雪盲
坂水
0話
見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。
それは彼女にとってであり、私にとっては意味があった。
〈どうして、なにも、書きませんでしたか?〉
彼女――トノハタさんは問うてくる。〝やさしいことば〟であり、柔らかな口調であったけれど、責めるニュアンスも含んでいた。
見開かれた日記帳の片面は真白い。
書く気がなかったわけではない。書いて書いて、書き尽くそうとして──何も書かないという選択が最も適切だと考えた末の白。
私たちは小さなテーブルセットで向かい合っている。
携帯用の字引を開き、拾った文字を書き込む。それはつまり〝汚す〟と同義だった。
《雪》
トノハタさんは眉根を寄せた。彼女は交換日記の相手であり、<導き手>であった。
不安になり、字引と見比べる。形状は間違っていないはず。
彼女の視線は横滑り、ガラス張りの壁へと向けられた。
陽は燦々と射し入り、緑は萌え、花は咲きほころぶ。当然、天気は良く、雪が降るなどありえない。
私はさらに字引をめくり、書き足し、汚す。
《私・見ました・夢》
ああ、と彼女は眉根を開き、日記帳を引き寄せると赤ペンでくるくると渦を書いた。三重丸。
〈わかりました。でも、今後は、夢はやめてください。あなたは事実を書かなくてはなりません〉
はい、と応える代わりに頷く。私は子どもの頃から口が利けない。
トノハタさんは微笑み、大きく口を開ける。
それは声というよりも<囀り>だった。
本来、人間には発せられない空気の震え。甲高く、耳障りな──これが、外星人が話す普遍星民語。振動そのものに意味があり、人が聞き取れる以上に情報が込められているという。
トノハタさんは声帯手術を受けた準二級星民だった。
〈では、作業に戻ってください〉
簡略星民語に戻って、指示してくる。
私は五級星民であり、この収容所に来て早や三年。
それは地球が外星人に侵略された期間であり、言葉を殺された年月だった。
昔、世界は言葉に満ちていた。
子どもの頃、雪原を歩いていた。薄明るい雲から砂糖粒のような雪があとからあとから降ってくる。
ゆき、そら、くも、かぜ、ひかり、いき、て、はだ、あしあと、つめたい、ざくさく、きらきら、あるく、すべる、ころぶ、いたい、たつ、はらう、あるく、こえ、なまえ、よぶ、あしおと、うれしい、さみしい、なみだ……
目に映る、感じる、思うすべて。言葉は雪のように際限なく降り積もる。
私には一歳違いの兄がいた。
疎開のため祖母に預けられていたが、近くに同年代の子どもはおらず、ほとんど二人きりで過ごした。
淋しかったどころか、最も幸福な時間だった。秘密めいた宝石箱のような。
兄は早熟で、教師だった祖父の蔵書を片っ端から読破し、私の最良の師だった。
一つ弊害があったとすれば、兄が私を理解し過ぎ、私が喋る必要性を感じず、滅多に口を利かなかったことか。
そう、私は話せないわけではない。
兄が紡ぐ言葉は美しく、得も言われぬ艶があった。それを己の声ですら邪魔したくなかったのだ。
「そんなに僕の言葉が好きなら、作家になるといい。書き留めて、いつか本にしておくれ」
冗談めいた台詞は、二人の間では本気だった。
兄が語り、私が書く。
夜更け、二段ベッドの上からせつせつと降る言の葉──物語、思想、思い出、謎かけ、時にはレシピ──翌日、私はそれらを一心にノートに綴る。
何十冊、あるいは百を超えていた私たちの作品は、けれど今はもうない。
三年前、外星人がやってきて、一方的に地球保護が宣言された。曰く、地球は危機に瀕しており、最早自助は適わない。保護対象として決議されたので、今後は指示に従うように──、と。
二度目の大きな戦争の後のことで、大国や国連は戦わずして保護と支配を受け容れた。
