熊にブロッコリー

戸来十音(とらいとおん)

熊にブロッコリー


 どこかはるか遠くで誰かが私のことを呼んでいた。


 私の中の何かがそれに答えようと小さなランプを灯した。ゆっくりと意識が、海面から顔を覗かせる海がめのように、心の奥底から明るい場所へ浮上すると、除々に私を形作って行った。


 何か夢を見ていたようだった。はっきりとは思い出せない。夢の中で誰かが誰かを探していたか、誰かが何かを求めていたような気がする。よくは分からない。おそらくそうだったのだろう。


 あるいは、夢それ自体が心の薄暗闇をどこへ行くともなく彷徨っていただけなのかもしれない。まるで暗い海底を行くネモ艦長のノーチラス号のように……


 何度か目をしばたかせていると、だんだんと周囲が見えるようになってきた。


 電話が鳴っていた。


 幾分ふらつきながら、椅子から立ち上がると、私は何とか電話機までたどり着き、受話器を取り上げた。


「なかなか出なかったけど、どうかしたの?」


「あっ、ごめん。ちょっと、忙しかったものだから」


「あなた、いつも忙しい、忙しいって言ってるけど、ほんとは何もしてなかったんでしょ」


 図星だった。


「昨日ね。学校の机の上に書きかけの実験レポート忘れていたわよ。だから持って帰ってきてあげたのよ。それにしてもひどい内容ね」


「見たの?」


「見ないでおこうたって、ついつい見ちゃうわよ。なんで、こんなにお粗末なの? それに字も間違えてる。だから添削してあげたわよ。感謝しなさい」


「でもそのレポート、もう出さないつもりなんだ」


「ええっ、どうして? あなた、先生から赤点もらいたいの? そんなことしたら、この学期ますます大変になるわよ。わかってるでしょ」


「わかってるさ」


「じゃあ、なんでそんなこと言うの?」


「実はもう学校にいかないつもりなんだ」


「はあ? 後二日たてば、文化祭も始まるっていうのに。あなた、なんてこと言い出すの? それに学校に行かなくなったら、もう私にも会えなくなるのよ。それでもいいの?」 


「僕たち、近所同士だからいつでも会えるよ」


「そ、そうだけど。でもね、学校ぐらい行っておかないと、あなた、将来困ることになるわよ」


「どういうふうに?」


「どういうふうにって、いい会社に就職できなくなるし、いいお嫁さんにもきてもらえなくなるのよ、きっと」


「君がいるからいいよ。ね、そうでしょ?」


「私? どうして、私なの?」


「つまりさ、僕たちは相性がいいってことさ。うまくやっていけるかもしれない」


「お・こ・と・わ・り」


「レポートもろくに書けないやつなんて、私いやだからね。顔を洗って出直してきなさいよ」


「もしレポートを受け取りたかったら十時半にいつものカフェにいるからね。来なければ飲み残しのコーヒーと一緒にゴミ箱に捨ててやる。いい、分かったわよね?」


 そういうと彼女は電話を切った。


 話終えると本当に何もすることがなかった。自分の部屋に戻り、コットンの長袖シャツとジーンズに着替えると、バッグに財布と鍵と小さな楽器をケースごと詰め込み、スニーカーに履き替えてから、外に出ようとした。


 ふと居間のサイドテーブルを見ると新聞の朝刊が置いてあった。新聞の一面は、今回の戦争で、この国の若い兵隊の死者が急速に膨れ上がりつつあると報じていた。私は見るとはなしにその記事を眺めていた。



 外はこの季節にしてはめずらしく、ぽかぽかとした陽気だった。しばらく歩いて大通りに出ると、誰も彼もが雑踏の中にいた。


 忙しそうに行き来しているものたちを見ているうちに欠伸がでてきて、それをかみ殺すのに苦労した。東に四ブロックほど歩くと公園の入り口に出くわした。落葉した木立の間をすり抜けしばらく行くと誰もいない広場に出る。


 私は近くのベンチに腰を下ろし空を見上げた。空は抜けるように青く、どこを捜してもひとかけらの雲すら見つからなかった。


 きっと腹を空かした誰かが、アイスクリームと間違えて全部食べてしまったに違いない。


 小さな鳥が一羽、梢にとまるとリサイタルを開いていた。観客は私以外にはいないようだった。


 私はバッグから黒い楽器ケースを取り出すと蓋を開け、楽器を組み立てた。黒檀をくりぬいて作られた楽器は両手にすっぽりと収まる割に重みがあり、銀メッキの施されたキィ・メカニズムには、どこまでも羽ばたいて行けそうな翼が畳み込まれているような感触があった。


