雨の中、一人錆びつく

石橋 奈緒

前編

「雨、降ってきたね」

ベッドから窓の外を見つめていた浅宮怜あさみや れいは、笑いながら言う。

 季節は、梅雨。雨が降るのはなにも珍しいことじゃない。それなのに怜は、今にも外に駆け出してしまいそうなほどに上機嫌だった。

「そうだね」

 上機嫌な怜とは、反対に辻井天斗つじい あまとは適当な返事をした。寝起きで頭がうまく働かないせいである。天斗は自身のスマートフォンで時間を確認した。液晶画面には、午前十時三十分とデジタル数字で無機質に表示されていた。ずいぶんと寝てしまっていたらしい。ついでに天気予報を見てみると午前中は雨模様。昼頃から晴れ間が覗くとのことだ。気圧は低いらしく、頭が回らないのは、きっと寝起きだけのせいだけではないだろうと天斗は思った。雨に対して、やたらと上機嫌な怜は、天斗の返事など意にも返さず、適当な上着を羽織って、ベランダへと出て行ってしまった。

 三泊四日の社員旅行から怜が帰ってきたのは、昨晩のことだった。彼女から帰ってきたことを伝えるメッセージの後に、お土産を渡したいから家に来てほしいと続いていたことで、社会人になってから一人暮らしを始めた怜のアパートに、天斗が訪れたのは、昨晩遅くのことであった。会いたいとは、直接言わずにお土産を口実にするところが浅宮怜のいじらしさであり、かわいらしいところでもあると知っている天斗は、どこか心がくすぐられる想いと一抹の不安を抱きながら、自身の卒論や就活のことをなんて頭の外に追い出し、彼女の家で夜を明かした。

 二人が会うのはずいぶんと久しぶりのことであった。社会人二年目になり、日々を慌ただしく過ごす怜と大学四年生になり、卒論や就活、アルバイトはあるものの怜と比べれば日々をゆったりと過ごしている天斗とでは、時間の流れが違っていたからだ。だから、会う頻度もおのずと減っていた。最後に会ったのは、お互いに一年を乗り切ったことを祝う慰労会みたいなことを四月にやって以来だから、ゆうに二か月ぶりことだった。その間も連絡を取り合うことはしていたが、お互いに相手の忙しさに気を遣って、どちらからも会いたいと言うことはなかった。だから、社員旅行から帰ってきた怜が遠回しにでも会いたいと言ってくれたことが、嬉しかった。すれ違いの続いていた日々に、ほんの少し変化が加わった気がしたからだ。しかし、以前より心に巣食っていた不安は拭えず根付いたままだった。

 怜が開けた窓から、梅雨の時期、特有のじめじめとした湿気のある空気が室内に侵入してくる。寝室の湿度が上がっていくのを肌で感じた。天斗の肌は運動した後でもないのに、汗をかいたように湿り始める。インドア派で普段から汗をかくような運動をしない天斗にとって、それは不快以外のなにものでもなかった。

天斗は、このままベッドで、二度寝でもしていようかと思ったが、この空気から離れたくて、隣室のリビングへと移動した。窓を閉めようとも思ったが、怜をベランダに隔離するような形になってしまうのでやめておいた。

ベランダは、リビングとも繋がっていて、リビングの窓からも怜が雨を眺めている様子がよく見えた。

寝室よりも不快感の少ないリビングでは、クーラーではなく昨夜、電源を切り忘れた扇風機が、プロペラを回すモーター音を響かせ、昨日と変わらず右へ左へと首を回している。日が出ていない分、気温自体は、大して高くないと思うが湿度が高く体感気温は高く感じる。なにより湿度が不快だった。だから、天斗は扇風機では少々物足りなく感じていた。

そこで天斗は、クーラーをつけることにした。怜の住んでいるアパートには、リビングにのみエアコンが備え付けられている。昨夜は熱帯夜ほどではなかったので、クーラーを使うことはなかった。だから、天斗はエアコンのリモコンがどこにあるのか分からなかった。