外星人は地球人の統制を求め、各所に総督府がおかれ、厳格な階級制度が敷かれた。総督には上級民が任じられ、様々な政策が進められた。下級民は収容所に入れられ、労働に従事させられた。また、星々に生かされている民――星民としての自覚を持つようにと、言語教育が進められた。
とは言っても、外星人らの普遍星民語は人では発せられない。今現在、地球人は階級順に声帯手術を待っており、その間、地球人でも扱えるようアレンジされた
その一環が、先の交換日記だ。<導き手>が添削し、指導する。
けれどこれは、学びというより、尊厳を奪われるやりとりだった。そも、日記は字引で単語を調べ、定型文に当て嵌めるだけ。字引の言葉は限られており(それこそ子ども向けと同じ)、また定型文では複雑な文言を編めない。制限される思考。統制するには都合の良い。
兄としてきた〝書く〟とはかけ離れていた。むしろ、汚し、貶め、殺している……
待っていて、トーリ。必ず迎えに来る。誰も知らない遠くで、二人だけで暮らそう──
別々の収容所に入る前、ひとつ毛布にくるまり、兄は約束してくれた。涙の一粒一粒を唇で拭いながら。押し当てられた熱い感触は、忘れるべくもない──
「□@*×$%#!」
突然、意味の分からない怒声を浴びせられた。これは簡略語ではない。耳慣れない他国の言語。
プレス作業中の手が無遠慮に掴まれる。
睨み付けるが、力尽くで退かされ、プレス機との間に広い背中が割って入る。細身だけれどがっしりとした身体つきの男性。プレス機が緊急停止する。どうして──
……オリト?
振り返った男を見て息が止まった。兄だ。いや、似ているだけ。兄よりも背が高い。いや、でも、まさか──
耳の形、肌の質感、指の長さ、細部を観察すれば違う。けれど全体はささいな違いを無視したくなるほど似ている。
男は何やら手を揉むように組み合わせながら、作業場の壁際へ向かう。そのまま器用にも窓を開けて、両手を突き出し──ひらり、と。白い何かが舞った。
……雪。
三年前以降、久しく見ていない天からの使者。
思わず窓辺に駆け寄った。もう一度、あの清冽な礫に触れられたなら──
身を乗り出して腕を伸ばす頃には、それは中庭へと飛び立っていた。モンシロチョウ。
男は、作業場に迷い込んだ蝶を逃がしたのだった。
背後に立つ男を振り仰ぐ。男も私を見下ろす。
黒い髪、黒い眼、同じ肌の色。アジア系で、けれど、先ほどの怒声から判断するに、母語は違う。収容所では簡略星民語以外での意思疎通は禁じられており、母語が同じ者は配置を別にされている。
〈古い言葉を使ってはいけません、古い言葉や考えは捨て、良き星の民を目指しましょう、古い言葉を使っては――〉
さきほどの怒声に反応して、指導が鳴り響く。
私は男から視線を引き剥がし、持ち場に戻った。
言葉によって世界の認識が変わってくるという考え方があると兄は教えてくれた。
例えば、蝶と蛾。前者を美しいと思い、後者を気味悪く考える感覚がある。
けれど、蝶と蛾の区別がない言語も存在する。
私は、あの雪の化身めいた姿をもちろん蝶として認識していた。
捉え方であり、どちらが優れているというわけではない。生物分類学上では、いずれも同じチョウ目という大きなグループに含まれており、形態での厳密な区別は難しく、むしろ、私は間違っているのかもしれない。
けれど私は言葉という光で世界を照らし、書き、兄と共有してきた。私たちの美しい世界を歪められるのは許容できない。
図書室は祖父の書斎ほどの魅力はない。簡略星民語で書かれた、支配を受け入れるための本が並んでいるだけ、いつも人気はほとんどなかった。
本を読みに来たわけではない。スチール本棚の一画から、薄いノートを抜き出す。
本ではなく、日記帳であり、添削用のそれとは違う。禁じられた母語で物語を綴るため、いわば兄との交換日記。私は書くためにやってきたのだ。
