パドックの馬は見られている

大和田よつあし

パドックの馬は見られている

 毎朝、無地のビジネス手帳に一本の縦線を描く。定規なんか使わない。上から下まで真っ直ぐに描くことで、その日の調子を測る。

 曲げず、振れず、図ったかのような直線は美しい。フリーハンドで描いたからこその味わい深い線こそが至上である。

 良し、今日も素晴らしい。ここ最近は仕事も生活も集中している証拠だ。

縦線を描いたら、今度は横線だ。そして、簡潔に今日のスケジュールを仕上げていく。昨日のやり残した仕事はない。だからこそ、抜けがないか午前中にもう一度チェックと、午後の会議の資料もポイントをまとめたメモも揃えた。

……完璧だ。毎日のルーティンをこなすということは、なんと素晴らしいことだろう。今日もきちんとスケジュールをこなし、明日も、そして明後日も素晴らしい一日になるだろう。

 最初のスケジュール通り、朝御飯を食べて、シャワーを浴びて、ニュースサイトをチェックと……ひとつひとつ消化していく。

 山峯轟太やまみねごうた、二十八歳独身。今日も絶好調である。

 身だしなみを完璧に整えたら、さあ、出勤の時間だ。



■12月7日(土曜日)

 6:00 起床


 顔を洗い、歯を磨き、そして、スケジュールを書く。休日だからといって、このルーティンは止めない。1年365日、私の朝はスケジュールを書くことから始まり、スケジュールを消化できたか確認することで終わる。

 ところがである。始まりの縦線が途中で消えた。インク切れである。


「不吉だ…………」


 ここ半年の間、連続して美しい縦線を描き続けてきた記録がここで途絶えた。何かあると直感した私は鞄を漁った。

 ない…………。

 確認する予定だった月曜日の会議の資料が一頁抜けていたのだ。休日に仕事はしない主義の私は、ノートパソコンは持ち帰っていない。在るまじき失態。

 仕方ない、今日はスポーツジムに行く予定だったが、会社に立ち寄ってから、日曜日の予定を前倒しにして、美術館巡りに変更しよう。

 微妙にズレた縦線が苛立たせたが、スケジュールはまだ修正できると、この時は思っていた。



 9:00 JR新橋駅


 私の勤めている一流企業と言っていい会社は、汐留にある。高層ビルの十階、ワンフロア全てが職場だ。当然、セキュリティは万全で、部外者は入れない。だが、そこは社員IDさえあれば問題ない。百人を越える人間が勤めている会社だ。休日返上で働く間抜けな奴は必ずいるのだが、今回私も、初めてその仲間入りとなってしまった。

 それにしても、休日の、しかも、この時間の新橋駅に来たことはなかったが、何でおっさんばかりこんなにいるんだ。若いのもそれなりにいるが、明らかに比率がおかしい。しかも、揃いも揃ってイタリア街に向かっている。

 イタリア街におっさんが向かうスポットがあったか?……頭に疑問符を浮かべていると、どこかで見覚えのある、茶髪のショートカットの目つきの悪い小顔美人が歩いてくる。スカジャンにジーパンのラフな格好、バッグの類は一切持っていない。

 なぜだろう。近寄っては行けない予感がプンプンする。ここは見なかったことにして、会社に向かおうとしたが一手遅かった。


「んっ、そのきっちり整った七三分けにフレームレスのメガネ……フクちゃんか?やっほー、十年ぶり。高校生の時から何にも変わっていないな」


 手をぶんぶん振りながら大声で叫んでいる。最悪だ。縦線の真の警告はコイツだったのか。

 彼女の名前は井上奏子いのうえかなこ。学生時代の私に、敗北の苦い記憶と、スケジュールの真の偉大さを教えてくれた天敵の様な女だ。


「やっぱりキューコか……休日の新橋に何のようだ。洒落っ気のないその格好はデートではあるまい」


 私はコイツのことをキューコと呼び、コイツは私のことをフクちゃんと呼ぶ。お互いの名前とは一切関係ない。我々は同じ高校の二年生の、同じ組の、学級委員長と副委員長の関係だったからだ。

 我々の通っていた進学校は、学力によって学級委員長を割り振られていた。毎年、なり手のいない委員に時間を割かない、とても合理的な手段だが、この学校に入学してからずっと一番の座を明け渡していた相手と同じクラスとは、学校側の悪意としか思えない。

