或る道楽者につゐて

祈月 酔

或る道楽者につゐて

 此の街は灰色だ。昼は音も無く静かでどの楼も灯りを灯さず、街道にはひゅるると枯葉が一枚吹き荒ぶばかりである。しかし、日が沈み夜闇が天を覆い尽くすと、忽ちに灯りが華が咲く様にして灯っていき、昼の灰色と一転して鮮やかに紅く染まるのだ。


 数歩進めば酔漢とぶつかり、太鼓や銅鑼、三味線の音が鼓膜を包む。色とりどりの打掛を羽織った女の集う紅い格子窓を、紳士が蓄えた髭を撫でて眺めている。肘掛欄干に寄りかかり、目下へと艶美な声を落とす女もある。


 しゃりんと鳴る鈴の音に、こつんという下駄の弾きが入り交じり、鮮やかに着飾った太夫が禿かむろに手を引かれて揚屋へと向かう。老若男女は皆、其の生白くうつくしい女に虜になる。三味線と琴の涼音が街を愉しませ、橙の提灯が華やかさに筆を乗せる。


 其のような夜の街で、或る男──旅装束を纏った小洒落た男は、盛況している街一番の茶楼の二階を陣取り、人々の往来を眺めるのを道楽としていた。客が遊女を買って欲を満たすのと同じように、男もある種の好奇心、言うなれば"欲"を満たしているのである。


 今日も今日とて特等席に案内された旅装束の男は、大仰に息を吐き、背もたれに腰を擦付ける。そして、衣嚢から取りだした手帳を卓上に開き、万年筆を構えた。其の高価な筆が周囲の目に付くように、細やかに角度を整えている。男はいつも様々な景色を眺めては、色褪せた手帳に其の様子を記録していた。

 やがて、男はひと唸りして、草臥れた紙面に筆先を滑らせていく。



 ──さて、私は最近、此の遊郭で一番大きな妓楼の観察に興じている。"赤烏せきう"という妓楼で、美麗な遊女が揃っており、赤烏の女たちは此の国一番だとの評判だ。

 

 私は赤烏の見世に秘められた、ひとりの遊女に惹かれた。それは鳥籠の中から、ツンと澄ましたような、それでいてもの悲しく憂いを湛えたような白い表情かおをして、格子窓の外を見詰めているのである。


 此の遊女にはひとついわくがある。昨日まで太夫だゆうであったのが、天神てんじんに位を下げたのだ。

 もちろん、いつも遊郭を見物している私は、彼女の身に起きた出来事を存じている。否、其の時ばかりは、私は其の場に居合わせたのだ。昨日、其の天神──そのときまでは太夫だった遊女は、巨万の金を積まれた身請けを、頑なに拒んだ。それが格下げの原因だそうだ。


 さて、私はいま赤烏と向かい合う茶楼の二階に席を取り、赤烏の張見世を眺めている。今日の記録を書き始めて幾分か経った頃、質素な小袖に身を通した男が、見世の格子の前までやってきた。背丈はあるが、ひょろりと頼りない痩せ男だ。彼は張見世の番頭に何ごとかをつたえると、かの憂いげな天神を指した。


 すると、檻の向こうで其の様子を見ていた天神は、心底うれしいという風に目許と口許を綻ばせる。いつの間にか、其の白い顔から憂いは去っていた。位が下がったというのに、そうは思えないほど満ち足りた表情だ。

 天神が準備のために奥へ下がろうと立ち上がったその時、ふと視線を持ち上げた。彼女の猫のような眼が、私の方へと向けられているのだ。珍しいことがあるものだ……と私は喜んだが、天神の方は瞠目して、其の後すぐにつれなく目を逸らしてしまう。そして、早足で妓楼の中へと去っていった。


 やはり、素晴らしい女だ。男も一途で情が深い。彼は一年も前から毎週決まった日に赤烏を訪れる。他所の妓楼へ足を運ぶこともなければ、此の女以外を選ぶこともない。

 これこそが純愛だ。完璧な愛だ。私はもう満たされた。此度の観察は終わりとしよう。


 蛇足だが、なぜ私が此の男女について詳細に記録できたかというと、それは、私が此の茶楼で日々人間観察に励んでいるからというだけではない。私は他所の者とは異なり、自分の存在でもって体感することを好んでいるのである───。


「旦那様」


 ふと、女中に声をかけられ、旅装束の男が筆を置く。口許に目立たない黒子を二つ宿した若い女で、愛想が良いと噂の看板娘だ。しゃなりと鈴の鳴るような可憐な彼女の声を、男は気に入っていた。


