*二 銀色の月夜の出会い

 嵐が続くと、坊は食べ物を捜しに出かけられない。その為、その間はほぼ飲まず食わずである。

 水は祠の屋根を伝う雨水を、どこからかで拾った縁の欠けた椀に溜めて少しずつ飲むこと最近覚えたのだが、それは何の足しにもならない。

 特に冬は着の身着のままの坊にとっては過酷で、蔵の台座となる石の影に身を寄せながら、どうにかしのいでいる日々だ。

 昨日の嵐は思っていたよりも長引きはしなかった。しかし、飢えと寒さは極限を超えていて、坊は小さな体を震わせて台座の影に縮こまっている。腹の虫も鳴く元気がないほどに飢えているのか、空っぽな身体では暖もとれず眠れない。


「おなかすいたなぁ……」


 はあ、と小さな指先に息を吹きかけながら呟くと、ますます空腹を覚える。

 あまりに腹が減ったので、坊は何か食べられるものを捜しに行こうと思い、起き上がる。出際に祠にぺこりと頭を下げ、ふらつく足取りで村の店の立ち並ぶ通りの方へ向かった。

 夜は家々の灯りが殆どない。しかし出歩いている者がほとんどいないため、昼間のようにやたらと罵声を浴びせられたり、石を投げられたりするようなことがない。その為、坊は時折こうして夜の通りに出かけ、ひと気のない路地裏などの残飯を捜しに出ることがあった。


「よるだと、おいしいもの、おおいんだよね。なんでだろう。きょうもおいしいのあるかなぁ」


 嵐の名残の強い風が吹く夜空には、銀色の満月が浮かんでいる。冴え冴えと明るく、灯りがなくとも道がわかる。坊は唄うようにそう言いながら、ひとりひと気のない通りを行く。

 昨日殴られた店がある場所を避けて別の通りを歩いていると、夜中なのに話し声がした。どうやら立ち飲み屋の屋台が開いているようで、数人の客がいるようだ。

 屋台からは魚の焼ける香ばしいにおいと、ふわりと甘いにおいもする。ふらふらと灯りに吸い寄せられる夏の虫のように、屋台の方へ坊の足が向いていく。

 近づいていくごとに、屋台で交わされている会話も聞こえてきた。


「しかし昨日の時化しけはひどかったなぁ。あんなに晴れてたのに」

「おうよ。危うく俺の舟ひっくり返るとこだったんだからな」

「参っちまうよなぁ。ビービー泣くだけでもめんどくせえのに、嵐まで呼ぶなんて」

「ったく、どこの誰のガキだよ。親はどうしたんだ」

「捨て子だろ、あのガキは。あんなやつ捨てられて当然だわ。薄気味悪ぃ」


 おいしいものがありそうなにおいがする……そう思いながら灯りの方へ歩み寄っていた足が、聞こえてきた言葉に停まる。大人の言う言葉の意味は、坊にはよく解らない。字の読書きも、数を数えることもできない。何せ、教えてくれる大人がいないのだから、自分ではどうしようもないことだ。

 それでも、いま交わされている会話の内容が自分のことであり、それも、あまり嬉しくなるような話でないことぐらいは察しがついた。

 小さな胸の中に、水中に薄墨が垂らされるように不快な気持ちが広がっていく。なんでそんなことを言われなきゃなんだろう、という悲しみと、その悲しみに根源になる寂しさと空腹がぐっと胸に差し迫ってくる。


「おい、あのガキ、誰か海に放り投げて来いよ。それならいいんじゃねえか?」

ふかにでも喰われりゃいいんだよなぁ」


 村の人々に疎まれていることは、幼いながらに坊も感じていたし、充分すぎるほど彼は人々から折檻を受けていた。それでも、まだ身の危険を感じるほどの悪意を向けられたり、そのようなことをされたりはしていないと思っていた。

 なのに――喰われればいい、という、幼い彼にもわかるほど短絡的で恐ろしい言葉に、坊は屋台のすぐそばまで歩み寄っていた足を停めて立ちすくんだ。

 逃げなくては。本能的にそう察知したのに、足がすくんで動けない。膝が震え、きびすを返して駆けだすことも、一歩前に踏み出すこともできない。冷や汗ばかりがじわじわと背中を伝う。