 しかもコイツは、仕事をしない、忘れる、だが、きっちり仕事はこなす。独特の鋭い洞察力で、手の空いている奴、自分に気がある奴、ものに釣られる奴等を的確に見つけ出し、仕事を押し付け、最終チェックまで私に押し付ける。

 曰く、フクちゃんは自分でチェックしないと満足しないでしょときた。その通りだから腹立たしい。毎回、スケジュール外の仕事が増え、最後には対応する為の時間を組み込むまでとなった。

 私はコイツを学級委員長と認めず、敢えてキューコと呼び、コイツはコイツで二番手であることを強調するフクちゃんと呼んだ。


「いきなり失礼だな。デートの相手は……昔はそれなりにいたが、転職してからはいないな……まあ、いいや。それよりフクちゃん、そんなスーツなんか着込んじゃって、休みの日まで仕事か。相変わらず、堅物というか、人生損しているというか……」


「そんな理由ないだろう。私は休日に仕事はしない主義だ。スケジュールに則って、日々満喫しているわ。今日は忘れ物を取りに会社に寄っただけだ」


「フクちゃんが忘れ物とは、明日は雨が降るかな。でも、会社に取りに来ているなら仕事じゃん」


「断じて違う。資料は既に出来ている。時間を於いて目を通すのは、私自身の満足感を楽しむためのものだ。休日の楽しみが減るのは、私の主義に反する」


「へえー。フクちゃん、会社で浮いていない?」


「そんなことないぞ。完璧超人とあだ名を頂いている」


「…………そうなんだ。ということは、今日は暇だな。僕に付き合え、デートしてやる」


「だから私は会社に寄ってだな……」


「てめえの満足の為に会社に来られたら、会社が迷惑だ。ちょっとは考えろ。そんなものより楽しい所に連れてってやる」


「???」


「にししし、僕の職場だ」




 9:30 ???


 謎のおっさん集団の群れに連なって、私とキューコはてくてく歩いている。何処に向かっているのか教えてくれず、もうすぐだと返される。

 そして、目的地に着いた。イタリア街の洋風の高層ビル、ここは…………。


「ここが今の僕の職場だ。ウインズ汐留だ」


「お前、JRAの職員に転職したのか。それにしては随分と遅い出社じゃないか」


 キューコはチッチッチと指を振る。


「時間は合っている。それに僕はここの職員ではない。もっと崇高にして、可憐にして、凛々しくもあり、税金を一切払わずに済む仕事……………………馬券師だ」


 沈黙が深海のマリンスノーのように降ってきた。


「お前、前はマルサの女をしてなかったか」


「三年前に辞めた」


「…………何でそんなことになった」


「その話をすると長くなる。その前にパドックを観ないとならない。お馬さんが僕を呼んでいる」


「…………」


 ウインズ汐留。知る人ぞ知る場外馬券発売所だ。週末のイタリア街に、よりによって、競馬場に行かない横着者のおっさん達を集めている。小綺麗な街でくだを巻くのが恥ずかしいのか、建物の外にはあまり居ないが、レース開催中は建物内が引きこもりの魔窟と化していることを初めて知った。

 因みにパドックとは、レース前に競走馬を見せる場所のことだ。調教師が馬を引いて巡回している。ここは場外馬券発売所だから、ディスプレイに映っているだけだが。


「おーい、第一レースの馬券を買って来たぞ。二歳新馬戦だが、俺が最強と宣っている馬が何頭かいたから、そいつを軸に買ってきたよ。

 そうそう、昔の仕事の話だっけ。嫌な上司がいた、税金を払うのは死んでも嫌、お馬さんで生活が出来る以上」


「十秒で説明できるじゃないか」


「そんなこと言ったって、もうすぐレースが始まるところだったんだよ。勝てるレースはひとつも失いたくない」


 完全なギャンブラーである。

コイツの場当たり的で享楽的な性格は向いているのかもしれない。たちが悪いことに、私より高い洞察力と知力は、負けない方法論を構築している。三年もの間、生活を維持しているのがその証拠であろう。


「待てよ、確か配当金には税金が掛かるのではなかったか」


「高額の配当金でなければバレません。なぜ僕がネットではなく、場外馬券売場に来ていると思うかね。直接、馬券を買えばバレる余地がないからだ。ハッハッハ」


 山のような胸を張っているが、歴とした脱税である。

 これはマズイのではないか。同級生で、尚且つ、学級委員としてコンビを組んだ相手が脱税で捕まる……可能性があるか?

