*一 嵐を呼ぶ名もなき幼子

 数百年の昔、世界の東の端の少し北の方へ行った端っこの土地に、都留つるの港と呼ばれる小さな漁港があった。そこは、極ありふれた小さな漁村が立ち並んでいるばかりだ。

 そこそこの漁獲量で食い扶持を稼いでいた村の浜を見下ろす小高い小さな丘に、これまた小さなほこらがある。昔からこの土地と海の神が祀られているという話で、漁をするものが出向の前にゲン担ぎにお参りにきたりする。

 その祠の傍で、小さな、四~五歳くらいの痩せた少年――坊、と人々は呼んでいたが、誰も彼の名前を知らない――がひとり寝起きしている。


「かみさま、おはよう」


 朝、目が覚めると、坊は必ず祠に向かってぺこりと頭を下げ、そうやって挨拶をした。この中には神様がいることを、いつの頃からか知っていたが、親の教えであるのかは誰にもわからない。

 目覚めて挨拶をして、坊は祠の周りを掃除する。幼い彼にできる程度など限られているが、それでも何もしないよりはずっといい気が坊にはしていた。

 しかし、それを快く思わない大人も少なくない。


「ああ、またお前か! しっしっ! 祠に気安く触るんじゃねえよ」


 坊が掃除をしていると、決まって村の大人がイヤそうな顔をして彼を追い払う。坊としては何も悪いことをしているつもりはないのだが、怖い顔をして手で払われると、大人しく逃げ出すしかない。そうしないとうっかり捕まってしまって、もっとひどい目に遭うから。

 坊は物心つく頃には一人でここに寝起きしており、ごく当たり前のように村のゴミ捨て場で、その日その日の食べ物を捜すことで日々を送っていた。

 今日も今日とて村の飲み屋街の裏通りへ向かう。そこに行けば残飯などが見つかるからだ。いま坊が着ている服も、そこで見つけたものだ。酔っ払いが捨てた汚れたものだったし、袖も丈もあっていない大きくて穴だらけだが、裸でいるより寒くない。


「おこめ、おこめあったらいいなぁ。いっぱいかむとあまいんだもの」


 そう唄うように呟きながら、坊は、祠のある神社の小さな参道の先の長屋の立ち並ぶ通りを駆けていく。長屋の通りを抜ければ大きな通りに行き当たり、そこには瓦屋根の町屋敷と商店が立ち並ぶ。都留の港で最も栄えている区域だ。

 この区域であれば食べ物を扱う店も多く、残飯もたくさん出ることを、坊は既に知っていた。そして、店が開く数刻前の時分であれば、少しばかり残飯を漁っても追い払われたりしないことも。

 残飯が放り込まれている溝に行くと、すでに野良猫たちの先客がいた。坊はその隙間に何とか入り込み、「ちょっとちょうだいね」と言いながら、猫たちが漁る残飯に手を出す。今日は煮魚らしい残りものと、硬いご飯の塊にありつけた。

 すると、別の猫たちが、何やら店の入り口付近にある木箱の中を探るように引掻いている。坊もそれが気になり、残飯を漁るのをやめ、近づいていく。

 木箱は大きく、一尺ほどの高さがあって蓋がしてある。それをそっと押し開けると、中にはみずみずしい良く熟れた林檎がもみ殻の中でいくつも並んでいた。

 海沿いのこの街では果物は高価で、坊は残飯でもありつけたことが殆どない。欠片であってもとても甘く、夢に見るほどに焦がれている味だ。


「わあ! きれい……いっぱいある……いっこ、たべちゃっていいかな」


 一緒に箱の中を覗き込んでいた黒いブチ模様の猫に訊ねると、それは許すと言うように短く鳴き、猫もまた林檎をもみ殻の中から掘り出そうと漁り始める。

 坊はその内の一つを猫に取り出してやり、自分もまた一つ掘り出してうっとりと見つめる。真っ赤でつやつやで美しい、甘酸っぱい香りがする。しかも、坊の頭ほど大きい。

 久し振りにお腹にたまりそうなものにありつけた、と思ったその時、坊の襟首を摘まみ上げられ体が宙に浮く。

 え? と、思いながら坊が背後を振り返ろうとした瞬間には、坊の体は宙を舞い、そして通りの地面に叩きつけられていた。手にしていた林檎は、もっと遠くへ転がっていく。

 何が起こったのか、と、坊が辺りを見渡すより早く、あわせの辺りをつかみかかられ、また体が宙に浮いた。同時に、鬼瓦のような恐ろしい形相をした三十路くらいのひげ面のいかつい男が坊を睨みつけている。


「てめぇ! 残飯漁るだけじゃ飽き足らず、店のもんに手を出そうとはどういう神経してんだ!!」

「っひぅ! ご、ごめんなさ……」


 坊が知る限り最上級の詫びの言葉を口にする間もなく、その頬に平手打ちが飛んだ。それも一度や二度に飽き足らず、何度も。坊はとっさに歯を食いしばり、舌を噛まないようにはしたものの、平手を避けることはできない。

 平手打ちを何発も喰らう内に坊は抵抗することを諦め、ただ、男の気が済むまでだらりと体の力を抜いていた。こうしていれば、少しだけ早く痛みから解放されることを坊は経験で知っているからだ。

