春 二
「お呼びでしょうか?」
「お父様があなたに用があるそうですよ」
母が言った。
お父様というのは母の夫(貴晴の父)ではなく、母の父、つまり貴晴の祖父のことである。
「なんの御用でしょうか?」
貴晴は母に訊ねた。
「私に聞いてどうするのですか! 自分で聞きに行ってきなさい」
それが嫌だから母上に聞いたのだが……。
貴晴がなんと言って断ろうかと考えていると、
「もう
母が言った。
会いたくないからこの二年間口実を作って
「お祖父様の邸は
「嘘おっしゃい!」
母が
〝
日によって違うのだが、同じ
「あ、そうそう! 今日は
「あの方の邸はそれこそ方塞りでしょう!」
母が目を
「待ち合わせてるのです。隆亮の……妻の邸で」
貴晴はそう言うと母がそれ以上何か言う前に逃げ出した。
「お
着るものは
だから良い妻の条件の一つは染色や縫い物が上手く、いい衣裳が作れることである。
これは上級貴族でも同じで妻が夫の衣裳を仕立てるのだ。
義母は手を止めると
匡が出席する会に織子まで一緒に行くわけにはいかないため、あらかじめ作った歌を紙に書き付けて匡に渡すのである。
匡はそれを扇に貼り付けておいて必要な時にそれを盗み見るのだ。
侍女が書き仕損じた紙を持ってくる。
紙は貴重なので公式の文書や手紙以外は書き仕損じた紙の裏を使うのだ。
紙を受け取った織子が庭に戻ろうとした時、
「織子様」
義母が織子を呼び止めた。
「はい?」
織子が振り返ると義母が側に控えていた侍女に合図をした。
侍女が織子に冊子を差し出す。
「殿の伯母様から頂いたものです」
義母が言った。
殿――つまり義母の夫――の伯母ということは匡にとっては大伯母だが織子とは血縁関係はない。
「……お姉様に、ですよね?」
織子が本を受け取って訊ねる。
匡の大伯母が織子に贈ってくるわけがない。
匡の本を織子が読むことはある。
織子が読んで聞かせるのだ。
匡が字が読めないのではなく、縫い物や手習いなど他の事をしながら物語を聞くためである。
「それは
「後で感想を教えて
義母と匡の言葉に織子は納得して頷いた。
匡は歌物語があまり好みではない。
だが貰った手前、感想を言わなければならないから教えろという事らしい。
それに歌物語ということであれば歌の勉強にもなる。
だから織子に読めという事だろう。
「分かりました」
織子が本を受け取ると、
「今回は特に力を入れて頂戴ね」
匡が言った。
いい歌を作れという事らしい――春宮の気を引けるような。
そして近いうちに今年十五歳の春宮に
春宮には既に
そのため貴族達は競って娘を春宮の妃にさせようとしているらしい。
義母の夫は公卿(上級貴族)なのだが匡を入内させる気があるのかないのか今のところはっきりしていないらしい。
だが匡や義母は春宮妃になることを望んでいて春宮が来ると知ってなんとか気を引こうとしているのだ。
春宮が内裏の外で
お手が着くことはあるがそんなのは珍しくないからそれだけでは妃にはなれないし、そもそも公卿達が認めなければ正式な妃にはなれない。
女官として出仕することは可能だが。
出仕した後に妃に格上げされることはあるが、それは外でお手が付いているかどうかは関係ない。
帝や春宮の寵愛を受けられれば妃――
仮に女官から妃になれたとしても父親が有力な後ろ盾になれなければ皇子が生まれても帝の跡継ぎにはなれない。
最後にものを言うのは母方の実家なのだ。
まぁ私には関係ないし……。
織子は本を抱えると自分の部屋に向かった。
本は貴重だから外に持ち出すわけにはいかない。
読むなら室内でなければならない。
明後日までに何首も歌を詠まなければならないから本を読んでいる暇はないのだが――。
でも、歌物語なら歌の参考になるかもしれないし……。
織子は自分にそう言い訳して部屋に戻ると本を開いた。
牛車が止まったかと思うと、
「若様!」
外から
「どうした!」
貴晴が御簾を開けてみると周りを人相の悪い男達に囲まれている。
「盗賊か」
「若様、お逃げください!」
牛飼童や供の者達が貴晴に声を掛ける。
「逃がすかよ!」
取り囲んでいる男の一人が言った。
「だそうだ」
貴晴は太刀を掴んで牛車から飛び降りた。
「若様!」
由太が叱責するような声を上げる。
貴晴はそれに構わず太刀を抜くと近くにいた男に斬り掛かった。
由太や供の者達も続いて抜刀し、乱闘が始まる。
男が刀を振り下ろす。
貴晴が右足を引き
その背を太刀の
「うわわ!」
押された男がよろけながら前に進む。
それを待ち構えていた由太が斬り伏せる。
別の男が
貴晴は身体を前に倒して棍棒を
太刀が男の脇腹を
「ーーーーー!」
腹を切り裂かれた男が血と
目の隅に牛飼童に斬り掛かろうとしている男が映った。
貴晴は扇を取り出すと男の顔に投げ付けた。
「うわ!」
思わず顔を押さえた男を供の者が斬る。
貴晴は太刀を構えたまま辺りを見回した。
「どうやらこれで全部のようです」
由太が報告に来た。
「そうか、では帰るか」
貴晴は太刀を下ろすと牛車に戻った。
人を斬ってしまったのでは隆亮に会いに行くわけにはいかない。
死というのは『
『穢れ』た状態で隆亮の邸に行っては隆亮が
翌日――
「
織子は地面に書いてからそれを消した。
「有明の……う~ん」
織子はそれも消す。
歌会は昼間だから明け方の歌は向いていないだろう。
織子は空を見上げた。
青空に白い月が浮かんでいる。
風に飛ばされた桜の花びらが月を横切っていく。
真昼の月……。
〝み吉野の み山の上の 月影に 桜の白き 色やうつらむ〟
「…………」
歌会って吉野だったっけ……?
織子は首を傾げた。
ま、いっか……。
織子は紙に歌を書き付けてから『みよしのの』の隣に『春日山』『三輪の山』と書き添えた。
場所に合わせて『みよしのの』の部分を言い換えればいいだろう。
五文字の地名が近くになければ『みよしのの』のままでいい。
『吉野』は
織子は次の歌に取りかかった。
次の更新予定
影の弾正台と秘密の姫 月夜野すみれ @tsukiyonosumire
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