リビングには、ローテーブルとソファー、キャビネット、テレビ、テレビボードがあり、壁にはアナログ時計が掛かっていた。ローテーブルには、旅行に持っていたと思われる付箋が付いた旅行雑誌と白色のティッシュカバーに包まれた箱ティッシュだけが置かれていた。次にテレビボードに目を向けるとその上に三つのリモコンが大きさ順に整然と並んでいた。見た目から、テレビのリモコンと照明のリモコン、そしてエアコンのリモコンだと分かった。左端にある小さなエアコンのリモコンを取って、電源を付けた。ピッと電子音が鳴って、低い唸りのような音とともに勢いよく冷気が流れてきた。エアコンのちょうど真下にいた天斗は想定以上の勢いに驚いて、エアコンの設定を確認した。リモコンの小さなディスプレイには、温度二十度、風速“強”と表示されていた。

怜にしては、珍しい設定だなと天斗は思った。怜は寒がりでクーラーをあまり好まない。そのことを天斗は知っていた。ましてや、まだ七月にもなっていない梅雨の時期だ。仮に除湿モードで使うことはあっても、ここまで極端な設定にすることはないだろう。

そういえば、先週、二日間ほど異様に暑い日があった。その日は、さすがの怜もクーラーを使ったらしい。そして、クーラーを使用したが、思った以上に極端な設定にしてしまい、戻せなくなったのだろう。怜は少々機械オンチなところがあった。本人はそれを頑なに認めようとしないが。その日は、上着を羽織るなどして乗り切り、クーラーの設定はそのままに旅行に行ったのだろう。

天斗は、除湿モードに切り替えて、リモコンをもとの位置に戻した。

それでも暑がりの天斗は、まだ少し暑いと思っていた。だが、扇風機だけよりはマシになるだろうし、怜がベランダから戻ってきたときに寒い思いをさせるのも嫌だったから、天斗は我慢することにした。そのうち気にならなくなるだろうと思って、ソファーに腰を落ち着かせた。

エアコンのリモコンを戻すついでに持ってきたテレビのリモコンを操作して、テレビをつけると、ちょうどお昼のニュースが始まるところだった。

ニュースでは、とある男子高校生の特集が組まれていた。なぜ、男子高校生の特集が組まれているのか。それは決して彼が事件や事故を起こしたからではない。彼がとある病に罹患した日本で初めての男の子であったからだ。その病は、眠り姫症候群というらしい。女性だけが罹る病であったが、ごく稀に男性も罹ることが、かの男子高校生により判明した。それがおよそ一年前のことだ。

その当時、件の病気を題材にした小説の映画化が発表されたことも相成って、相当話題になっていたことを天斗はうっすらと覚えていた。たしか彼は無事、一命をとりとめたと報道されていたはずだ。

そして、一年経った現在、男性にも罹患することが判明した眠り姫症候群の研究は進み、数年後には特効薬が開発される可能性が見えてきたと。眠り姫症候群の専門医がインタビューで答えたことが話題を再燃させていた。

連日取り上げられたニュースだったので、すっかり見飽きていた天斗はいくつかチャンネルをザッピングしたが、どのチャンネルも同じだったのでテレビを消して、リモコンをローテーブルの上に置いた。

次に天斗は、旅行雑誌を手に取った。観光地の写真とその地名が派手な色とフォントで書かれたどこにでも売っているメジャーな旅行雑誌だ。表紙には、ピンク色の丸文字で書かれた北海道の文字が躍っている。北海道には梅雨がないと言われており、六月の長期旅行にはうってつけの場所である。付箋の貼っている箇所を見てみると札幌、旭川、小樽、富良野と天斗でも知っているような著名な観光地を紹介する記事が載っていた。周辺の観光スポットや人気のお土産なんかにも付箋が貼れている。そこには昨晩もらったお土産も含まれていた。

天斗は、怜とは久しく旅行に行ってないことを思い出した。二人が交際を始めて、そろそろ二年が経過しようとしていた。怜の卒業旅行に行ったのが最後だから一年前になる。その時は、有名な温泉地に行った。忙殺される日々の中では、なかなか旅行には行けない。次は、自身の卒業旅行かなと天斗は考えていた。

 ローテーブルに旅行雑誌を戻して、天斗はソファーに背中を預けた。天斗の体重を受けとめて、ソファーが沈み込む。金具の音が静かなリビングに響いた。なにもすることがなくなったので、なにか一時の暇をつぶせるものがないかと改めてリビングを見渡してみた。

