キントンさま
「キントンさまって知ってるかい」
橘田さんのお祖母さんの家を出てすぐ。
いたちが沼公園、と書かれた立札があったためそこへ赴いた。学校のグラウンドの半分くらいの大きさ、まぁ狭くも広くもない敷地内にボール遊びをしている男の子が何人かいたので、「ちょっと訊きたいことがあるんだけど」と断りを入れてから訊ねた。
すると一番年上そうな、体の大きい少年が頷いた。
「知ってるよ」
その言葉を皮切りにちびっ子たちが「知ってる!」「おれも!」と続いた。僕は訊ねる。
「それってどんなのだい」
「キントンさまは、キントンさまだよ」
そんな返答。僕はうーんと唸る。
「僕はキントンさまについて知らないんだ」
そう、前置きをする。
「何も知らない人にキントンさまを説明しろ、って言われたらどうする?」
「それは難しいよ」
体の大きな少年は困った顔をした。
「宇宙人に『左』って教えられないでしょ?」
宇宙人に「左」は教えられない。僕は鳩尾に汗が流れたのを感じた。
「宇宙人に『左』は教えるには?」これはオズマ問題という物理学の命題だ。
言葉は完全に通じるが、概念が全く通じない宇宙人に「左」という概念を伝達できるか……? そういう課題である。
言葉は通じる。なので言語的な壁はない。だが例えば「車」という単語が出ると「車って何ですか?」となる。「車輪がついていて人や物を動かすものだよ」と伝えると「車輪って何ですか?」「人って何ですか?」「物って何ですか?」となる。こういう相手に「左」を伝えられるか。そういう問題である。
オズマ問題は、ある物理学者の手によって一応の解決を得ている。なので解なしというわけではないのだが……そのレベルで難しいということか。
「誰に訊いたら教えてくれそうだい」
質問の仕方を変えてみると、少年は頭を掻きむしってから「黒河さんかなぁ?」と首を傾げた。黒河さん。これはさすがに分かる。
神社の名前に「さん」付けをする文化は日本各地で見られる。
「黒河神社かい?」
そう訊ねると少年は笑った。
「うん! この公園突き抜けるのが早いよ!」
「公園を突き抜ける?」
僕が首を傾げると、男の子たちは一斉に僕の袖をつかんで「ついてきて!」と声を上げた。されるがままについていくと、目の前にちょっとした木立が見えてきた。
「と、通り抜けるってここを……?」
「うん!」
また引っ張られるままに先に進む。鬱蒼と茂った木の間をどうにかこうにか潜り抜け、途中丘や谷を乗り越えていくと、いきなり石畳の道に出た。なるほど、参道である。続く先には
「ありがとう」
少年たちに礼を言うと、彼らはニコニコ笑って「うん!」と声を上げた。それからちらりと社の方に目をやって「げえ」と唸った。僕は訊ねた。
「どうしたんだい」
「えっちんがいる」
「えっちん?」
「うん。エッチだからえっちん」
エッチだからえっちん?
そのネーミングからするに完全に不審者の類だが……と思っていると、社の手前、木でできた門の足下に浮浪者らしき男性が伸びていた。ボサボサの髪に伸び放題の髭。汚い。しかも半袖半ズボン。
「うえー。おじさんも逃げた方がいいよ。あいつずっとこの辺にいるんだもん。タカミチんちの妹もあのえっちんにスカートめくられそうになったって言ってた!」
「完全に不審者だな……警察は?」
「おまわりさんはえっちんに注意はするけど捕まえてはくれないんだよなー」
「なー」
どう見ても事案だが、それでも動かない警察……?