 マウスピースを口に当てると、最初の音階を吹いてみた。木管の素朴な音が周囲の木立に吸い込まれていった。反響のない茫漠とした感覚が、周りに世界が存在することをそれとなく私に告げているようだった。


 こんなことを何度か繰り返している内に、梢の小鳥は、闖入してきたものに機嫌を悪くし、次のリサイタル地へと飛び去ってしまった。私はかまわず練習を続けた。


 その間も世界は平和だった。紺碧の青空から爆弾やミサイルを投下してくる飛行機もいなかったし、殺人光線を浴びせかける円盤も飛んでこなかった。


 紛争らしい紛争と言えば、近くの木の幹で二匹のリスが一つの木の実を取り合って無言の金切り声を上げていたくらいだった。枯れ葉の下では冬支度を終えた小動物や昆虫たちが気持ちよさそうにかさこそと身を動かし、ぬくぬくとしていた。


 練習を終えると、楽器を二つに分解し、掃除をしてから楽器ケースにしまい込んだ。楽器ケースを再びバッグに詰め込むと、私は少し前屈みになりながら、鼻柱を両手で包み込み、それぞれの人差し指で両目の際を抑え、目を閉じるとしばらくじっとしていた。


 誰からも何のメッセージもなかった。すがすがしい空は、ただすがすがしくじっと頭上に掛かっているだけだった。木立は木立らしく佇んでいた。風はそよとも吹かず、自分が風であることを忘れているようだった。こんなに天気がいいと、何をしていいのか本当に分からなくなる。


 私は立ち上がると公園を出て、大通りに戻り、何本目かの角を曲がると静かな街路に出た。



 彼女はカフェのテラス席で、ひとりしかめっ面をして鉛筆でノートに何か書きものをしていた。


 私は、そのままそばを通り過ぎてどこかへ行こうかとも思ったが、どこにも行くあてがないことを思い出して、となりのテーブル席に座った。


「ちょっとまって、今終わるから」こちらを振り向きもせずに彼女はそう言った。


 きっと彼女の背中には高機能な探知器が埋め込まれているに違いない。


 私は、そっと手を持ち上げると、彼女の背中から少し離れたところで振ってみた。


 反応はなかった。


 彼女はうんざりしたように顔を上げた。


「もう少しまっててって言ってるでしょ。あなた小学生?」


「昔、そうだったよ」


「そして、今も変わらないのね」


「背も伸びたし、体もその分大きくなったと思うんだけど」


「でも中身の方はどうかしらね? とっても疑問だわ」


「さっき公園でね、鳥を見たんだ。とっても歌のうまい鳥がいたんだよ」


「みんなはもっと成長してるっていうのに、あなたはいつまでもそこにいたいの?」


 私はちょっと困った顔をして見せた。彼女は私の顔を覗き込むように見て、それからため息をついた。


「分かったわ。あなたにはあなたの歌い方があるものね。私にはとっても残念だけど」


「どうしてそう思うの?」


「あなたを見ているとね。ときどきもう絶滅してしまった生き物を見ている気になるのよ」


「僕は生きているよ。まだ死んじゃいない」


「それはそうだけど。でもね、今時、みんなはもっと堅実に歩いているわ」


「僕だって、自分の二本足で歩いているよ」


「じゃあ、聞くけど。学校を辞めてあなたどうするつもりなのよ?」


「学校に行くことが、たったひとつの道じゃないからさ」


「それで?」


「世界は広いんだ。そこには教師が教えられないがらくたがごまんと詰まってる。中にはきらきら輝くものもあるはずなんだ」


 彼女は諦めたようにため息をついた。



 それは私が彼女のおしゃぶりを取り上げてから四千八百八十二回目のため息だった。あるいは四千九百五十三回目だったかもしれない。よくは憶えていない。


 でも彼女が私に向かって一番最初にため息をついた時のことは、今でもよく憶えている。あるいはそれは一緒にそばにいた姉貴が後で私に言ったことを、自分の記憶と取り違えているだけなのかもしれない。