 その時、不意に屋台を囲む人影のひとつが、ひょいとこちらを振り返った。そうして、立ちすくむ蒼白の顔色の坊を見るなり、彼は連れ合いのもう一人の男に声をかける。

 その声に屋台の中の者たちが顔を覗かせて目配せをし合い、何か含みのある顔を向けてくる。その顔は総じて薄く笑っている。


「よう、坊。どうしたぁ、こんな夜中にひとりで」

「ガキの一人歩きたぁ、感心しねぇな」

「嵐は呼ぶし、夜遊びはするし、とんだ悪ガキだなあ、坊は」

「ようし、何なら俺らが仕置きをしてやろうじゃねえか」


 仕置き、というものがどのようなものなのか、坊には全く想像がつかない。だけど、それがあまり心地よいものでないことぐらいは、男たちの下卑た笑いを見ていて察しが付いた。

 逃げなくては。なのに、背後まで囲まれて逃げ出すこともできない。

 おどおどと周囲の大柄な大人たちを見上げて様子を窺っている内に、誰からともなく坊を小突き回し始めた。小さなかぶりや細い肩、関節の浮き出た痩せたひざなどを、力加減なく。その度に坊はよろけ、よろけるたびに小突かれる。


「坊よぉ。お前がビービー泣くたびに海が時化て、俺らの商売あがったりなんだよ」

「わかるか? お前のせいで俺らは飯が食えないんだよ」

「そういやお前、この前八百屋から盗みをしようとしたんだってな?」

「この歳で盗みを働くとは相当の悪だな、坊」


 残飯を漁っていて怒られて、殴る蹴るの折檻を受けることも怖いし痛い。その痛みに比べれば、いま小突き回されているのは大した痛みではない。それなのに、ただ薄ら笑いを浮かべられつつ、延々とまりのように小突かれるのは、途切れのない恐怖が続く気がして余計に恐ろしい。いつかどこかで何かが暴発するようなひやひやする気配を感じ、気持ちが落ち着かない。

 やめて、と言いたいのに、喉が恐怖で引きれて言葉が出てこない。ボロボロの着物の裾を握りしめながらうつむいていると、真横から手が伸びてきて坊の長く伸びた前髪をつかんで上向かせてくる。顔に大きな傷のある、ひげ面の日によく焼けた肌の男が、酒に酔った据わった目で睨み付けてくる。


「何とか言えよ、このクソガキ。お前が泣くせいで、ここんとこまともな飯を、身重の嫁に食わせてやれてねえんだよ。腹の中のガキが死んだら、お前を鱶に喰わせるからな」

「ッや、やだ……」

「やだじゃねーんだよ! ふざけんな!!」


 ようやく呟いた言葉も、男の怒声と共に蹴り飛ばされ、坊は地に転がる。更に坊を踏みつけんばかりに足を振り上げて迫ろうとする男を、周りが止めてくれた。しかし、誰も坊を慰めたり気遣ったりする様子はない。


「やめとけ。あいつは化け物なんだから」

「下手なことして仕返しされたらどうする」


 そう言われ、それ以上坊が何かをされることはなかった。男たちはこちらを睨みながらも屋台に戻っていき、坊に背を向ける。

 そうなってからもしばらくの間、坊は恐ろしさのあまりすぐには立ち上がることすらできなかった。

 やがて、屋台の主人の老人が、手を払うようにして坊に向こうへ行けと示してくれたことで我に返り、坊は慌てて立ち上がって駆けだした。どこに行くとも決めないまま、月明かりが照らす道をひたすらに。



 人がいないところへ行かなくては。

 でも、どこへ?

 月明かりが照らす道を辿るように、坊はひたすらにひと気のない村の道を駆け抜け、やがて都留の港の横に広がる砂浜に辿り着いていた。

 銀色の満月が、煌々こうこうと輝き、暗い海に道をなすように照らしている。

 銀の道だ、そう坊は思った。この道の向こうには、こことは違う何かがあるのではないだろうか。そんな薄い期待が脳裏を過ぎる。


「鱶にでも喰われりゃいいのに」


 あの男たちは、はっきりと坊にそう言った。自分たちの食い扶持が稼げないのは、坊のせいだとも言っていた。

 それならば、と坊は考える。それなら、この道を歩いて鱶のところまで行けばいいのだ、と。

 どうせ誰も助けてくれない。誰も慰めてもくれないし、食べ物を恵んでくれるわけでもない。自分が泣いても、みんなが薄気味悪がって石を投げ、罵声を浴びせ、時に殴ったり蹴ったりしてくる。坊自身は、何もしていないのに。