 それがなくとも、ギャンブラーの才が枯渇して、負けが込んで、破産して、ホームレスにでもなったら、学生時代とはいえ、私を負かした女がホームレスだと……そんな事は認めたくない。

 悪い想像ばかりだが、最悪は想定しておけば対応は可能だ。だが、調子に乗って鼻歌を歌っているコイツの耳には届かないだろう。

 どうすれば良いだろうか。いや、ひとつ方法はある。その為には、コイツの土壌に立つ必要があるのだ。私のプライドを守る為に、次いでにコイツの悲惨であろう未来を変える為に、膝を屈しようじゃないか。

 先ずは私らしく、問題点を羅列し、コイツのやり方に駄目だしをする。

 

「なあ、お前の仕事とは、要はギャンブルだよな。ハイアンドリスクで確実性のないものだ。百歩引いてこの手の商売と相性が良いなら、株のトレーダーでは駄目なのか」


「え〜、イヤだ。だって、株の儲けって、自動的に二割も税金に取られるんだよ。あいつらの給料になるものはビタ一文払いたくない」


「だったら、どうやって馬で儲けを出すんだ。私にはその方法が見えない。どう考えたって、気まぐれな馬の一、二着は確実に当てられないだろう。しかも、勝率の高い馬はオッズが低い。当てても利益がでない」


「僕の賭け方の説明は、このレースを観てからだ。にししし」


 施設の館内スピーカーから投票の終了の案内がアナウンスされた。あちこちにあるディスプレイから始まりのファンファーレが鳴り響く。ゲートに出走する競走馬たちが集まってきた。そして、最後の一頭が収まった。

 ガシャ。一斉にスタート。

 最初の直線は内側の一番の馬が優勢だったが、最後のコーナーを回るときには、外側から詰めてきた十二番の馬が優勢となる。最後の直線は一番と十二番が叩き合い、クビ差で十二番の馬が勝利した。二番手は一番の馬、一馬身遅れて七番の馬が三番手に確定した。

 チラリとキューコを見る。奴はニヤリと笑って、持っていた馬券を見せる。そこには1−7−12の番号が印刷されていた。確定した配当倍率は三十三倍で、購入した千円が三万三千百円となった。


「こんな感じで一日十万円を目途に勝ち切る。僕は着順を問わない一着から三着の馬を予想する三連複を選ぶ。いつも五つの組合せを千円ずつ買うことにしてる。倍率がそこそこ出て、必要以上の高額の配当金になることも少なく、トータルで損はしない。平均勝率は五割ってとこかな」


 どや顔が腹立たしい。


「素人の私でもその勝率はおかしいと分かる。何を根拠にしているんだ」


「さっきパドックを観ていただろう。その映像から、勝ち気配濃厚の気合の入った馬を特定する。余計な情報で惑わされない様に、オッズは基本見ないかな。それだけだよ。おっと、次のレースのパドックを観なきゃ。フクちゃんもやってみないか」


 コイツは自分の変態染みた洞察力をフル活用していた。誰にも真似できないやり口だった。


「そうだな、折角だからやってみるか。取り敢えずキューコ先生の教えに従い、パドックを観てみよう」


「素直なフクちゃんは、なんか気持ち悪いな。まあ、この僕が競馬の何たるかを教えてしんぜよう」


 失礼なもの言いに、青筋が立ちそうになるが、ここは大人の精神で、コイツから情報を引き出す行動に徹する。だが、絶対に忘れない。


「観ればフクちゃんでも判るって。走りたがってる奴、やる気のない奴、呆けてる奴、みんな歩き方が違うから、そこに点数をつける。上位二頭を軸に次点の馬を三番手に選ぶだけだ。簡単だろう」


 さっぱりわからん。言いたいことを伝えたら、画面に没入して、無料で配られていた出走表に、何やらメモをしている。

 パドックを見ても、何も分からないことが分かった。それならオッズを軸に予想してみる。キューコのやり方を参考に、一、二番人気の馬を軸に五、七、九番人気を三番手に選んでみる。勿論、百円ずつだ。