織物柄の白色の壁紙に白の木目で整えられた家具。ソファーのクッションや壁掛けの時計、細かな小物がピンク色になっているのが女性らしさを醸し出している空間。寝室も同様に白を基調として、所々にピンク色の小物があしらわれている。整理整頓もしっかりとされていて、床に服が必ず転がっている天斗の部屋とは大違いである。昨日まで四泊五日の長期旅行で使っていたはずの荷物ですら、昨晩、天斗が来る前に片付けたらしくローテーブルの上に置かれた旅行雑誌以外は、どこにも見当たらなかった。

まるで映画やドラマのセットのような部屋だ。

 天斗は、怜の家に来るたび、いつも気疲れを感じてしまう。自分という異物が、この完成された空間を壊してしまうのではないかと思ってしまうからだ。

ただ、そんな完成された部屋に天斗は違和感を覚えた。昨晩、怜の家を訪れた際には気付くことができなかったが、今、じっくりとリビングを見ることで気付いたことがあった。

今までは、白とピンクの二色かそれらに近しい色が、ほとんどだった。だが、汚れ一つない真っ白なキャビネットの上に、淡い青色のキャンドルが置かれていた。

怜のこだわりは強く、欲しいインテリアがあっても、それに白やピンクの色が無い場合には購入を諦めるか別の店舗、別のメーカーを探して買いに行くほどだった。天斗は何度もそれに付き合った。

天斗と怜が交際を始めた去年の夏ごろ、付き合い始めてからの最初のデートで、二人はソファーのクッションを買いに行った。ちょうど怜がソファーカバーを新しくして、それに合うクッションが欲しいと言ったからだ。付き合って、初めてのデートがショッピングかと天斗は少しがっかりしたが、普段使いする物の買い物に同行させてくれるほど信頼してくれているのだろうと考えることにした。

どんなクッションが欲しいのか天斗が尋ねると、白猫のクッションが欲しいと怜は笑いながら答えた。その笑顔に負け、天斗は買い物に付き合うことにしたが、この時、怜のこだわりの強さを天斗はまだ知らなかった。

二人は、天斗が運転するトヨタのヴィッツで、大型ショッピングモールに併設されている大手のインテリアショップに行った。

年末が迫る休日のショッピングモールは、家族連れでとにかく混んでいた。店内には、定番のクリスマスソングと子供のはしゃぐ声、それを注意する親の声が響き渡っていた。

すっかり冷え込んでいた外と違い、店内は十分に暖房が行きわたっていて、天斗は店に入るなり、着ていたコートを脱いだ。怜は、コートを着たままだった。コートを持った手とは逆の手で怜の手を握り、二人はインテリアショップを目指した。

インテリアショップに着くと、二人はクッションコーナーを探しながら、大型家具や食器類などを見て回った。クッションコーナーには、無地や英字の書かれたクッションばかりで目当てのものを見つけることはできなかった。次に雑貨店も見てみたが猫のクッションはあったものの猫がシルエットになっていたり、クッションの布地がレザーだったりと怜が気にいるものは、なかなか見つからなかった。

その後、ショッピングモールから移動して路面店を二店舗ほど回ったが、怜が気にいるものは見つからなかった。合計四店舗、時間にして四時間ほど買い物に付き合っていた天斗は、怜のこだわりの強さに畏敬の念を抱いた。気軽に買い物に付き合ったことを少しばかり後悔していた。

はじめに訪れたショッピンモールよりも少し小さいショッピングモールに着いた二人は、オムライスをメインに据えたファミレスに入店した。時刻は午後二時。遅めのランチだ。

天斗はクラシックなケチャップオムライス。怜はデミグラスソースのオムライスを注文した。注文を終えると天斗はふぅと無意識に息を漏らし、水を一口飲んだ。その後、他愛のない雑談を十分ほどしていたら、オムライスが運ばれてきた。

それぞれ自分の注文したオムライスを少し食べ、相手のオムライスを一口もらった。怜は自分の注文したデミグラスソースのオムライスよりも、天斗の注文したケチャップオムライスの方が好みだったようで、デミグラスソースのオムライスを食べながらもケチャップオムライスを食べる天斗に羨ましそうな視線を向けていた。それに負けた天斗は、半分ずつと怜と自分のオムライスを交換した。悪いよと言いながらも喜びを隠しきれない表情を浮かべる怜の姿がかわいらしかった。