木を隠すには森の中とはよく言ったもの。ノートとカモフラージュ用の本を抱えて、ブース席に陣取り、読書灯を点ける。
一日の労働を終え、就寝までの自由時間を書いて過ごす。
美しい思い出も時が経てば、雪のようにはかなく消える。けれど書き留めたなら、何度でもなぞることができる宝石となる。兄と再会する日まで、私が私自身を保守するのは絶対的な使命だった。書いて書いて書いて、私と兄と世界を守る――
〈これは、あなたが書きましたか?〉
没頭していたところに簡略星民語で声を掛けられて、飛び上がった。読書灯の薄い光に浮かび上がる人影には見覚えがある――蝶を逃がしたあの男。
その手がノートを掲げている。点在して隠してあったうちの一冊。
もしも<導き手>たちに密告されたなら。ぞっとして奪い返そうと立ち上がる私に、信じ難い声が降ってきた。
「……面白かった。もっと、読みたい」
一体いつぶりだろう。耳に染み込んできたのは、私の愛すべき母語だった。
男の名はジニ。図書室で偶然ノートを見つけ、母語ではないが修学していた言語であり、簡略星民語の本よりもよほど面白かった、そんなことを彼は言った。そして作者を突き止めようと図書室に通ったと。
ジニは、隠していた数冊をすでに読み終えていた。他にもあるなら読みたい――その要望に驚きと困惑を覚える。
信用して良いものか。そも、正直なところ、兄との交換日記であり恥ずかしい。けれど〝作家になる〟との夢を実現させるならば、第三者に読ませるのはまたとない修練となる。
「代わりに、ノートを調達する」
迷う私に魅力的な提案がされる。
ノートは支給制であり、入手には苦労していた。
自分の作業成績は良く、<導き手>にも気に入られており、頼めば余分にもらえるとジニは言う。
私は喋らないだけでなく、何に使うかわからない部品のプレス作業にやる気もなく、<囀り>や簡略星民語には怒りさえ覚えている。当然、<導き手>からの覚えはめでたくない。私は彼の申し出を受け入れた。
就寝時間が迫り、連れ立っては目立つので、まずはジニから図書室を出る。と、彼は扉に手を掛けたところで振り返ってきた。
「蝶を逃がした時、作者だとわかった」
言語と人種から察したのか。疑問符を浮かべていると、彼は無表情だった顔をにやりと歪ませた。兄ならば絶対に浮かべない笑み。
「ものを書く人間は、怒っている」
間を二つ空けたブースでジニはノートを読んでおり、さすがに緊張する。
私は伸びをするふりをして、彼を見やる。兄に似た物憂げな横顔を。
〝ものを書く人間は、怒っている〟――そんなに不機嫌そうな顔をしていただろうか。確かに私は怒っていた。この理不尽な世界に。
ジニのことは最初こそ警戒していたが良き読者だった。読み終えたら感想を書いたメモを挟み(彼は私の母語を書くこともできた)、わからない言葉があれば教えを請う。弟ができたような心地だった。
「わらった」「かなしい」「怖かった」「ハッピーエンドうれしい」「犬かわいい。続きを早く読みたい」――語彙が増えれば、感想も長くなる。メモは積み重なり、やがて雪のように層を成した。
だが、一月ほど経って、私は書けなくなった。
記憶が曖昧な箇所があり、筆が止まる。ジニの読む速さに焦ったのも一因だろう。
休息日、薄暗いブースで頭を抱える私を、ジニは半ば無理やり連れ出した。
案の定、外は作業場以上に簡略星民語や<囀り>が響いていた。特に上級民は醜悪な鳥のパロディじみて、リルリルリリリ、リリリとかしましい。
ジニは行き先が決まっているのか、市街を抜け、ずんずん歩く。
陽射しは柔らかく、風は穏やかで、甘ったるい花の香りを運んでくる。私は歩きながら幾度かえずいた。
連れて来られたのは〈辺縁〉の植樹林だった。基本的に引きこもりなのでどこも初めてなのだが、ここは存在も知らなかった。
木々は等間隔に並んでいたが、あまり手入れされておらず、奔放に枝葉を伸ばしている。
