「雪は好きじゃないです。 特に、初雪は。」

恵一津王

「雪は好きじゃないです。 特に、初雪は。」

「雪は好きじゃないです。 特に、初雪は。」


驚いた。

こんなことも言える人だったんだ。


池澤いけざわ由美子ゆみこは意外だと思った。友人の紹介で始めて出会ってから3回目のデートに至るまで目の前の男、柏木かしわぎ翔太しょうたは一度も『好きじゃない』とか『嫌い』とかそんなことを口にしたことがなかった。苦手な 食べ物を聞いても『何でもよく食べます』、行きたいところを聞いても『池澤さんが好きなところならどこでも』と答える、生真面目で純朴な男だった。


ところが『もうすぐ初雪が降るかもしれませんね。』という言葉には即答が帰ってきた。


「あ、す、すみません。 俺つい真顔になってしまって。」


「いいえ。 むしろ柏木さんが素直に言ってくれる方がいいですよ。」


由美子は愛想のいい笑みを浮かび、肩をすくめてみせた。


「それは、雪が降ると練習ができなくなるとか、そういう理由なんですか?」


プロ野球H球団の注目のルーキー、柏木翔太は酷い練習虫らしい。マスコミでも彼の入団を大々的に報道するほど期待される新人なのに、まだそこまで練習をするのだろうか。それとも、そんなに練習をするから有望になったんだろうか。


「いえ···いや、はい。 そう、そうです。」


「今のそれ、嘘でしょう?」


「す、すみません。」


ここまで来ると笑いがこぼれるしかない。嘘でさえこんなに下手だなんて。最近は小学生もあれよりはましな嘘がつけるでしょう、と比べると失礼ですわね。小学生に向かって。


『野球選手としては優秀だけど…それ以外には特に優れたところがないの。』


褒めるかどうか、紹介をしたいのかどうか、曖昧な友人の言葉。むしろその言葉にもっと興味が湧いて、むしろその場でさっそく「オーケー」と叫んだ由美子も由美子だが。


席を立ち、二人は近くの公園を歩いた。すっかり肌寒くなってきたこの天気に、あえて外を歩かなければならないのかともするが、翔太にサインを求める群れに「今はプライベートな時間なので」と断るのも3回ならかなりよく我慢したと思う。


由美子は空を見上げた。本当に今にも雪が降ってもおかしくない、曇った空だ。


「すみません。 私のせいで。」


「大丈夫です。こういうこと、自分の目で見るのは初めてだから。学生の頃から有名だったから、柏木さんは随分慣れていると思いますけど。」


『いいえ、別に...』と目を逸らす翔太の顔は、さっき、『雪は好きじゃないです』と言っていた時とよく似ていた。


「じゃあ、代わりに··· 話してください。 初雪が好きじゃない理由。」


「あ…」


「到底話せない、例えば、うーむ……初雪が降った日、人を埋めたとかいう話ならしなくてもいいですよ。」


「フッ。」


ちょっと言い過ぎたんじゃないかとする私の冗談も、確かに彼は笑い飛ばせる。必要以上に繊細や敏感でない、こういうところが三度と彼に出会わせてくれたのかもしれない。


「他の女性の名前が出てくるかもしれませんが、それでもよろしければ。」


「構いませんよ。 肌寒い天気に盛り上がるにはちょうどいい話題じゃないですか。」


盛り上がるか、燃え上がるか、知れないけど。





ㄹ ㄹ ㄹ ㄹ ㄹ ㄹ ㄹ ㄹ




「法次。おまえ、双美さんと付き合ってる?」


「……え?」


足原あしはら法次ほうじはチームメートの柏木翔太の言葉にぼうぜんとした表情を浮かべた。質問の意図を把握する以前の問題で、そもそも彼にとって幼なじみである「双美沙也」の名前と「付き合う」という動詞は一文を成すということ自体が不可能なようだった。


「私? サヤ? 付き合う?」


まるで日本語を習いたての外国人のように、言葉の意味を考えながらつぶやいていた法次は、やがて仁王像の顔となった。


「沙也と私をそんな風に結ぶと殺すぞ。あいつは幼なじみだってよ。そんな対象じゃない。」


「ごら、そこまで嫌な顔することねーじゃん。双美さんがうちの1年生の中で一番かわいいのは自他ともに認める事実だもん。」


「ウハハハハ! 翔太!おまえ、そんな冗談も言えるんだ! いや、面白かった。自他ともにだってよ。」


翔太の言葉に、法次は本気で笑わせられたように、涙まで浮かべながら笑った。


「『自』はさっておいて、『他』には興味ないけど、少なくとも私は認められないぞ? たぶん『自』沙也もその話を聞いたらホームランの距離の外まで逃げ出すんじゃないかな?あいつそう見えても脚は結構速いぜ。」