 よくは分からない。


 あの時、私と彼女は横に並べられたお互いのベビー・カーに乗ってすこぶる上機嫌だった、彼女の口元にすてきなおもちゃを私が見つけるまでは…… 


 おしゃぶりを取り上げられた小さな女の子は、まず手始めに私に挨拶するように、ごくささやかなため息をついた。


 それから彼女の顔はこわばると、両方の目にそろそろと水滴が顔を覗かせ始めた。そして両頬がゆっくりと引きつった。


 次の瞬間、耳をつんざくような声がその喉元から飛び出した。びっくりした私は思わず、戦利品を取り落とした。


 私の母親が飛ぶようにやってくると、泣きじゃくる彼女と私と私のベビー・カーの近くに転がるおしゃぶりを見て、そこでどんな事件が起こっているかを見て取った。


 母の睨むような視線に私は縮み上がった。母はおしゃぶりを拾うと近くの洗面に飛んで行き、洗ってから、小さな女の子にそっとやさしく手渡した。


 遅れてやってきた女の子の母親はそばで笑っていた。姉貴は両方の女親たちに自分が見聞きした一部始終を話したくて、口の端をむずむずさせていた。


 私? 私はせっかく手に入れたおもちゃを落っことしてしまったことを悔やんだ。


 それにしても彼女の泣き声はすばらしかった。泣き声の世界コンテストがあれば優勝まちがいなしだったと思う(おしいことにそのようなものは開かれていなかった)。


 それから私たちは何度か会ううちに一緒に遊ぶようになって行った。私は二度と彼女のおしゃぶりに手を出そうとは思わなかった。


 気がつくと、いつしか彼女の口からおしゃぶりは消えていた。


 今、手も足もすらりと伸びた女の子は、私の目の前でいぶかし気にこちらを見つめている。私は彼女がおしゃぶりをきっと誰の目にも触れることのない大きな樫の木の下に埋めたにちがいないと思っている。


 そしていつか彼女の口からそれを話してほしいと思っている。いつかきっと、彼女が……


「何、考えているの?」


「いや、なんにも」


「うそでしょ」


「うん」


「あなたって正直よね」


「そうでもないさ。たまに嘘をつく」


「うそをついても、正直についてると思う」


 私は肩をすくめるしぐさをしてみせた。世の中はややこしい。そのややこしい世の中に私というややこしさが加わったとしても何程のことはない。


 世界は自転し、公転しているのだ。そして緩やかな渦を巻きながら集団を作り、それらがさらに大きな集団を作り、全体が膨張を続けている、と信じられている。


 おまけに、私たちが「時」としてしか捉えられない何ものかがそこにかかわり合っている。


「文化祭で何を発表する気なの?」


「Dマイナー・ブルース」


「練習した?」


「少しはね」


「聴いてみたいわ」


「今度ね」


「この手で演奏するのね」


 彼女は私の手を取るとしばらくの間、眺めていた。


 私は言った。


「今のところ二本しかないけれど」


「みんなそうよ」


「ああ、そうだね」



 ウェイターがやってくると注文を取って行った。私は彼の後ろ姿を見ながら彼女に言った。


「ある森にね、熊が住んでいたんだ。熊はくる日もくる日も待ち続けていた……」


「宅配屋さんでも待っていたの?」


 私は微かに首を振るとこう言った。


「熊はね、ブロッコリーが大好きだったんだ。でもそれにかけるドレッシングがなかった。だからドレッシングを持ってきてくれる誰かを待っていたんだ」


 彼女は心なしか、遠い目つきをしたように見えた。


「熊はくる日もくる日も待ち続けていた。でも誰も熊の家のドアをノックするものはいなかった……」


「私なら、近くのスーパーへ行ってドレッシングを買ってくるわよ」


「いいかい、熊の住んでいる森にはスーパーなんて便利なものはないんだ。たとえあったとしても、熊はお金を持っていなかった。それに今までお店で買い物をしたこともなかったんだ」


「じゃあ一体全体どうして、熊はブロッコリーなんて手にいれることができたのよ?」


「しかもそれを好きになるには、何度か食べてみないと分からないわね」


「それに、熊はどうしてブロッコリーにドレッシングをかけるとおいしいなんて分かったの?」


「そもそもこの世の中にドレッシングが存在していることなんてどうして熊は知っていたのかしら?」


 彼女の口元は、みるみる鳥の口ばしのように尖り始めた。


「熊は友達の家に呼ばれた時に、勧められてブロッコリーにドレッシングをかけて食べたんだ」


 「そして虜になっていたんだ」


「今、熊の家のキッチンにはどっしりとしたテーブルが据え付けてあって、その上に大きなボウルが置いてあった。そこに、ブロッコリーがわんさかと盛られていたんだ。ブロッコリーは誰かからのプレゼントだった。あるいは懸賞に当たったのかもしれない。そして熊はドレッシングを焦がれるように待ち続けていたんだ」


「そんなに待ち続けているとブロッコリーがしなびて腐っちゃうわよ。冷凍庫に入れて凍らせておくでもしない限り。それでもよく持って一ヶ月くらいってとこよね? 味も風味も台無しになっていくわ、きっと」