緑と土の匂いが混じり合い、深呼吸する。ここの空気はいくらかましだった。
私たちは林を歩いた。
祖母の家での暮らしが甦る。雪原に迎えにきてくれた兄。その姿をみとめて寂しかったこと、手をつないで自分にも血が通っていたことを知った。
作業場と図書室の往復の日々に、植樹林の散策は良い息抜きになった。
ありがとうと謝意を示そうとして、ジニの姿がないのに気付く。名を呼べない私は移動して、彼を視界に収めないとならない。周囲を見回しながら、木立を歩く。
しばらくして、黒い後背を見つけて安堵の息を吐いた。彼は扉の前に佇んでいた。
分厚い鉄扉が、脈絡なく、ただ一枚直立している。
だが、おかしいのは、植樹林であり、市街であり、それらを包括する強制収容所全体であった。まやかしの世界。
ジニは鉄扉のノブに手を掛け、回す。だが、開かない。下級民には開けられない。
彼は鉄扉を叩いた。初めは片手、次に蝶を捕らえたあの両手で殴りつける。
そこで気付いた――彼もまた、怒っている。彼は書かないから、殴る。言葉を、自我を、尊厳を奪われ続け、行き場のない感情をぶつけている。
けれどこれは自傷自傷だ。私は彼の腕に縋り付いて首を振った。
我に還ったのか、ジニは呆然とこちらを見下ろす。
汗が滲み、瞳が黒々と濡れていた。汗か涙か、雫が私の顔に落ちた。追うようにして唇が降りてきて、重ねられた。
無言のまま帰り着いて休息日は終わり、その後、ジニは図書室に現れなくなった。
ほっとしたような、怒れるような。兄以外から与えられた熱に嫌悪を感じなかったことに、おののき、粟立ち、苛立っている。
当然、筆も進まない。私が私を保持できず、ぐずぐずと溶ける。
早く迎えにきて――ブースの中で幾度、溜息をついたろう。迎えに来てくれたなら、今度こそ受け容れる。
過去に一度だけ、兄を拒絶した。私の意思を無視して強行された行為に少なからずの衝撃を受けた。
でも、今思えば、兄なりの覚悟があったのだろう。
あの時は驚いただけ、怖かっただけ、痛かっただけ、今なら我慢できる、してあげる。恋しい、早く来て。でなけりゃ――
図書室の戸の向こうで物音がして、私はうたたねから目覚めた。就寝時刻はとっくに過ぎているが、今夜は点呼がなかったのだろう。
ノートを仕舞い、用心しながら戸口に向かう。と、そろりと開けた隙間から、真新しいノートが何十冊と床に積み上げられているのが見て取れた。
私とジニの共通の場所は図書室を除くとさほどない。
私が彼を求め、彼が私を求めたなら――会うのは難しくない。
蝶を逃がした作業場の窓辺で、彼は待っていた。
深夜の作業場は昼間とは印象を異にする。普段は人の命を聞く機械群が押さえつけていた自我を解放しそうで怖い。
人もまた例外でない。情動が膨れ上がり、理性の檻が壊される。
ジニに駆け寄り、背伸びしてその首元を咬んだ。私は怒っていたのだ。お返しとばかりに、彼は私の鎖骨下を強く吸う。思わず声が漏れそうになり、肩を押して引き離した。
誘導灯の明かりの下、不安げに瞳が揺れる。
大きな弟のような男。いや、大型犬のような。愛おしさがこみ上げ、短い髪に手を入れてわしゃわしゃと掻き混ぜる。不本意そうな表情に口付けた。
肌と肌を合わせるとくらくらした。肌でさえ狂いそうなのだから、その先は? 鼓動が何倍にも大きく響く。体内にぬめった波が満ちては引いて狂わせる。でも、声だけは、声だけは漏らしてならないと必死に押さえ込んだ。
「一緒に、行くか」
特有の気怠さの中、背後から抱かれ、鎖骨の窪みにその問いは落とされた。どこへ、とは言わない。植樹林に立つ鉄扉が思い浮かぶが、問うまでもない。
首を横に振る。私は行かない。兄を待たねばならない。ジニはそうかと髪に顔を埋めて呟いた。
〈最近、楽しそうですね〉
久方ぶりの指導日、トノハタさんは日記を返しながら告げてきた。
〈日記の内容も充実しています〉
いつもの定形文だったが、反対する理由もなく、頷く。
〈私の指導は今日で最後です〉
初耳だった。トノハタさんは申し訳なさそうに続ける。
〈私は手術を受けるため、収容所を出ます〉
手術と言えば決まっている。声帯手術の次は、振覚手術を受けるのがならいだ。振覚は人にとって新たな感覚器官で、振動を知覚する器官があってこそ星民語の正しい聴き取りができるのだという。
吐き気がした。それは同時に人本来の五官を殺す。そこから芽吹くはずの言葉も思考も文化も、棄てるなんて。
《おめでとうございます。頑張ってください》
気持ちとは裏腹な定型文を日記帳の端に書く。二つの手術を終え、試験に合格したならトノハタさんは晴れて二級星民の称号を得る。
〈ありがとう。夫も一緒だから頑張れます〉
彼女の指には真新しい金の指輪が嵌められており、本当は秘密なのだけれど、と前置きしてから夫の名を教えてくれた。
ノートを調達する――<導き手>に気に入られている――
そういう意味かと納得する。
下級民であっても、配偶者が準二級星民以上の場合、優先的に手術を受けられるし、配偶者に付いて収容所の異動も可能だ。
一方、彼の言動は意味がわからない。なぜ、私に一緒に行くかと訊ねたのか、どうして二人で会うのか。
トノハタさんはわかりやすかった。彼は、若く、見目良く、逞しく、従順だから。
ブースに座ったジニに、メモを落とす――『もう来ないで』。図書室はノートの隠し場所としても、書斎としても、譲る気にはなれない。
「怒っているのか」
もちろん、怒っていた。ずっとずっと怒っている。
嘘とか、二股とか、そんな
私たちは、言葉で繋がり、世界を共有していた。その世界を手放し、自ら首輪ならぬ指輪を嵌めて、迎合するなんて――
敵愾心もあらわに睨み付ける。ジニは傷ついた子どもの顔をして俯いた。背をさすり、頬を撫で、慰めたくなるような。
彼は俯いたまま何事か呟く。私の母語でも、簡略星民語でもない。おそらくは彼自身の母語。
次に顔を上げた時、彼は私の母語ではっきりと告げた。私を糾弾するために。
「おまえの国も、やつらと同じことをした」
大戦中の軍事支配、武断政治、同化政策。
その贖罪が終わらぬ――いや、始まらぬうちに、外星人の地球保護が始まった。
私の母語を話せる彼の過去を悟る。なぜ、想像すらしなかったのか。踏み付けた者は、踏み付けられた者を一顧だにしない。支配者は被支配者を、外星人は地球人を、上級民は下級民を、兄は妹を――私も同じ。でも。
<
声は発したのはいつぶりか。
ジニは呆気にとられていた。私自身も。
隠してあったノートは回収してあった。私はその束を抱えて、図書室を飛び出す。
作業場を抜け出し、外へ出て、夜の市街を駆け抜け、走って、走って、走って、――
兄妹の絶対的秘め事であったはずなのに、感情が理性の蓋を吹き飛ばした。あるいは、八つ当たりか。
兄は私に別の手術だと騙し、声帯手術を受けさせた。いや、騙したわけではない。あれはあれで必要な措置であり、ついでだっただけ。どちらがついでなだったのか、真意はわからねど。
口の利けない私が受けるにはちょうど良いと思ったのか。確かに二人で逃げるには、新たな声帯は必要で、兄の美しい言葉が喪われるよりはましだったかもしれない。けれど施された声帯手術は正規のルートではなく、私は本来の声を喪った。残されたのは書くことだけ。
待っていて、トーリ。必ず迎えに来る。誰も知らない遠くで、二人だけで暮らそう──
嘘つき、兄はまだ来ない。ジニとの行為はその報復だったかもしれない。
植樹林まで駆け、さらに進む。鉄扉は傲然と佇んでいたが。
<
ジニが叩いても殴ってびくともしなかった扉が私の声には従う。開いた先は暗く、階段へと繋がっていた。私は日記を両腕に抱え延々と続く階段を上がる。上った先にまた鉄扉。私は再び命じた。