「とにかく、おまえのストライクゾーンに双美さんはいないってことだよな?」


「ストライクゾーンのところか、そもそもあいつは始球用だ。 私の競技用じゃない。」


「よし、決めた。 俺、初雪が降ったら、双美さんに告白する。」


法次の言葉が終わるのも待たず、翔太は拳を握りしめて宣言した。その決然とした姿に、法次は舌を打った。


「よせよ、アホ。それって死亡フラグじゃない。」


「高校生が死ぬことなんてあるもんか。」


法次はうんざりしたように手を振り回して、バットを持ち、練習用のケージに向かった。その後姿を翔太は黙って見守るだけだった


「(元プロ野球選手の一人息子、プラス双美沙耶の幼なじみ……か。)」


二つの中でどちがもっと羨ましいのか自分でもよく分からない。一つ確かなことは、両方とも翔太には手には届かないということだった。


パカン!


「(よりによって今日、あいつ完全に絶好調だな…)」


そうやって高校1年の時間はあっという間に過ぎていった。

夏休み中も練習で汗を流し、秋季大会に出場し、翔太たちは野球少年として充実した日々を過ごした。


夏の間、めっきり技量が上がった翔太は、秋季大会で予想を上回る成績を残し、学校を代表するスラッガーとして認められ始める一方、国家代表まで務めた元プロ選手の息子として注目されていた法次は、期待に応えられないみすぼらしい成績を出してしまった。 それにもかかわらず、仲間として、そしてライバルとして二人は相変わらず親しかった。


だが……


「法次のやつ、父さんが選手だったからと、監督に甘やかしぎるんじゃない?」


「実力もたいしたことないくせに。いつもかわいい幼なじみとくっついてさ。」


「秋季大会の準決勝でもあいつのせいで負けたじゃん。あのいいチャンスで…」


翔太が部室のドアを蹴って飛び込む前に、法次は必死に阻止した。


「我慢して…翔太、我慢して……お願い、私は大丈夫だから。」


「あんなクッソどもを……チームメートだって…」


「いいんだよ、私は。 本当に……慣れているから。」


「……くぅ」


「行こう、翔太…今日終業式だったじゃん。ね?」


二人は何も言わずに荷物をまとめ、グラウンドに出た。


春から秋に至るまでほとんどの時間を野球で過ごした翔太に、静かな校庭はその日に限って特に不慣れだった。体育祭、文化祭など大きなイベントがすべて終了した晩秋の学校は、まるで疲れ果てて横になった巨人のようにも見えた。いざ彼らはどこにも参加できなかったのに。


「肌寒いね、法次。」


「もうすぐ冬だからね。」


「冬になったら、遊びに行こうか? 私たち夏休みにもどこにも行けなかったじゃん。」


「うん、できたらいいな。」



はい」でも「いいえ」でもない。 その中途半端な隙間からかすかに見える暗闇に、翔太は必死に目を逸らした。


「イエス」でも「ノー」でもない。 その中途半端な隙間からかすかに見える嫌な感じから、翔太は目を逸らした。


「じゃあ......」


「法次!」


明るい声が校門の方から聞こえてきた。


「双美さん…」


「法次のバカ。今まで何をしてたんだよ。ずっと待ってたじゃない。あら、柏木君もこんにちは。」


「うっせよ。うちのチームメイトたちが私のこと全然放してくれないじゃん。みんな私のことが大好きなんだよ。」


ずうずうしく戯言を垂れ流す法次の言葉は、翔太の耳には入らなかった。代わりに、翔太の全神経は、真っ赤に冷えていた沙也の小さな両手に向けられていた。


「(俺たちが出るまでどれだけ待ってたのだろうか。)」


翔太は沙也から目を離せなかった。


息をつくたびに散らばっていく、ラテの泡のような白い息。

寒さに冷えて真っ赤になった両頬

その澄んでいるセピア色の瞳に映っている人は……


「俺、教室に忘れ物があってた…先に行けよ、法次。そして双美さんも気をつけてね。」


「お、おう。また後でね。翔太。」


「柏木君、さようなら。」


また学校へとに歩き出す途中、ふと後ろを振り返った。相変わらず二人は、いざこざしながらもせっせと家に向かっていた。


「俺たちのことを待ってたんじゃない。ただ、法次を待っていたんだよ。」


翌日、初雪が降った。平年よりかなり遅れた初雪が。


しかし、うずたかく積もっていく白い雪を見下ろしながらも、

サヤの電話番号を押しておいたスマホを手にしていたまま、

最後まで翔太は、着信ボタンを押さなかった。


そして、その冬が終わるまで、結局翔太は法次にも一切連絡をしてなかった。


翌年の夏、地域予選の決勝戦。甲子園を目指していた翔太の熱望は、法次のエラーによって水の泡となってしまった。


「すまん…本当にすまん、翔太。私が投げ間違えた…せいで…」


まっ正面の打球をまともに処理できなかったため逆転サヨナラの負けを許してしまった法次は、こみ上げてくる涙を無理やり飲み込みながら翔太に謝った。強襲打球に打たれた左の顎が腫れ上がり、まともに洗い落とせなかった血痕が口元に残っていた法次から、翔太は背を向けた。


