降ヶ丘団地
飯田太朗
降ヶ丘団地
チャイムが鳴る。僕は書斎にいた。応対するにはリビングに行かないといけない。だがスマホがインターホンと繋がっているのでそれで出る。画面の中。マスクと帽子、サングラスの……女性。
「
控えめな声。僕は返す。
「どうぞ」
スマホ上で開錠をする。マンションのエントランスのドアが開き、やがて、少ししてから玄関の方のチャイムが鳴った。
「開けてありますよ」
そう大声で告げると、ゆっくりドアが開けられた。僕は書斎から顔を出して、口を開く。
「到着が早いですね」
「あっ、迷惑でしたでしょうか……」
かわいらしい声。この声故の仕事もあるそうだ。
「もう少ししたら原稿が上がります。どうぞ中に入ってください。玄関入って右手側がリビング、さらに入って左側にソファがあります」
僕がテキパキ指示を出すと彼女は素直にそれに従い「お邪魔します」と口にした。手には紙袋。
「あの、これ、飯田先生お好きだと伺ったんで……」
そう、手に提げてきたのはとある有名ブランドのお菓子。別に僕はそれが好きだと明言した覚えは一度もないが、そういえばそのブランド、最近与謝野くんが関心を示していたな。大方あの子が食べたくて余計な入れ知恵をしたに違いない。
「失礼しまぁす……」
来客はそうつぶやきながらこそこそとリビングの方に行った。僕は数行文章を打つと、保存ボタンを押し書斎を後にした。
リビングに着く。と、さっき座ったばかりであろう来客が起立する。
「飯田先生、本日は貴重なお時間ありがとうございます」
丁寧な一礼。僕もお辞儀する。
「いえ」
どうぞ、と席を勧めた。彼女が一礼してソファに座る。そのタイミングで帽子とマスクとサングラスを外した。その下にある、美貌。
そんな彼女がどうして僕のところに来たかと言うと。
「
畑山月袋。彼は僕の小説家仲間だ。スキンヘッドに黒髭のいかつい男なのだが……。
「もしもしタロリン?」
今から二週間前。畑山から電話があった。
「実は俳優の
この主木辰之助という役者は橘田朱音と一緒に朝ドラの主役を張っていた俳優である。確か二十七、八だ。
「ほら、朝ドラの? 橘田ちゃんっているじゃない?」
この
「あの子が何か最近トラブってるらしくてぇー。その解決を主木くんが頼まれたんだけどぉ、手に余っちゃってぇー。で、あたしのところに話が来たんだけどぉ、詳細聞いてみるとタロリンの方が向いてるかなってぇ」
「切るぞ」
僕が電話を切ろうとすると、その向こうで畑山が「待って待ってぇー」とやかましく叫んだ。
「タロリンにとっても旨味のある話だってぇー。『おふとん』の指名ナンバーワンが言うんだから間違いないっ」
「おふとん」とは新宿にあるオカマバーのことである。とあるオカマの編集者に「飯田先生絶対ゲイ受けするからー」と連れていかれた。こんな職業柄、何事も経験なので行ってみたらバーテンを副業にしていた同業者とご対面というわけだ。
「まぁ、詳しくはご本人に聞いてもらうとしてぇー、概要を話すと変な団地の話らしいの」
「変な団地」
うん、まぁ興味は引く。
「そこから出られなくなった人がいるみたいでぇー。それで困ってるらしいの」
奇妙な団地。そこから出られない人間。
面白そうでは、ある。
*
「最低限のことは伺ってます」
ソファに腰掛けた美女の前。僕はそうつぶやいた。それから、努めて退屈そうな顔を作って続けた。
「何でも団地から出られなくなった人がいるのだとか」
「ええ……そうなんです」
橘田さんは唇を噛んだ。その仕草さえ絵になる。まったく、芸能人ってのはすごい。
「実は私、今でこそそれなりに知られるようになりましたが、それまでは無名で。言ってしまうとこの三年で年収が十倍くらいになってて」
「そりゃすごい」
「お金ができたんで、兼ねてから独居していた母方の祖母を老人ホームに入れようと思ったんです。そしたら……」
話が見えてきた。
「お祖母様がホームに入りたがらない?」
「……ええ」
何だそれ。畑山の奴は何でこの話が僕向きだと思ったんだ。
「団地から離れたがらないんです」
「団地から離れたがらない」
……出られないというより「出たがらない」の方が正しいじゃないか。
「父も母も説得したのですが、その甲斐なく」
「どうして出たがらないんですか」
既にほとんどやる気をなくしていた僕だが、乗りかけた船だ。話だけ聞いておこうと先を促した。すると橘田さんは続けた。
「何でも、『キントンさまがいるから出たくない』とか……」
「『キントンさま』?」
僕は首を傾げる。何だそれ。
「何か心当たりは?」
すると橘田さんは首を横に振った。
「全く。しかも訊いても答えてくれないんです」
「答えてくれない」
「ええ。はぐらかされる、と言いますか。『キントンさまって何?』って訊いても『キントンさまって言ったらキントンさまよ。ねぇ?』みたいに」