 三連複のマークにチェックして完了だ。隣でキューコがマークシートに書き込んでいる。最後に抜けがないか確認してもらい、買ってきてもらった。

 結果は二人とも的中した。配当倍率は十八倍、私の払戻金は千八百円となった。だが、キューコは一万八千円だ。あっという間に五万円以上を稼いでいる。掛け金が十倍とはいえ、金銭感覚がおかしくなる。


「今日は幸先良いな。レモンサワーを一杯いっとくか」


「ちょっと待て。午前中から飲むのか?」


「馬券を買うのに、飲まないという選択はないだろう」


 ギャンブラーは、ダメ人間だということを、私は再認識した。

 


 PM5:00 イタリアン居酒屋


 キューコが関わると、スケジュールが崩れるのは学生時代に学んでいた。結局、私は最終第十二レースまで付き合った。

 簡単に勝てると思った競馬も、最初のレース以外は全敗である。

 一方、キューコはというと…………、


「いや〜、全勝なんて初めてだわ。フクちゃんは福の神かなんかか」


「私は逆に、勝ち運をキューと吸われた気分だ」


「そりゃ悪かったね。にししし」


 少しも悪びれもせず、テーブルの上のサラダにピザにパスタにと、忙しそうにパクつく。ワインも水のように飲み干している。

 そんなキューコに苦笑いしつつ、今日一日のコイツを見て、やっぱり馬券師のプロなんだと思った。朝からアルコールを飲んでいたが、決して飲み過ぎて判断が鈍ることはない。パドックの馬で迷うことがあれば、ん〜、今回は観ると言って、そのレースは買わなかった。こんだけ勝ち続けていても、勢いでは決して買わず、勝つことにストイックなのだ。


「フクちゃん、ありがとうね」


「何がだ」


「今日は一日中付き合ってくれたでしょう。他のみんなは、用事を思い出したとか言って、途中で帰っていったから……。こんな生活辞めなよと説教までするから、喧嘩になることもあったし……。僕が好きでやっていることを、否定されるのはムカつく」


「そんなことか。私だって馬券師は辞めた方が良いと思っているぞ」


「フクちゃんまで……なんで」


「だってお前、完全にギャンブラーの目つきになっていたぞ。馬を見る目も、こいつは勝てる奴かどうか見るだけで、可愛いい奴とか、面白い奴なんて思わなくなっているんじゃないか。とても楽しんで競馬をしている様には見えないな。昔はムカつくほど能天気だったから、心配されるのも無理はない」


「…………」


「私が辞めろと言わなかったのは、口で言っても聞かないだろうと思ったからだ。一日付き合ったのは、無理していないか判断する為だ。競馬の勝つ才能があることは認めよう。生計が立つことも認めよう。それでも、私はキューコに続けて欲しいとは思わない」


「そんなこと、フクちゃんに言われたくない」


「分かっている。だから、勝負しよう。二週間後の二十二日に有馬記念があるだろう。その日の全レースでの払い戻し金額の合計で白黒つける。私が勝ったら馬券師を辞めるというのはどうだ」


「えっ、嫌だけど。だって、僕には何も旨味がないじゃん」


 にべもなく、あっさり断られる。


「つまり、競馬素人との勝負で、勝つ自信がないということか。こりゃ参ったな」


 欧米人のようなオーバーアクションで煽る。


「ムッ、じゃあ、僕が勝ったら、何でもひとつ言うことを聞く。この条件ならば受けて立とう」


「よかろう。二週間後の有馬記念の日、ウインズ汐留で会おう」


 キューコはテーブルの料理を、食べ尽くす勢いで腹に収め始めた。私も今日は碌なものを食べてなかったなと思いつつ、パスタを取り皿に移す。

 本来ならば、私の役目ではないのだがなと、キューコの左手の指輪を見て思った。



■12月22日(日曜日)

 9:00 ウインズ汐留


 本日は快晴、体調も問題ない。今朝の縦線も、いつもより美しく、真っ直ぐに引けた。これ以上がない程の万全な状態である。そして、鞄の中には秘密兵器のノートパソコンも用意してある。

 この二週間、キューコに勝つ方法を考え抜いた。アイツは洞察力と直感がずば抜けている。同じ賭け方では敵わない。だが、データ収集力と分析力では負けない。過去のデータからタイム、騎手の勝率、適性距離、直近の勝率等を項目ごとに数値化するプログラムを開発したが、三連複の的中率はまだ三割程である。