食事を終えた二人はファミレスを後にして、クッション探しを再開した。

通路にあった館内マップを見た天斗は思わずため息をこぼした。

ショッピングモールには雑貨店、インテリアショップが合計で五軒あった。数が少ないのは、見て回る上でありがたいことなのだが、問題は各ショップの場所にあった。それぞれの場所が遠かったのだ。対角線上にあったり、フロアが異なっていたりと移動に時間がかかりそうだった。普段であれば気にも留めないことだが、今回はそうはいかない。すでに四店舗も回った後で、時刻は十五時を過ぎている。このショッピンモール内の店舗を全て回った後に、さらに別のお店に行く余裕は、ほとんど残されていないだろう。

なんとしても怜が気にいるクッションを見つけてあげたい。その一心の天斗は、頭の中でいくつものルートをシミュレーションしてみたが、効率の良い回り方は浮かんでこなかった。今日は見つけられないかもしれないなとそんな思いが、ため息という形でこぼれてしまった。

天斗は、ため息はまずかったのではないかと思い、怜の方を見たが彼女は食い入るように館内マップを見ていて、天斗のため息には気づいていない様子だった。

やがて、館内マップから目を離した二人は、現在地から一番近い雑貨店を目指すことにした。そのあとは、手当たり次第という暗黙の決定を下した。

天斗は、この雑貨店で見つかってくれと祈りながら、怜の後ろを歩いた。疲れからか二人とも自然と口数が減っていた。

しばらく歩くと目的の雑貨店についた。家族連れやカップルが和気藹々と雑貨を見ている姿が、天斗にはなぜだか眩しく見えた。

天斗がお店に入ろうとすると怜が天斗の手を引いた。怜はお店の前で立ち止まっていた。

不思議に思った天斗は、怜にどうしたと尋ねた。

怜は、無言のまま天斗を引っ張った。ため息が不機嫌な態度に映ってしまったのではないかと天斗は焦っていた。怜は、雑貨店のすぐ近くにあるベンチに天斗を座らせた。

「私のわがままに付き合わせちゃってごめんね。疲れたでしょ?天斗はここで休んでて」

 怜は、申し訳なさそうに笑った。

「全然……」

「待っててね」

 全然、大丈夫ですと言いかけた天斗の言葉を有無を言わさぬ態度で遮って、怜は雑貨店へ消えていった。

 すぐに追いかけようとしたが、ベンチに根が張ったように腰が上がらず自分が思っていたよりも疲労していたことに天斗は気づいた。テニスサークルに所属し、日々の運動を欠かさない怜と比べて、バイトばかりで運動する習慣が全くない自分との体力の差に、彼は少なからずショックを受けた。彼女は、それに気づいていたのかと思うとさらに情けない気持ちになった。

 十分ほど休憩したのち、天斗も怜を追いかけて雑貨店に入ったが、そこに彼女の姿はなかった。クッションがたくさん積まれたコーナーや会計レジを見てもどこにもその姿はなかった。

雑貨店は、北面と東面が通路に面しているお店だった。天斗が座っていたベンチは東面の通路にあり、彼はずっとベンチにいたから怜が東面からお店を出ていないことは明らかだった。つまり、彼女は北面の通路から雑貨店を出て、別のお店に向かったのだ。

そのことに気づいた天斗は、急いで怜に連絡を取ったが、電話をしてもメッセージを送っても連絡がつかなかった。怜がどこのお店に向かったのかもわからず、天斗は行き違いを避けるため、先程まで座っていたベンチに戻ることにした。

それから十分経っても二十分経っても怜は戻ってこなかった。もちろん連絡もなかった。

雑貨店から、まるで宝物を見つけたかのように出てくる家族やカップルの姿を見るたびに天斗の心は不安で埋め尽くされていった。

気づかないうちに怜を傷つけてしまっていたのではないか。やはりため息をついたのがまずかったのではないか。いくら考えてみても答えは見つかりそうになかった。

胸が早鐘を打つ。

耳元に心臓があるのではないかと錯覚してしまうほどに鼓動の音がうるさく耳に響く。

周りの音がどんどん遠のいていくのを感じた。息苦しさも感じ始める。

更に五分ほど時間が経過したころ、天斗の視界が突然暗くなった。目の前を柔らかい何かで塞がれて、天斗はパニックを起こしそうになる。暗闇の中で焦る天斗の耳元にお待たせと怜の甘い声が響いた。