「ブロッコリーはね。一旦ゆでてから真空パックで包装されていたんだ。宇宙科学研究所で開発された長期宇宙飛行のための新しい手法でね。だから何日置いておいてもしなびないし、腐りもしないんだ。風味も損なわれない」


 女の子は疑いのまなざしをこちらに向けて、鉛筆の端っこを歯で噛んだ。


「それで? 熊はどうしたのよ?」


「いくら待っても誰もドレッシングを持ってきてくれなかったんだ。だから熊はブロッコリーを袋に詰めると、その袋をリュックに詰めて、旅に出たんだ。ドレッシングを捜す旅にさ」


「結局、見つかったの?」


「いや、見つからなかった。国中を探し回ったんだけど、ドレッシングは影も形もなかったんだ」


「どうしてかしら?」


「これには分けがあった。その国で最近即位した新しい王様が大のサラダぎらいだったのさ。だから家来に言って国中のドレッシングというドレッシングをかき集めさせて全部を海に放り込んでしまったんだ。新たにドレッシングを作ることも御法度だった。ドレッシング工場は閉鎖され、ドレッシング・メーカーは廃業させられた。ドレッシングを売り歩く行商人は捕まり、首を跳ねられた」


「やれやれ、野菜好きの私にはたまらない国に熊は住んでいたのね。それで熊はどうしたのよ?」


「簡単だよ。革命を起こしたのさ」


「カクメイ?」


「熊は地下組織と接触すると、レジスタンス活動を通して、少しずつ自分の地盤を固めていったんだ。熊がドレッシングに寄せる思いはそれほど強大だった。そして、ついにある日、彼らは立ち上がった。王国軍との戦いは三日三晩続いた。それは、それは、激しい戦いだった。武器を持った双方の若ものたちが次々と倒れていった。夜が白々と開け始める頃、熊は玉座の前に立っている自分自身を発見した。そこは、もぬけの殻だった。身の危険を感じた王様は城からとっくに逃げ出していたんだ」


「やっと思いをとげたのね」


「そうなんだ。それから熊は民主政治を領いた。やがてそれぞれの家の食卓にはドレッシングの瓶が並ぶようになった。みんなはすごく熊に感謝したんだ。ドレッシング工場の工場長たちは一生かかっても食べきれないくらいのドレッシングを大きな詰め合わせにして熊に送り、ドレッシング・メーカーの社長たちは色とりどりの感謝状とともに自社の株を熊に分け与えた。ドレッシングを売り歩く行商人たちは、感謝の気持ちを込めて、ささやかな微笑みを熊に送った。やがて産業はドレッシングで栄え、海外にも輸出するようになった。今でも、その日のことをドレッシング独立記念日と呼び、その戦いのことをサラダ戦争と呼び、その国のことをブロッコリー共和国と呼ぶものがいる。なに?」


「気になっていることがあるんだけれど…… ひとつ、訊いていいかしら?」


「うん」


「熊はブロッコリーにドレッシングをかけておいしく食べられたのかしら?」


 私は、彼女をじっと見つめた。


「いや…… 熊は一生、ブロッコリーもドレッシングも口にしなかった」


「どうして?」


「熊は気がついたんだ……」


「……」


 彼女は少し首をかしげるような仕草をした。


「戻りたいと思っても、もう戻って来れないものたちがいるってことに、如何に自分の方が正しくっても、その原因を作ったのが自分だってことに」


「それって……」


「しかも彼らはまだ若かった。あの戦いで倒れさえしなければまだ生きていたに違いない。例えサラダにドレッシングをかけて食べられない不自由さがあったとしても……彼らは家族や友達とともに楽しく今も暮らしていたはずなんだ。だからそのことを思うと熊はもうブロッコリーにドレッシングをかけて食べることができなかった。いや一口も食べようとしなかったんだ……」


 私は口をつぐむと彼女を見た。彼女は今にも降り出す雨模様のような表情を顔に浮かべ私の方を見ていた。


 私はとっさにジーンズの尻ポケットから薄汚れたハンカチを取り出し、彼女に差し出そうとした。でも間に合わなかった。


 目の前の女の子は、重心を素早く移動させると、両腕を私の首に回し、体重を私に預けた。身体に触れた部分をとおして彼女が震えていることが分かった。


 私の首筋に彼女の暖かい吐息が触れた。左頬に彼女の髪を通してほのかにほてった柔らかい頬が感じられた。行き場に困った私の両手は、少しの間、中に浮いていたが、彼女の背に触れるとそのままそこに留まった。