「……オレ、“ふか”にたべられたほうがいいのかな」


 鱶がどういうものなのか、坊はよく知らない。ただ、坊を喰ってしまうほどに恐ろしい何かであることは確かなようだ。

 大人よりも怖いのだろうか、と考えると足がすくみそうになるが、海にいるのなら魚の仲間かもしれない。それなら、まだ怖くないかもしれないし、怖いと思う前に食べてもらえるかもしれない。

 どちらにせよ、もう、坊はここに、この世界にいることが耐えられそうにない。都留の村の片隅という小さな世界がすべてである彼にとって、そこで忌み嫌われることは命取りと言える。

 そこまで幼い頭で考えが至った時、坊は一歩、波打ち際へ踏み出していた。しゅわりとした濡れた砂の感触が、逃すまいと幼い足を捕えてくる。

一つ波が坊の足に触れて濡らしていくと、それが退くのにつられるようにぺたぺたと躊躇う様子なく数歩踏み出していく。

 やがてあっという間に坊の膝丈まで海水に浸かり、それでも歩みは止まらない。

 ざぶざぶと波を蹴りつつ進みながら、坊はまだ海水にも浸かっていないのに目の前が濡れているのに気付いた。そっと目許に手をやると、熱い涙があふれていた。

そうしてようやく、自分が悲しいのだと気付いたのだが、わかったところで坊にこの世界での居場所がないのは変わらない。引き返したところで、待っているのはまた折檻されて怒鳴られる日々だけだ。

それならばいっそ、鱶にでも喰われてしまえばいい――そう思いながら、ざぶりと一層深いところへ踏み込んで鼻先まで波を被る。もはや、息をする事もままならず、溺れていると言える状況だ。

苦しい。それだけで頭の中がいっぱいになってもがいてみても、捕まる浮きも何もなく、坊はただ一人月明かりの下で小さくしぶきすら上げられないでいた。

ああ、自分は死ぬんだ――そう気付いて頭のてっぺんまで海水に浸かったその時、何かが坊の上に差し掛かった。

黒い大きな影が月明かりを遮り、一瞬の暗がりを成すも、溺れる坊にそれは見えていない。

 それでももがくように小さな手をいっぱいに掲げていると、坊のそれをつかみ、引き上げられていく。


(え……?)


 坊が海水に沈みかけていた意識の片隅でそれを認識した時には、坊は全身を黒いはがねのような鱗で覆われた、山のように大きな男のたくましい腕の中に納まっていた。


(このあったかいの……しってる……?)


 薄い水色の長い髪の隙間からは金色にきらめく美しい瞳が、じっと坊を見つめている。怒りに震えるその眼には薄く涙の幕を張っていて、つつけば滴り落ちそうだ。


『お前、何をするつもりだ?!』


 低く腹に響く声で強く問われ、坊は惚けたように口を開ける。すると呑み込んでいた海水があふれだし、大きく咳き込む。その背を、男は大きな手のひらで撫でてくれた。撫でられていく内に、坊はあれだけ出てこなかった言葉がするすると出てくるのを感じた。


「“ふか”に、たべられようとおもった。オレがいたら、みんながおこるから。こまるから」

『だから、たった一人で海に入ったのか?! 死ぬところだったんだぞ?!』


 男に更に詰問されたが、不思議と恐ろしくはなかった。怒鳴っているのに、男の方が泣き出しそうな顔をしているからだろうか。


「だって、そのほうがみんないいんでしょう?」


 坊の言葉に、男の金色の目から滂沱ぼうだの涙が溢れ、きつく強く抱きしめられた。それは、坊にとって初めての抱擁で、ひどくあたたかで安心する感触だ。


「……ねえ、もっと、ぎゅってして」


 つい口をついて出た言葉に、坊は不思議と甘いものを感じる。食べたことなんてほとんどない味なのに、美味しい、と思えた。

 男は坊の言葉通り一層きつく強く抱きしめ、振り絞るように震える声で囁く。


『――お前、儂と同じ神にならぬか?』



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

2024年12月29日 19:00
2024年12月30日 19:00
2024年12月31日 19:00

みなしごは不器用な海の神から愛を知る 伊藤あまね @110_amane_

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