声が聞こえたのと同時に視界が明るくなった。目の前にはクッションを抱えた怜が立っていた。さっきの柔らかい暗闇は、顔にクッションを押し当てられていたのだと天斗は理解した。

怜の抱えていたクッションは、淡いピンク色の布地に白猫の刺繍が施されていた。白猫の刺繍は写実的で、もっとファンシーなものを選ぶと思っていた天斗は少し驚いた。

「可愛いでしょ」

 天斗の驚いた表情をどのように解釈したのか、怜は自慢げにクッションを前に突き出し天斗に見せた。白猫が天斗にグッと近づく。近くで見るとちょっと怖いな。天斗はそんな感想を抱いた。

「待たせて、ごめんね」

 クッションを抱き寄せながら、怜は申し訳なさそうな表情を見せて、天斗の隣に座った。

 お互いの肩がぶつかり、天斗の体温が怜に。怜の体温が天斗に伝わっていく。

 怜は天斗の言葉を待っていた。ごめんねに対する返事の言葉を待っていた。だが、天斗はなにも言わなかった。それは決して、置いて行かれたことを子供のようにすねていたり、いじけていたりしている訳でない。ただ、天斗はこの状況にふさわしい言葉を持っていないだけだった。

 「大丈夫だよ」とか「気にしてないよ」とか言えば良いことは、天斗にも分かっていた。だが、どの言葉も違うような気がした。怜を傷つけたかもしれないことに強い不安を感じて、息苦しさも覚えた。それは大丈夫なことではないし、気にしていないことでもない。それを天斗は嘘にしたくなかった。

 天斗は、必死になって自分の記憶の中から適した言葉を探そうとしたが、なにもヒットしない。これならもっと本を読んでおくべきだったと少し的外れな後悔もした。考えているうちに時間は過ぎていく。怜の顔には戸惑いの表情が浮かんでいた。

 迷った天斗は、ベンチに置かれた怜の手を握ることにした。

 肩がぶつかった時と同じようにお互いの体温が伝わる。体温と一緒にこの気持ちも伝わってくれれば楽なのにな。と天斗は思った。

でも、触れ合うだけで感情は伝わらない。伝播しない。そんなことは、もちろん天斗も理解している。

 怜は、戸惑いながら天斗の手を握り返して、そっと笑ってみせた。

 言葉が無くても気持ちは伝わったのだと天斗は思った。そして、天斗が抱いていた不安はあっという間に消え去った。先ほどとは、違った意味で胸が早鐘を打つ。でも、心臓の音のうるささも息苦しさも感じない。むしろ満たされたような心地の良い感覚だった。

 それから、五分ほど休憩してから、天斗と怜はショッピングモールを後にした。

 帰り際、クッションを見て天斗は尋ねた。

「それ、なんて書いてあるんですか?」

 白猫のクッションには、白猫の刺繍の上にKatzeと書かれていた。英語ではないだろうと思ったが、読み方も意味もわからなかった。

「これはね。カッツェと読むんだ。ドイツ語で猫って意味だよ」

 怜は、そう教えてくれた。彼女は大学の第二外国語の講義でドイツ語を受けていた。

「そう考えるとかなり自己主張の強いクッションですね」

「だね。でも可愛いからいいじゃん」

 改めて見ても可愛いのかどうなのか天斗には、判断がつかなかった。喜んでいる彼女に水を刺す必要もないので、頷いておいた。

 

そんな経緯があって購入した白猫のクッションは、今もソファーに鎮座している。いつ見ても可愛いという感情よりも怖いという感情が勝ってしまう。

その後も何度か怜のこだわりを求める買い物に付き合うことはあったが、白猫のクッション以上に時間の掛かった買い物は一度もなかった。

当時のことを思い出しながら、天斗はソファーから立ち上がり、キャビネットにある淡い青色のキャンドルを見つめた。

怜のこだわりの強さを体感したからこそ、例え小物であっても怜が青色のものを選ぶとは考えられなかった。ましてキャンドルであれば、色の選択肢は無数にあるはずだ。

天斗はキャンドルを手に取る。するとふわりと何かの匂いがした。状況から何かの匂いは、このキャンドルからだと察した彼は、鼻を近づけて匂いを嗅いでみたが、微かに花のような匂いを感じる程度でその正体まではたどり着けなかった。ただ、このキャンドルがただのキャンドルではなく、アロマキャンドルであると彼は理解した。