と、首を傾げていた時だった。
スマホが鳴った。僕はすぐさま応対する。橘田さんからだ。周りをちょこまか動くちびっ子たちに気を配りながら(えっちんの手前何かあったら大変だし)、LINE通話に出る。
「飯田先生!」
ほとんど叫び声。
「どうしました」
僕が冷静に応対すると、橘田さんは震える声でこう告げた。
「し、死体が……」
「死体?」
そう、訊き返した時だった。
「あ、雪だー」
少年たちがつぶやく。ふと、空を……木立でほとんど遮られた、狭い空を見上げると。
はらはらと、白い雪……。
*
事の顛末。これがとにかく奇妙なのだが、一応ここに記しておく。
橘田さんがお祖母さんと静かにおしゃべりをしていると、不意にお祖母さんが時計を見て「そろそろ藤井さんに電話せんとねぇ」と立ち上がった。用事があるなら、と橘田さんが黙っていると、お祖母さんは電話口に向かって「うん」とだけ告げ、切った。橘田さんが「何今の?」と訊くと「んにゃ、キントンさまがね。こうしろって」とつぶやいた。すると今度はお祖母さんの電話が鳴って「雨水用タンクを開けたいから鍵をくれ」という趣旨の話があった。お祖母さんが鍵を取りだして「悪いけど二〇一号室の
「じゃあお祖母ちゃんが雨水タンク開けに行けばよくないですか?」
橘田さんの発言も頷ける。藤井さんがお祖母ちゃんより若い人間ならば分かるが、藤井さんもお祖母ちゃんと同じくらいの高齢女性。彼女がタンクを開けなければならない理由などない。
まぁ、それはよしとして、橘田さんは後々「お祖母ちゃんから預かった鍵を藤井さんから回収するミッション」が発生することを見越して、藤井さんについて行くことにしたそうだ。藤井さんは最初渋っていたが、橘田さんが外部の人間であることを考慮し「まぁ、キントンさまも許してくれるべぇ」と同行を許可した。果たして辿り着いた雨水タンク。梯子を上って藤井さんがタンクの蓋を開けると、その口から漏れる悪臭。あまりの臭さに「警察呼んだ方がよくないか?」と思っていたところ、既に藤井さんが通報済み。果たしてやってきた警察は、橘田さんたちに事情を聴きもせずにタンクを覗き「死体ですねー」と一言。そのあまりの呆気なさに「え? 死体ですか?」と何だかコントのようなコメントをした橘田さんは、とりあえず僕に連絡、という次第のようだ。
そして死亡していた道芝誠也さん。この人も困り者だった。
何でも九〇六号室に住む
死んでせいせいする。そんな類の人間だったようだ。
実際、お祖父さん自身、どこかすっきりしたような顔をしていたどころか、隣近所に「よかったですねー」なんて声をかけられる始末。僕も橘田さんも混乱するのを通り越して怖ささえ覚えるような、そんな状況だった。
そこに来て、雪。
「安全のためバスを運休します」
そんなアナウンスがターミナルに出された。そういうわけで僕たちはこの降ヶ丘団地に閉じ込められることとなった。
「飯田先生、どうしましょう。自分の家族なのに怖い……」
お祖母ちゃん宅。ハッキリと困り顔の橘田さん。
「だいたいおかしくないですか? 人が死んだのによかったね、なんて」
「うーん。まぁ、確かに」
おかしいと言えばおかしい。だが僕も、これまで散々「おかしい」現象に立ち会ってきたのでいくらか感覚が麻痺しているというか、別に……。
「朱音ちゃん。飯田さん。お食べなさい」
そう、小皿を出してきたのはお祖母ちゃんだった。皿の上には
「もう年末ですもんね」
するとお祖母ちゃんは頷く。
「そうそう。おせち料理でね。作っておいたんです。この栗、黒河さんのところで採れるんですよ」
黒河さんのところで採れる。
この頃、朧気ながらに僕の頭の中で情報が繋がり始めた。
「なるほど……」
お祖母ちゃんの栗金団を食べる。甘い。旨い。
「なるほど?」
*
大雪の中。
お祖母ちゃんに傘を借りて。
僕と橘田さんは、一路黒河さんのもとへ向かった。黒河神社。正規ルートではバスターミナルから西に少しずれたところに参道がある。僕が子供たちに連れられていったのは神社の裏手で、ほとんどの人はそこは通らないらしい。
果たして、正面から見た黒河さんは。