「本日もよくいらっしゃいました。ご挨拶が遅くなってごめんなさい」

「やあ、元気かな。あなたも忙しいんだから、気にしないよ。昨日は私も来れなかったからおあいこだ」

「ふふ、旦那様は懐が広いですわね」


 男が軽快に微笑むと、女中は紅い唇をあまり動かさず控えめに笑う。そして奇妙な顔で、男の手元に開かれた手帳──そこに蠢く蚯蚓みみずのような字を一瞥したかと思えば、再び視線を男の目元に戻して、僅かに首を傾げる。

 

「そういえば、太夫を身請けするという話はどうなったのでしょうか」

「あれはね、なしになってしまったよ」


 男はさり気なく手帳を閉じて、真っ赤な表紙を上に向ける、そして、嘆くような色を載せた溜め息を零した。


「まあ、勿体ない。せっかく赤烏で一番の遊女だったのに。それじゃあ、彼女が天神に落とされたっていうのは本当だったんですのね」

「そうみたいだね。ほとんど私のせいだから、彼女に合わす顔がないよ」

「そんなことないですわ。旦那様のような素晴らしい殿方の申し出を断る方がおかしいもの」


 女中は男を慰めるように眉を下げて首を横に振る。


「でも、旦那様はちっとも落ち込んでませんわね。どうして?」

「落ち込むものか。むしろ、断ってくれるはずだと確信して、身請けを申し込んだんだ。やはり、私の目に狂いはなかったよ」

「奇妙なこと。無理を承知で行うなんて」

「なるほど、私の行動は傍から見れば奇妙に映るのだね。これはこれは、勉強になりました」

「そりゃあもう、ヘンなんですもの。それじゃあ、旦那様は、例の遊女にどうして身請けを申し込んだのです?」

「さあ、愛の試しというのかね。ささやかな趣味です。あなたのような方には分からないかもしれないが、私みたいな人間は意外と存在するんです」

「へえ、そうですか。あたしには、其の愛の試しのなにが面白いのか、見当もつきませんけどね」


 男の下に見るような言いぶりに、女中は頬を膨らませてぶっきらぼうに問いかける。


「旦那様は明日もここへ来るんです?」

「そうだねえ。明日は趣向を変えて、歌舞伎でも観に行こうかね」

「まあ、遊女にフラれたからって、今度は役者買いですか。色好みだこと。いいですわね、お金があるって」

「あなた、いつの間にそんな下卑たことを言うようになったのだ。哀しいなあ」

「あら、本当のことですもの。旦那様も遊んでないで、いい加減身を落ち着けなすったらいいのに」

「私はこのままでいいよ」

「そうですか」


 曖昧な物言いばかりする男に興味をなくしたのか、女中は軽い口調で「ごゆっくり」と言い残し、盆を胸に抱えて去っていく。其の先には、茶楼の得意客である二枚目の若旦那が居た。男が目を細めながら女中の背中を追うと、ふと、若旦那と視線が合った。若旦那にじっと見つめられた男は、片眉と口角をあげてやった。すると、若旦那は妙に艶めいた唇を噛み締めて、近づいてきた女中の手をぐいと引く。


 其の様子に満足した男は、身体に燻る熱を感じたまま、遊郭の街へ視線を戻す。


「色の世の中、身を焦がす愛こそ真なりて」


 男は呟きを残して立ち上がり、赤表紙の手帳を懐に仕舞い込んで、茶楼の階段を下っていった。


 さて、旅装束の男は田島なにがしといって、材木業を営む豪商、所謂富裕層の男であった。

 女中との会話通り、昨日赤烏随一の花魁に身請けを申し込んだのは、此の田島某である。ひとつことわっておくと、これまで、田島某は彼の太夫を買ったこともなければ、言葉を交わしたこともない。しかし、耳に纏わりつく噂話から、彼女の名を知っていた。遊郭での日々の観察から、質素な男との関係も知っていた。ただ、それだけである。


 田島某はいつかの女中の質問に、"愛の障壁になりたい"と答えた。"障壁を乗り越えてこそ、愛は完璧となる。完璧な愛だけが私を愉しませてくれるのだ"と──。


 果たして、田島某が手帳に長々と記したように、彼は欲にまみれた街で、他者とは僅かに異にした彼自身の欲を満たすことに放蕩しているのだった。

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