さすが役者。ちょっとした場面の再現さえ臨場感がある。
「そういうわけで困り果てていたところ、役者仲間の主木辰之助さんから畑山先生を紹介され、そしてその畑山先生から、『神奈川県に奇妙な話を集めて解決している作家がいる』とのことで、この度……」
「なるほど」
僕は俯き考えた。謎の団地。キントンさま。語りたがらない老婆に、困り果てた美人俳優……。
「面白い」
僕は顔を上げた。
「その団地の名は?」
橘田さんが、神妙な顔をして答える。
「
*
団地、と言ってもその規模はすごかった。場所は神奈川県川崎市
正式名称を
全部で五十棟あるらしい。1号棟は1-1棟から1-5号棟、10号棟の10-1号棟から10-5棟まで。総戸数は二千六百。それぞれ二十階建ての巨大なものから五階建てのオーソドックスなものまでたくさんある。町の敷地内にバス停は四か所。ターミナルまである。中央には降ヶ丘レッドタウン商店があり生活必需品や食品なんかを取り扱っている。黒河神社という神社まで敷地内にあり、おまけに「
団地は六つの区画に分かれている。
先述の通り、団地内にバスターミナルがあることもあって主要な交通手段は車かバスである。労働者の多くはバスに乗って新百合ヶ丘駅まで行き、そこから職場へ、というのがメジャーなようだ。しかし「車が主な交通手段であること」と「降ヶ丘」の名前の通り「丘の上に存在する団地群であること」が災いし、冬場、特に雪の降る日は交通が麻痺することも多々あるそうだ。
僕が橘田朱音さんに
バスに揺られて十五分。
「祖母はここの二〇九号室に住んでいまして」
橘田さんはバスから降りるや正面にある巨大なマンションを示した。
「エレベーターが止まらない階なので、階段で行きます」
なるほど。団地にありがちなステップ式エレベーターというわけか。
まぁ、二階なら大した労でもない。僕たちはゆっくりと階段を上って橘田さんのお祖母さんの住む家へ向かった。果たしてチャイムを鳴らすと、ゆっくりと高齢の女性が姿を現した。
「まぁ、朱音ちゃんね」
ここで僕は「橘田朱音」の「朱音」が芸名ではなく本名であったことを知る。
「どうぞどうぞ。あら、後ろの方は?」
「飯田太朗先生。小説家だよ」
橘田朱音さんがそう微笑みながら説明すると、お祖母さま(後で名を聞くと
広い家だった。4LDKだろうか。リビングとトイレと洗面所の他にドアが三つ。そしてそのリビングも広かった。何畳あるのだろうか、ちょっと家具が多くて目測しかねたがそれでも一人暮らしには広い。広すぎる。快適と言えば快適だろうが、持て余すと言えば持て余すだろう。
「お祖母ちゃん。今日はお引越しのことで話に来たよ」
橘田さんがそう告げると、しかしお祖母さんはニコニコと「やぁねぇ、それには及ばないって言ったでしょ」と手を振った。
「私はここで生きていけますから」
「でも、お祖母ちゃん」
と、橘田さんはテーブルの端にあったクッキー缶を手に取る。
「お薬、ちゃんと飲めてないでしょ?」
ぱか、と橘田さんが缶を開けると、そこには月曜日から日曜日までの仕切りがあるケースが入っていた。中には薬の包みが。どれもまばらに開けられている。
「介護士さんに見てもらわないと。お薬ちゃんと飲まないと駄目だから」
僕が静かに成り行きを見守っていると、しかしお祖母さんはニコニコして返してきた。
「あらぁ、それもそうね。今度キントンさまに伝えておくわね」
キントンさま。
この訪問の一番の目的である存在が口にされたので僕は訊ねた。
「その、キントンさまと言うのは?」
するとお祖母さんはちらと橘田さんの方を見て、「キントンさまと言ったらキントンさまよ。ねぇ?」と微笑んだ。しかし橘田さんは笑顔を崩さず返す。
「私もキントンさま知らないよ。ねぇお祖母ちゃん教えて? キントンさまって何?」
するとお祖母様は困ったような笑顔を見せた。
「キントンさまって言ったらキントンさまよ。いやねぇ、この頃の若い人は」
なるほど。これは要領を得ない。
「そのキントンさまと言うのは……」
僕は質問の仕方を変える。
「みんなが知っているものなのでしょうか?」
するとお祖母様は微笑みながら頷いた。
「ええ。少なくともこの団地の方ならみんな知っていますわ」
「みんな。大人から子供まで?」
「ええ」
「男も女も?」
「ええ」
なるほど。
「そうしましたら。僕はちょっと散歩に出かけてきます。橘田さん、お祖母さんとゆっくりお話でも」
「わ、分かりました……」
不安そうな顔をする橘田さん。僕は彼女の顔に向かって大丈夫だから、と頷く。
静かにハットを被る。コートを羽織ると、外へ出た。乾燥した空気……だが遠方に雲が見えた。分厚い雲。何かが来そうな雲。
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