 このままでは自称勝率五割のキューコには勝てない。だが、私には奇策がある……。


「おーい、フクちゃん」


 キューコは能天気に手を振っている。


「今日も絶好の競馬日和。あれから考えたんだけど、素人のフクちゃんにハンデをあげないと勝負にならないと思ってね。僕はいつも通り、組み合わせひとつに対して、千円までしか賭けないことにした。馬券師の意地みたいなものだ」


 圧倒的強者のドヤ顔をしている。自ら足枷を嵌めるとは好都合だ。


「その代わり、勝負は払戻金から馬券代は差し引くことにしよう。そうしないとフクちゃんは上限なしに注ぎ込みそうだから……競馬で身を崩したら駄目だからね。だから買った馬券は全て取っておいてね」


 破壊力のあるメッで、少なくないダメージを受ける。だが奴は人妻だ、自重しろ。


「むむ、しかたない。認めよう」


 一応の納得はする。くっ、払戻金勝負のルールに制約を付けてきた。


「ふん、その余裕もこの秘密兵器で粉砕してやるわ。見ろ!!このノートパソコンで競馬予想プログラムを作ってきたわ。今日、勝負する全てのレースの競走馬、騎手のデータを保存し、最適の予想を引き出す優れものだ。私はコイツに賭ける」


「文明の利器を使うとはなかなかやるな、フクちゃん。だが競馬は数字ではない。馬のやる気は全ての予想を覆す。僕の目と経験値がそれを証明する」


 奇妙な盛り上がりを見せる謎空間が出来ていた。


「そろそろ第一レースのパドックだな。勝負を始めようか」


 早速、キューコは大画面のモニターへと向かっていった。私はといえば、一杯目のハイボールを買いに向かう。朝から飲むお酒の背徳感に、すっかり嵌っていたのだ。


「ああ、フクちゃんがお酒を飲んでいる。勝負はどうしたの?」


「ん、私が勝負するレースは午後からだからな。新馬戦は前走データがないから予想が出来ない。だから、キューコが右往左往するのを楽しんでいる」


「ムキー。その余裕、後で泣きを見るなよ」


「ふふん」


 勿論、余裕なんてない。今回、私が構築した競馬予想プログラムは、有馬記念を含む五レース分しかない。シミュレーションを重ねて、勝率を上げたが三割程度だ。倍率次第だが、五レース中、二レースを的中させないと勝てない。だからこそ、少しでもコイツの動揺を誘う為に午前中の全レースを捨てるという奇策にでたのだ。

 前回は勝負した全レースを的中させたキューコだが、三連複では珍しくない万馬券の勝ちがなかった。荒れるレースは謎の嗅覚で避けていたのだ。ここに勝機を見いだした。

 今年の有馬記念はぶっちぎりの絶対王者がいた。ほぼ順当と予想されていたのだが、その絶対王者が怪我の為、出走を取り止めたのだ。一転して大荒れの予想となった。

 キューコは荒れる有馬記念を避けるだろう。

 だからこそ、有馬記念は絶対に当てなければならない。



 13:00 ウインズ汐留


 午前中、私は優雅にハイボールを飲んでいた。 私のこの行動に対して、アドバンテージを取るつもりなのか、前回のキューコなら避けていた荒れたレースも無理して勝負をしていた。あたふたとしている顔芸から判断するに、勝ったのは五割というところだろう。

 そして、私は動いた。

 冬至特別、グッドラックハンデキャップ、オルフェーヴルカップ、そして、有馬記念に、フェアウェルステークス。この五レースに全てを賭ける。私の競馬予想プログラムは当てるのに、七つの組合せが必要だ。普段の私の行動からはありえないのだが、各組合せに一万円ずつ賭けるという、暴挙に出た。全部外せば三十五万円を失う。だが勝つためにはこれしかない。何で人妻の為にここまでしなければならないのか、自分でも馬鹿だと思うが、キューコに勝つというのは、私にとって、何事にも代えがたいプライドそのものなのだ。

 私は自分と自分の構築した競馬予想プログラムを信じる。



 13:40 冬至特別


大荒れの展開となった。配当倍率は千五百倍以上。ここまで荒れると予想するのは無理だ。始めの一手で七万円を失う。ぐはっ、たった五分で、冬のボーナスの七分の一が消失した。心の中で血の涙を流しつつ、キューコを見ると、しれっとしている。