それはそれは立派な神社だった。鳥居も大きい。参道もきちんと整備されている。石灯籠も美しく、社務所の窓からは美しい装束を着た巫女さんが見える。
「ここに手がかりが……」
そうつぶやく橘田さんに僕は返した。
「いや、というか犯人がいる」
「犯人?」
「ああ」
僕は本殿を示した。
「裏手に行こう」
参道を通り、階段を上り、そうしてやってきた神社本殿。脇に神社の歴史が書かれた看板があったので読むと、この黒河神社は江戸時代は
まぁ、それはともかく神社の裏手にいくと、やはりそこにいた。
本殿の背後には木製の門。その足元に寝転がっている。
「寒そう……」
橘田さんがそうつぶやく。半袖半ズボンでいびきをかいている。通称えっちん。
「おお、おう……」
と、僕たちの来訪を察知したかのように、えっちんが目を開けた。それから僕たちの方を見て一言。
「来たか」
僕は返した。
「分かっていたのか」
するとえっちんは笑った。
「まぁな」
俺は神様なんだ。
そうつぶやいたえっちんを見て、橘田さんが僕の耳元に口を寄せる。
「大丈夫ですかこの人」
「人じゃない」
僕は応じた。
「神様だ」
「先生までそんなこと……」
「神様でなけりゃこんな大雪の中半袖半ズボンで寝られるわけがない。凍死する」
「ま、そうっちゃそうですけど……」
「僕たちの来訪も予想していた」
「それは、まぁ……」
「おいお前」
えっちんが橘田さんを見る。
「今日オレンジ色のパンツ履いてるだろ」
橘田さんの表情が変わる。
「何なら上から九十……」
「わー! やめろやめろ! 事務所NG!」
「何だ、公開している値と違うのか」
「飯田先生までやめてください!」
「さすがだなえっちん」
僕はえっちんを見下ろした。
「エッチなだけある」
「何なんですかこの人!」
むくれる橘田さんに僕は返した。
「だから、神様だよ」
それから僕は説明をした。
「キントンさま、はおそらく『栗金団』から来ている。さっき本殿の横にあった看板。元和の時代に飢饉から民衆を救った際に栗を出した。おそらく金団にしたんだろう。だからキントンさま」
「おお……」
えっちんが満足そうに笑う。
「お前いいなぁ」
「命を救われた民衆はこの神社を崇拝するようになる。崇拝、信仰、尊敬。そういうのはエネルギーになる。以来キントンさまはこの地を守る神様になった。それは降ヶ丘レッドタウンができても変わらなかった」
「むしろうまくやったもんだぜぇ」
えっちんは笑った。
「俺を祀ったまま、新しい街を建てちまいやがったんだからよぉ」
街ごと守らない訳にはいかねぇじゃねぇかぁ。
えっちんのその言葉に、いよいよ橘田さんは「え、本当に神様なんですか?」と返してきた。僕は頷いた。
「お祖母ちゃんはキントンさまの導きに従って藤井さんに電話したと言ったね。藤井さんも、まるで最初から決まっていたようにタンクを開けて警察に通報した。その警察も、最初から何もかも分かっているような
僕は橘田さんの顔を見た。
「お薬の件も、お祖母さんは『キントンさまに相談する』って言ってたろ?」
「ああ、ありゃ難題だがなぁ」
えっちんが、僕たちの足下でつぶやく。
「まぁ、何とかすらぁ」
「えっちん。いや、キントンさま」
僕はそう告げた。
「雪が降るとこの街は交通が麻痺する。違うか?」
「違わねぇ」
「困る人が出てくるな」
「だろうなぁ」
「やませられないか?」
「できるよ」
僕は笑った。
「ちょうどな、僕たちは帰りたいんだが……」
傘の上には雪が積もっていた。だんだん重くなる。
「分かったよ」
えっちんは大欠伸をした。
「そろそろ空気を湿らせとかないと、火事が起こると思ってなぁ」
「至れり尽くせりだな」
「日頃からよくしてくれるでねぇ」
ふと、頭上を見上げた。
雪がやんでいる。
「気をつけて帰れよぉ」
えっちんが手を挙げた。
「この街出たら俺の力が及ばねぇからよ」
「気をつけるよ」
それから僕は橘田さんを示した。
「彼女の祖母……芹沢さんをよろしく頼む」
「あいよ」
えっちんは笑った。
「じゃあな」
了
降ヶ丘団地 飯田太朗 @taroIda
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