 彼女の口からつぶやきが漏れた。


「兄さん……」


 やがて私の左肩に生暖かく濡れたような感覚がやってきた。私たちはしばらくそのままの姿勢でいた。ふと気がつくと、時はテーブルの横で歩みを止めていた。



 彼女が落ち着いてから、私は彼女の両腕に手を沿えるとそっとそれを振りほどいた。彼女は小さくうなずくと安息所にしていた私から離れ、自分の席に戻った。


 ウェイターがやってくると、私が注文していた飲み物をテーブルの上に置いた。


 私はどこまで行っても唐変木な自分をもてあましていた。最初に彼女の宝物を取り上げてから、私は何回、彼女を泣かしてしまったんだろう。後悔はいつも口笛を吹きながら私の後からついてきていた。まるで鴉(カラス)のように、それは私がせっせと蒔いた種を律儀についばんでいた。


 私は、まだ手に持っていた自分のハンカチを彼女に差し出した。彼女は私の黄いばんだハンカチをじっと見つめてから目をそらし、自らのバッグに手を伸ばすと、中から真っ白なハンカチを取り出し、それで自分の頬と私の左肩を拭った。


「泣かせるつもりじゃなかったんだ」


「分かってる」


「でも、ついこうなってしまったんだ」


「知ってる」


「気がつかなかったんだ……」


「何も言わないで……」


 彼女は自分のハンカチで目の縁を押さえた。私のハンカチは私の手の中で手持ち無沙汰にしていた。おそらくもう出番はやってこないに違いない。


 私は再び自分の薄汚れたハンカチをジーンズの尻ポケットにねじ込むと、両手を頭の後ろに回して組み、空を見上げた。


 空は、舗道の両側に立ち並び連なる背の高い建物の屋根で細長く切り取られ、まるで天を流れる運河のように見えた。その中を二、三羽の鳥が翼を広げ東の方角から西へ泳ぐように渡って行った。


「氷が解けるとおいしくなくなるわよ」


 しばらくたって、彼女はそう言った。私はウェイターが運んできた飲み物にまだ手を付けていなかった。


「本当に悪かったって思っているんだ」


 彼女はそれには答える気がないようだった。


「せっかく頼んだんだから飲むんでしょ」女の子はストローの包装を指で破ると、取り出したストローを飲み物のグラスの中に入れてから、グラスの外側についた水滴をハンカチで丁寧に拭い、それを私に差し出した。


 私はグラスを受け取るとストローに口をつけて少し飲んだ。


 確かにまずかった。


 おまけに冷たい飲み物は、もはやこの季節の看板ではなくなっていた。


 私は再び空を見上げた。


 空は翼を拡げ羽ばたく鳥たちを抱き、どこまでも高く、どこまでも青く自らを染め上げようとしていた。空は、その極みの彼方から私たちを遥かに見下ろしているように見えた。


 グラスをテーブルに戻すと、私は彼女の方を見た。女の子は、細い指を折り曲げるようにして鉛筆を握り、テーブルに再びノートを広げると、それに向かいしかめっ面をしていた。


 舗道を散歩する目に見えない妖精たちが、ふと立ち止まって彼女のテーブルの傍に立ち、覗き込んでいたとしても不思議はなかった。


 しばらくして、私は訊いてみた。


「何を書いているの?」


 視線を上げると束の間、焦点の定まらない顔つきをしていた女の子は、隣に私がいることに少し驚いたように見えた。そしてこう言った。


「あのね、文化祭でね、詩を朗読することになっているの。最初、誰かの書いたものを読もうかと思ったんだけど。それじゃあ、あんまりつまらないから、あたし、自分で書いてみることにしたのよ。もう少しで出来上がるんだけど、最後の部分がなかなか決まらなくって苦労しているのよね」


「おもしろそう?」


「さあて、それは見方によるわね。でも自分では結構、気に入ってるんだ」


「へえ、どんな内容なの?」


「へへ、見せないよ。聞きたかったら。当日、ルーム3Aに午後二時においで」


 そう言うと、彼女は開いたノートで顔の下半分を隠し、ほくそ笑んだ(私からは彼女の目だけしか見えなかったけど、その目が笑っていたので、多分そうだと思う)。


 それ以上、詮索してもしかたなさそうだった。私は黙って、テーブルに向かい午前の光を浴びながら書き物をしている女の子を、見えない妖精たちに混じっていつまでも見守り続けていた。


 それは、何もすることが考えつかない晴れ渡った日には、すこぶる打ってつけの過ごし方だった。


 きっと、そうだったに違いない。


 あれ以来、彼女は私にレポートを返していない。

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