 案の定、ものの五分もすれば平手打ちは止み、坊は地面に放り出された。しかしその頬は林檎のように赤く腫れあがっている。


「ったく! 二度と来るんじゃねえぞ!」


 唾棄だきされんばかりの暴言を受け、坊は倒れ込んだまましばらくその場にうずくまっていた。打たれた頬以外にも体のあちこちが痛い気がしたが、それを誰に訴えかけるわけにはいかないし、聞いてももらえない。折角手にできたはずの林檎は、男が拾ってしまったのか、猫が持ち去ったのか、もうどこにもなかった。

 ようやくどうにか耐えられる程度に痛みがひいてきて、坊はゆっくりと起き上がる。

 痛い、痛い……お腹も空いた。でも、今日はもう何も食べられない。折角、美味しそうなきれいなものを見つけたのに。

 悲しくて寂しくて、坊の視界が潤んで揺れていく。

 こんな気持ちになるたびに、坊は自分の体を持て余してしまう。すかすかして心許なくて、寂しくて仕方なくなるのに、自分ではどうにもしようがないのだ。

 胸が詰まったように痛く息苦しくなり、やがて潤んでいた視界が滴って頬を伝っていく。


「ひぐ……ううぅ……えぐ……」


 泣いてはいけない。泣いたら、泣いているのを大人に見つかったら、もっとひどい目に遭う。わかっているのに、涙が止まらない。すかすかする気持ちも、寂しさもどんどん強くなっていく。

 さびしい、いたい、さびしい、かなしい……言葉にならない感情が小さなやせっぽちの体に充満して膨れ上がって苦しい。


「うあ、ああ……あーん……!」


 こらえきれない感情が、喉をついてあふれ出す。泣いてはいけないのは解っているのに、どうしても我慢できない。泥と垢で汚れた指先で目許をどんなに拭っても、涙も嗚咽も止まらない。歯を食いしばっても漏れる泣き声は、やがて通り一帯に響き渡り始める。


「ああ、おい、誰だ、坊を泣かせたのは!」

「おい、浜にいる奴らに知らせろ! 嵐が来るぞ!!」


 坊の泣き声を聞きつけた大人たちが一斉に表に飛び出し、慌ただしく店の戸口や窓の格子に戸板を立てたり、漁港の方へ走って行ったりする。その間も坊は声をあげて泣きじゃくるが、それを慰める者はいない。むしろ、忌々しそうな顔をして睨み付けてくる。


「ええい、忌々しい子だね! どこぞへ行っておくれよ!」


 通りで泣きじゃくる坊に、中年の女が忌々しそうに言葉を投げつけ、追い打ちをかけるように誰かが水をかける。坊は泣きながらとぼとぼととどこへ向かうでもなく歩き始めるが、やはりそれを慰める者はなく、皆一様に顔をしかめている。

 その内に、晴れ渡っていた冬空がにわかに掻き曇り始め、ひんやりとした風が吹きつけはじめた。

 皆が空を見上げた途端に、曇った空からは大粒の雨が降り注ぎ始めいよいよ人々は慌ただしく家の中へ入っていく。皆口々に、「あいつのせいだよ、忌々しい!」「これでまた二~三日漁に出られねえよ」と言いながら。

 雨に打たれ風に吹かれながら通りを抜けようと知る坊に、どこからともなく石が飛んでくる。それは小さなもので、当たっても痛くはないが、気分のいいものではない。


「化け物! あっちへ行け!」


 投石に追われるように坊は走り出し、降り始めた雨の中を祠のある丘までを駆け戻る。その間も、雨も風も坊の涙につられるように激しさを増していくばかりだ。

 祠まで辿り着く頃には坊は全身が濡れそぼっていて、折角腹に入れた残飯の気配も既になかった。雨は一層激しく坊の上に降り注ぎ、風は吹き付けてくる。

 丘から見下ろす海は白波が立ち、慌てて着岸したと思われる漁船がいくつも港で波に揺れているのが見えた。

 それは坊が泣くといつも目にする光景で、そのたびに坊は村の者たちにいつもひどい目に遭わされる。先程のように罵られたり石を投げられたりは常で、時にはあの店の男のように殴り飛ばされることも少なくない。だから坊はいつも体のどこかに痣や傷が絶えなかった。

 祠の立つ石の台のわきに身を寄せ、坊は膝を抱えてうずくまって一層一人で泣いた。泣けば泣くほど風雨は暴れるように都留の港に吹き付ける。


「なんで……なんでオレのせいってみんないうの?」


 さびしい、いたい、かなしい……そんな感情で小さな体がいっぱいになって潰れそうになっていると、ふと、何かが坊の頭や背中を撫でていった気がした。

 大きくてあたたかな何かを感じ、坊が慌てて顔をあげてもそこにはただ吹き荒れる風に揺れる樹々しかなく、見上げる祠はいつも通りなんの気配もない。


「……だぁれ?」


 誰に問うでもなく呟いた言葉に、答える者はいない。それでも坊は、先程よりも寂しさや悲しさが和らいでいる気がする。

 撫でられた頭のてっぺん辺りに触れながら、坊は小さくちいさく微笑み、祠に一つ礼をした。



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