます」
「うん。分かった」
怜はそう言うと店内にいた店員さんを呼んで、ティラミスとアイスコーヒーを二つ注文した。店員さんは、注文を受けるとテーブルにあるお皿を下げて、また店内に戻っていった。
程なくして、ティラミスとアイスコーヒーがテーブルに揃った。
天斗は、アイスコーヒーにストローをさし、一口飲んだ。程よい苦みと爽やかな酸味のあるアイスコーヒーだった。多少暑さを感じるテラス席には、ちょうどよい冷たさでもあった。
怜はティラミスにスプーンを通し、一口食べると頬を綻ばせていた。美味しそうに食べている怜に思わず天斗は声をかけた。
「美味しいですか?」
「うん。辻井君は、もしかして甘いもの苦手?」
「そうですね。お土産とかでもらったら食べる程度ですね」
「そっか。ティラミスは食べたことある?」
そう聞かれ天斗は、記憶を振り返ってみるとティラミスを食べたことはなかった。
「そういえば食べたことないですね」
「食べてみる?」
怜はそう言って、スプーンに一口分のティラミスを掬って、天斗に差し出した。
「いやいや大丈夫ですよ」
天斗は慌てて手を振る。
「ティラミスはすごく甘いというよりは、ほんのり甘くてほろ苦い感じだから、甘いもの苦手な辻井君でも食べられると思うよ」
怜は、わざとなのか少し的外れなことを言った。
「そういうことじゃないですよ」
「まあまあ。ほらほら、食べて」
ぐいぐいとスプーン差し出す怜に押し負けて、天斗はティラミスを食べた。
「どう?」
怜は楽しそうに天斗に尋ねた。
「少し甘くて、ほろ苦い気がします」
緊張で味が分からなかった天斗は、怜の言っていたことをほぼ真似ることにした。
「気がするってなに?ちゃんとほろ苦いけどな」
怜は愉快そうに言いながら、ティラミスを一口頬張った。もちろん天斗も使ったスプーンでだ。怜の気にしていない素振りに意識していた自分が恥ずかしくなって、天斗は植栽の方を見つめて、空を眺めた。
曇天の雨空の隙間から青空がわずかに覗いていた。そろそろ雨が止みそうだった。
「今日は楽しかったですね」
天斗は空を見つめながら言った。
「うん。とっても」
怜の言葉にはわずかな寂しさが滲んでいるような気がした。空を見ている天斗は、怜が今どんな顔をしているのか分からない。ただ、自分と同じであればと思った。天斗は、嬉しさと寂しさの交じった表情で曇天の空を見ていた。そして、その表情を崩して、努めて平静さを保って天斗は怜に言う。
「また映画行きませんか?上映前に流れてたやつでもいいですし、他のでも。もちろん映画じゃなくてもいいです」
天斗の言葉に怜は、パッと表情を明るくした。
「うん。次は私が映画代を出すからごはんは辻井君のよく行くお店に連れてって」
「よく行くお店は、どこにでもあるチェーン店ですけどいいんですか」
「チェーン店でもどこでも連れてって」
天斗は顔が熱くなるのを感じながらも冷静に答えた。
「分かりました」
「楽しみにしてる」
怜は優しく微笑んで、ティラミスの最後の一口を食べた。
顔の熱さが退かないので、天斗はアイスコーヒーを飲んだ。グラスをテーブルに戻したとき、グラスについた水滴がキラキラと光っていた。
「雨、止みましたね」
先ほどまでは、わずかに覗く程度だった青空は、広がりを見せてそこから陽の光が二人のいるテラスを照らしていた。
「そうだね」
怜が独り言のように呟く。
「辻井君は、雨好き?」
怜は、アイスコーヒーの入ったグラスを両手で大事そうに持ちながら、天斗に尋ねた。その仕草は、まるで何かを守っているように天斗には映った。
天斗は、脈絡のない怜の言葉に意図を勘ぐってしまい、すぐに返答ができなかった。
それを天斗が困っていると受け取った怜は、すぐに笑って
「雨、止んでよかったね。そろそろ帰ろうか」
グラスをテーブルに置くと怜は立ち上がり、ハンドバッグを手に取った。
テーブルに置かれた二つのグラスに影が落ちた。立ち上がった人の手を掴む影だ。二人の影は、テーブル挟んで繋がれていた。
「どうしたの?」
怜は天斗に尋ねる。その表情は、驚きとわずかな怖れがあった。それは決して天斗に腕を掴まれた怖さではない。自分の胸の内を迂遠にもさらけ出したことに起因した怖さであった。
天斗は、耳まで赤く染めながら、次の言葉を探す。このまま怜を帰したくなくて、とっさに自分も立ち上がり腕を掴んだまでは、いいものの何を言うべきか決めていなかった。怜の驚いた表情を見ながら、天斗は一呼吸置いて、怜の質問に答えることにした。
怜の質問の意図は、瞬時には理解できなかったが、あまり時間が掛かることなく天斗は理解できた。それは、本来であれば天斗が言いたかった言葉でもあったからだ。だから、答えは簡単だった。
「僕は……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます