本流
太陽が沈む頃合から、繁華街は本格的に動き出す。目抜き通りは無論のこと、裏路地の小さな酒場もワイワイガヤガヤと
大小様々なビルや店舗が所狭しと密集する大都会に、異彩を放つ建物がある。
昼と異なる
オイル式のハリケーンランタンが吊るされた室内は優に二十畳を超える巨大な空間が広がっていた。中央には煉瓦製の大きな
粛々と準備が進められていると、コツコツと革靴の歩く音が近付いてくる。その足音を耳にしたコウは一旦顔を上げる。
姿を見せたのは、
「待ってたよ、“フェリス”」
にこやかな笑みを浮かべ、声を掛けるコウ。“フェリス”と呼ばれた青年は手に持つ栗色のボストンバックに脱いだ帽子を片付けながら応える。
「遅くなりまして申し訳ありません」
「なぁに、構わんよ。お前さんみたいな伊達男が歩いていたら男女問わず声を掛けたくなるさ」
フェリスからの謝罪にコウは鷹揚に返す。
「まず、何から始めればいいですか?」
「取り敢えず、その
のんびりとした口調で促されたフェリスは、壁に付けられたフックのハンガーにジャケットを掛け、代わりに黒のワークエプロンに袖を通す。コウの方も黒の割烹着姿である。
作業着になった事を確かめたコウは、早速やってもらいたい事をお願いする。。
「じゃあ、バケツの液体を大甕へ入れてもらおうかしら」
壁沿いには、七割から九割
指示を受けたフェリスは、バケツの取っ手を握り歩き出す。水量がある為にかなり重たく、運ぶ際の揺れで
新聞紙から焚き付け用の可燃物へ火が移り、次第に流木や木の破材へ転じ、勢いの増した炎は薪を焦がしていく。パチパチと火が
メラメラと燃え上がる炎が大甕の底を舐めるようになると、熱せられた液体の
「ありがとさん。少し休んでてちょうだい」
感謝を述べたコウは、入れ替わりで台に上がる。小脇に抱えた壺から白い粉末を手で
「何回見ても壮観だね。まるでカルドロンみたいだ」
いつの間にか蓋の
「“まるで”じゃないさ」
混ぜる手を止めずサラリと返すコウ。それも束の間、緑色の液体は粘度が増してドロッとしてきたのを目にしたコウはフェリスへ告げる。
「さぁ、ここからが本番だよ! 箱を持ってきておくれ!」
気合の入った声で命令されたフェリスは「了解」と短く答えると、ジュースを一気に
コウは木
「ご苦労さん。ありがとね」
バッグの中からジュースの瓶を取り出したフェリスは、コインで器用に蓋を開けるなりラッパ飲みする。一気に飲み終えてプハァと満足そうに息を吐いたフェリスは問い掛ける。
「休まないの? ルネ」
異なる名前で呼ばれたコウは作業を続けながら答える。
「アタシゃもうちょっとしてからだね。最後の仕上げが残ってる」
大甕の中をグルグルと掻き混ぜて固体の感触が無いのを確かめたコウは、台の上から降りて木箆を元あった位置に戻して竈の前へ移動する。太い薪を数本
順調に蒸気が天へ昇っていく様を眺めるコウへ、知らぬ内に隣へ移動してきたフェリスが声を掛ける。
「コウの事を“シエ”と呼ぶ人も居るけど、僕は“ルネ”の方が合ってるし好きだな」
何気ない風に言ったフェリスに、コウは「そうかい」と興味薄そうに返す。
「まぁ、魔女と呼ばれるよりかは気分が
フェリスが先程触れた“シエ”とは、フランス語で『魔法使い・魔女』を意味する“
ルネが本名ながら、外国人の苗字と
「その点、アンタは羨ましいよ。見た目とピッタリ合ってるし、何よりミーミングがとても縁起が良い」
世間へ順応する必要に迫られ仮初名を使うコウは、
スペイン語圏で人名にも使われる“
「話は変わるけど、最近煙の量が多くない? あと、色も濃くなってる気がする」
立ち昇る蒸気を眺めながら訊ねるフェリス。その質問に「あぁ」と肯定したコウが続ける。
「こっちの世界の住人は、昔と比べてゆとりが乏しくなっている。その影響がモロに出てるね」
コウが明け方にゴミを拾い集めているのは街を綺麗にするのが目的ではない。ゴミに付着する“
そもそも人間は感情を持つ生き物である。嬉しい・楽しい等の“陽”な気と悲しい・辛い・苦しい等の“
今行われているのは、“穢れ”を浄化する作業だ。“穢れ”を
「少し昔までは焚き上げの浄化も一月に一回で済んだけど、今じゃ一週間に一回は必ずやってる感じかのぅ。頻度は確実に増えてる」
ずっと同じ街に居続けるからこそ、コウは“穢れ”の量が年々増加しているのを肌で感じていた。ゴミ自体は減っていてもギスギスとした世相と比例するように、液体中の含有量や物体の付着量・堆積量は右肩上がりに多くなっていた。
「その“少し”って、どのくらい?」
「さぁて。大体三十年くらいかね」
「それ、人間の感覚だと“かなり”だよ」
ケラケラと笑うフェリス。歳月の感覚が麻痺するのは人ならざる者達
「あんまり年寄りを
「何を言ってるんだい。僕より
軽く抗議するコウにサラリと返すフェリス。一見すれば祖母と孫のように映る二人だが、フェリスは千年を超える歳月を生きてきた一方で、コウは数百年程度。ビジュアルが不変であるが故に実年齢と大きなギャップが生じるのもよくある話だ。
「……ラクに頼まれて手伝いに来たけれど、彼も現状を危惧してた。『現世は
「……だろうねぇ。幸せを引き寄せるお前さんが遣わされたのもラクなりの配慮だと思ってたよ」
黒い蒸気を見つめながら言葉を交わす二人。コウの他にも存在する陰陽のバランスを整える役目の人達は、何れもてんやわんやだと聞いている。加速度的に膨れ上がる“穢れ”に浄化スピードが追い付かず、均衡が崩れる事を何より恐れていた。
「何とか好転させたいと一番考えているのは “
話題の人物をイメージしながら深刻な表情で語るフェリス。“Butler”、英語から訳した『執事』にピッタリな恰好と雰囲気のラクは、現世と死後の世界を繋ぐ中間の領域で“Herrsher(ドイツ語で『支配者』)”または“Verwalter(ドイツ語で『管理者』)”の任に就いている。フェリスもコウも直接の関わりは薄いが、現世の人間や生物が不幸な結末を迎える事だけは是が非でも避けたい想いで一致していた。
しんみりとした雰囲気が漂う中、大甕から
「じゃあ、そろそろ行くよ」
あとは煮詰めるだけで、人手の要る作業は終わっている。着替えて荷物を持ったフェリスに、コウは「足元に気を付けてね」と優しい声を投げ掛けた。それに対しフェリスは手をヒラヒラさせ了解のポーズを示し、無言で立ち去って行った。
一人残されたコウは、窓の方へ歩み寄る。ジッと外を見つめていると、小さな雨粒がポツポツと降ってきた。
浄化された蒸気は天に達すると雲になり、やがて雨となり地上へ戻る。陰の気を
重労働で
暫く
そうこうしている間に、大甕から立ち昇る蒸気の色が黒から白へ変わっていた。コウは掻き混ぜるのに使用した木箆と壺を持ち、台へ上る。
大甕の内壁や底は白い物体で覆われている。それを木箆で
この固形物、正体は塩である。但し、現世の塩と異なるのは“穢れ”を含んだ物に触れると強烈な酸性に変化し、清浄が済むと元に戻る性質を有する。遥か昔、海水を濃縮し煮出す事で作られていた揚浜式製塩と原理は一緒だ。
大方の塩を回収し終えたコウは、道具を持ち段を下りる。脇に抱える壺は内部の塩がまだ熱を持っている
使っていた道具を元の位置に戻したり竈の中を掃除していたら、
延々と繰り返される浄化の日々を、コウは苦と感じていなかった。
「さぁて、今日もいっちょ世界を掃除しようかね」
気合を入れたコウは清掃道具と
真夜中に煙突から黒煙が立ち昇る家を見つけたら、そこはコウの
(了)
穢祓清雨 -穢レ祓イ清ム雨- 佐倉伸哉 @fourrami
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