開いた先は一面の白だった。
礫が容赦なく顔に当たる。目の前に広がる雪原に踏み出す。ぎゅっとした感触に身震いする。清冽な空気を胸いっぱいに吸い込み、むせる。鼻の奥がツンと痛い。睫毛についた雪をとろうとしたが、凍り付いて剥がれない。
巨大隕石が衝突し、極寒の氷河期が来る。外星人らはそう観測し、彼らの技術をもってして地下収容所が建設され、地球人は保護された。お節介にも。
視界は霞んでいたが、それでも美しく、懐かしく、身が清められるのを実感する。ようやく帰ってきた。
私は歩き出す。この雪原のどこかに兄がいるはず。抱えていたノートが落ちるが、構わず歩みを進める。どうせ、雪に埋もれて隠される。
*
殊に雪深いこの村を訪れるのは難儀だったが、辿り着いて安堵した。玄関前で丁寧に雪を払い、チャイムを押す。
連絡していたからだろう、すぐに暖かい客間に通され、紅茶を供された。
ほどなく、品の良い老婦人が現れる。
「トーリさん――いえ、
頷いた老婦人に名刺を差し出すと、彼女は老眼鏡を掛けて、たかのけんせつ、たかのまさし……と読み上げた。
「もしかしたら、鷹野建設の息子さん?」
「不肖ですが」
「お忙しいでしょう。郵送で良かったのに」
いえ、そんなことはと謙遜しながら、持参した包みを差し出した。
〝綾部〟とはこの地方の大地主であり、現当主である老婦人は著名な作家でもあった。
「確かに、私が書いたノートです。まさか五十年も経って戻ってくるなんて」
中はご覧になって? いえ、ええ、名前だけ――私はしどろもどろになって答える。いいのよ、と彼女は返してくる。
「少女時代の書き散らし。恥ずかしいわ」
「……では、ご兄弟は?」
怪訝な表情が浮かび、慌てて説明する。
トーリ(toori)とオリト(orito)、アナグラムになっているからもしやと――これでは読んだと白状しているのと同じだった。かつて文学青年であり、あの綾部藤里の生原稿を手にして我慢できるはずがない。
「ええ、お察しの通り、オリトは妄想の兄よ」
綾部藤里は少女のように笑った。
私たちはしばらく文学談義を楽しみ、大地主と地方建設会社として仕事の話をした。常々親父に言われている。土地の人間関係を疎かにしてはならないと。
すっかり長居してしまい、日が暮れかけて慌てて腰を上げる。彼女は玄関までわざわざ見送りにきてくれた。
「最後に一つお聞きしたいのですが。このあたりで男性が行方不明になった話はありませんか?」
私は雪靴を履きながら何の気なしに訊ねる。
「実は、ノートが見つかった近くで身元不明の遺体が見つかりまして。生後半年ほどの赤ん坊の遺体と一緒に」
しらないわ、玄関は薄暗くその表情は読めない。
「親子かしら」
「確認中です。顔の状態は綺麗なもので、似ていないこともないとか」
そう、彼女は抑揚なく呟く。私のゆさぶりなどものともせず。
引き戸を開ければ、冷気と雪が入り込んでくる。玄関先は冷える、では、と素早く戸を閉めようとして。
「もしも、二人が親子で、もしも、母親だけが生きているなら」
激動の時代を生き抜いた偉大なる女流作家の声音は落ち着いていた。
「悲しみを忘れるには、書いて書いて書くしかないでしょうね」
戦前、綾部家には口の利けない少年が住んでいたという噂を耳にしていたが、触れなかった。土地の人間関係を疎かにしてはならない。私は作家に暇を告げた。
大戦後すぐ、隕石の影響で大氷河期に入った世界に、あのノートに書いてあったような地球人を保護してくれる外星人は現れなかった。それから五十年、この国の人間は戦争以上の犠牲を出し、凍えながらもしぶとく生きている。
きっと多くの秘密が雪の下に隠され、人々の目を塞いでいる。春はまだ、当分来ない。
雪盲 坂水 @sakamizu
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