「僕はレースを見送ったからね」


 私が参戦することで、冷静さを取り戻したようだ。


「次のレースで絶対に勝つ」


 神さまお願いします。



 14:15 グッドラックハンデキャップ


 順当なレース展開だったが予想は外れた。

 配当倍率は二十倍。ここは当てておきたかったが、現実は無情である。これで十四万円喪失。

 変なポーズが自然に出てしまう。



 14:50 オルフェーヴルカップ


 競馬の神さまありがとう。有馬記念前のレースで当てられたのは大きい。配当倍率も四十九倍と中々の倍率。だが、当てたのは一万円の馬券だ。

 馬券を二十一万円購入し、四十九万円の配当金を得た。差引き二十八万円の利益を得たことになる。心からの嬉し涙を流したのは、幼稚園児以来のことだろうか。


馬券代   二十一万円

払戻金(仮)四十九万円

差 額   二十八万円


 さて、問題はこの金額でキューコに勝てるかどうかだ。キューコはこれまで一レースを見送り、九レースの馬券を買っている。いつも五つの組合せを千円ずつだから、合計して四万五千円使ったことになる。取り敢えず万馬券以外を全て当てていると仮定して、払戻金は二十万円前後、利益としては十五万円となるが、第二レースの百五十倍の万馬券を当てていると、三十万円となり、ぎりぎり負けてはいない。残り二レースで決まるということか。


馬券代   四万五千円

払戻金(仮)二十万円〜三十五万円

差 額   十五万円〜三十万円



 15:40 有馬記念


「おーい、フクちゃん。調子はどうだい?変なポーズをしていないから的中したんだろう。最後までリアクション芸を見たかったんだけどな」


「ああ、キューコか。さっきの的中で勝ちが見えたから、有馬記念をどうするか悩んでいる」


「舐めちゃ困るね、さっきのレースなら僕も的中させたよ。たった一回勝ったくらいで、負けるわけないだろう」

 

「私が買ったのは一万円の馬券だ。購入費を差し引いても、十分に勝てると読んだ。安心しろ、

キューコの転職の世話は最後までしてやる」


「な、なんて馬鹿なことを……負けたらどうするつもりだったんだい」


「冬のボーナスが消える。……それだけだ」


「そこまでの覚悟を見せられちゃ、プロの馬券師として負けられないね。僕の本気を見せてやる」


 キューコは、どかどかとガニ股で、パドックを見に行ってしまった。

 本命不在の有馬記念。荒れると誰もが予想する。普段のキューコなら買わないだろう。更にプレッシャーを掛け、勝利への布石を打った。ここは様子見だろう。

 レース終了後、ドヤ顔のキューコが肩を叩いていた。



 17:30 イタリアン居酒屋


 私はこの店で一番高い六万円の赤ワインでヤケ酒中である。キューコが物欲しそうにしているが、絶対にやらん。

 最終レース、私は七万円分の馬券で勝負に出たが惨敗。配当金を減らしただけだった。一方、キューコはというと、最終レースをも的中させ、二レースだけで冬のボーナス以上を稼いでいる……けっ。


「やっぱり、フクちゃんは福の神だね。こんなに稼いだのは初めてだよ」


「お陰様でキューコ真人間計画は頓挫したよ」


「そう言うなって、僕だってこんな生活は、いつまでも続けられるとは思っていないよ。この三年間で資格も五つも取ったし、そろそろとは考えてはいたんだ」


「私のしたことは無駄だったのか……人妻に弄ばれていたのか」


「人妻って失礼だな。僕は独身だよ」


 私は黙って左手の薬指を指す。


「ああ、これね。バカ男避けだよ。そういえば取り忘れていたね……あれ?抜けない」


「不摂生が祟って、太ったんだろう」


「ムッキー。そうだ、何でもいうことを聞いてくれる約束だったね。フクちゃんに責任を取ってもらおう」


「……なんの話だ」


「フクちゃんの所に永久就職をしようかなと。強運持ちだし、お人好しだし、いいことがありそうな勝ち馬の匂いしかしないし」


 何を言い出すんだ、コイツは。


「御免こうむる」


「だったら私の永久就職を賭けて、来年早々、競馬で勝負しないか」


 キューコは、にしししと笑った。

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