『大丈夫、まだ2年生だから来年があるよ』と言ったり、黙って血を拭いてあげながら暖かい眼差しを送ることもできたが、翔太はそうしたくなかった。


ただ、そうしたくなかった。


ただ、それだけだった。





ㄹ ㄹ ㄹ ㄹ ㄹ ㄹ ㄹ





「それで、あのお二人は今?ラノベやマンガの主人公カップルになってラブラブしてますか?」


「そうですね。その後、法次は野球をやめたんです。 いや、俺たちが追い出したと言うべきかもしれませんね。意外と繊細なところがあったやつだったので、耐え難かったでしょう。

それからの詳しい事情はよくわかりませんね。わざわざこちが避けてましたから。二人で駆け落ちしたとか、家出したとか、神隠しになったとか。そんな噂はいろいろ聞きましたが。」


えっ?甘酸っぱい学園恋愛物や少年スポーツ物が、いきなり『月曜ミステリーシアター』となってしまったんですけど?由美子のあきれはてた視線を翔太は静かな笑みで受け止めた。


「どこでだって、元気に暮らしているでしょう。あれでも結構強いやつだから…がっかりしました? 俺がこんな陰気な男で。」


「陰気ですって?」


プロ野球のスーパールーキーと陰気さとは最も一番遠い概念ではないでしょうか、と由美子は考えた。


「有望な仲間を嫉妬し、その仲間の幼なじみに片思いし、その仲間が困ったときに一緒に痛めてあげたりかばってあげたりするどころか、その隙をついてレギュラーの座まで厚かましく取りやがる、そんな嫌なやつでして。」


いやいやいやいやいや、そんな嫉妬や片思いは青春の立派な一ページですけどね。それはむしろこちらが「ごちそうさまでした」と合掌しても足りなさそうですし。レギュラーの座はあくまで本人の努力のたまものですし。

そして…


「その友達の不幸は自分のせいだと思いますか?」


「分かりません。 もしもあいつが、もっと自分に合った監督と出会えてたら… いや、意味ないですね。」


翔太は首を横に振った。


「野球に、『もしも』はないでしょう。 人生にも『もしも』がないように。そんなことがあったら、誰も失敗なんかしないでしょう。 野球も、恋も。」


翔太の口から出た「恋」という言葉は、由美子が知っていた「恋」という言葉と、まるで同音異義語のように聞こえた。 その甘く切ない響きとは全くなく、ただの『こ』と『い』の組み合わせに過ぎない二文字。


ああ、もうダメだなあ。


本当に私はダメだ。


こんな男がかわいく見えるなんて、本当にダメじゃない、私。


由美子は両手を伸ばして翔太の両頬をしっかりと握った。 かなりの間、冷たい空気にさらされていた手は赤く冷ていた。しかしその冷たさに、久しぶりに過去の思い出に浸っていた翔太の精神がぱっとした。


「柏木さん。デートでの本当の失礼はですね、他の女性の名前を言うことではなく、目の前の女性をまっすぐに見ないことですよ。」


由美子の、セピアよりほんの少し濃い、コーヒー色の瞳には、確かに翔太が映っていた。


翔太の頬を包んだ手の甲に、冷たい感触がさっと届いた。


雪だ。


初雪が降っていた。しかし、翔太はまだ初雪のことを気づいていないようだった。


なぜなら、私の手が彼の頬を包んでいたから。

これから、私が彼を雪から守ってあげればいい。


なぜなら、彼の目は私にくぎ付けになっていたから。

これから、他の誰でない私だけ眺めさせればいい。


そして、初雪が降っても彼が真っ先に思い出すのが失恋の記憶ではなく、とんでもなくバカバカしい告白なら?


まあ、それもいいじゃない。


由美子は自信満々に笑った。


「がっかりしました?私がこんなけしからぬ女で?」




ー完ー







読んでくださった皆様に心より感謝いたします。どうか大勢の方々に面白かったと思っていただいたら嬉しいです。

連載中の小説、『暁と黄昏のアライアンス』の外転にあたいする短編です。この短編で興味ができた読者様はそちらも一読お願いいたします。


ありがとうございます。



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「雪は好きじゃないです。 特に、初雪は。」 恵一津王 @invincible_rain

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