天斗は鼻からアロマキャンドルを離して、まじまじとそれを見つめた。円柱型の透明なガラス容器の中にみっちりと淡い青色の蝋が詰められたアロマキャンドル。装飾などはなにもなく、シンプルなデザインだ。むしろ無骨と言ったほうが適切かもしれない。綿芯は、焦げ跡などなく真っ白である。最近購入したばかりで、まだ使っていないのだろうか。蝋も溶けてはいない。ただ、本来であればキャンドルの中央にあるべき綿芯は、天斗から見て中央から右側に少しばかりずれていた。

アロマキャンドルをキャビネットに戻しそうとしたときに、天斗の小指がアロマキャンドルの容器の底にあるなにか触れた。不思議に思った彼は、アロマキャンドルを頭上の高さまで持ち上げて底を覗いた。そこには、アルファベットでHと彫られていた。その溝部分に彼の小指が触れたらしい。

彫られたHの文字は、少しばかり歪な形をしていた。その歪さは、底の文字が量産される過程で機械的に彫られたものでなく、人の手で彫られていることを物語っていた。そして、キャンドルの綿芯が本来あるべき中央からずれていることも考慮するとこのアロマキャンドルは、手作りであると考えられた。

もし本当にアロマキャンドルが手作りであるとするならば、このHという文字には、なんらかの意味があると天斗は考えた。手書きないし手彫りで物になにか文字を刻むとき、大抵の場合はその物の所有者を指し示す場合が多い。小学生の時分、自分の物にマジックペンでひたすら名前を書いていたことを天斗は思い出す。

小学生の時は、フルネームをひらがなや漢字交じりで書いていたが、ここに書いてあるのは、Hの一文字だけ。つまりは、頭文字を指していることとなる。だが、天斗の頭文字は、A.T。怜の頭文字は、R.A。二人ともHは含まれていない。二人のフルネームの中にもHは、含まれていない。では、このHは誰を指しているのか。そして、このアロマキャンドルを作ったのは怜なのか。それともHなのか。

天斗は、アロマキャンドルをキャビネットではなく、ローテーブルの上に置いた。そしてソファーに深く座り直した。

不可解なアロマキャンドルのことを踏まえると、怜らしくないクーラーの温度設定についても疑念が湧いてくる。怜が機械オンチなのは紛れもない事実だ。しかし、いくら機械オンチだからといって、ボタンが少ない上に各種機能が明瞭に表示されているエアコンの操作を誤ることがあるだろうか。仮にあったとして、それを戻せなくなるなんてことが、あり得るのか。

寒がりの怜にしては極端な設定温度になっていたクーラー。怜のこだわりから逸脱した手作りの淡い青色のアロマキャンドル。そして、その容器の底に彫られたHの文字。その三つの違和感が天斗の心の中に一つの疑惑を生んだ。

天斗はそれを振り払うようにかぶりを振る。きっと低気圧と寝起きで頭が働いていないせいだ。湿度が高まって不快に感じているからだ。だから、悪い方向に考えが及んでしまうんだ。俺は怜を信じている。天斗は、そう自分に言い聞かせた。

しかし、一度生まれた疑惑は、以前から抱いていた一抹の不安と一緒になって天斗の心を蝕んでいく。それは、まるで錆のように心を侵食していった。

雨は依然として止まない。扇風機のモーター音をやけにうるさく感じる。エアコンの除湿モードは、全く効いていないのか部屋の湿度は変わることなく、天斗に不快感を与え続けていた。

天斗はベランダにいる怜を見つめる。彼女はベランダの腰壁に体を預けながら、のんびりと雨を眺めている。時折、スマートフォンを見ている様は、雨の中、誰かを待ち続けている姿を想起させた。

天斗はゆっくりとソファーに横になった。何だか頭が重い。重力に従って、天斗の頭はソファーに着地する。その時、アロマキャンドルと同じ花の香りが鼻腔をかすめた。この香りは一体、誰のものなのだろう。天斗はつられて重くなった瞼を閉じた。

 白猫のクッションは、そんな天斗を冷ややかな目で見つめていた。

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