みなしごは不器用な海の神から愛を知る

伊藤あまね

*序

 嵐の夜、掘っ立て小屋などが立ち並ぶ、貧しい漁村の港にほど近い浜辺から、一つの小さな人影が海の中へ躊躇ためらうことなく入っていった。

 白波の打ち付けるそこは冷たく氷のようなのに、彼はそれすら感じないかのようにどんどん進んでいく。


「っふ……うぅ……ッうぅ……こわくない、こわくない……」


 怖気づきそうになる自身を鼓舞するように、幼い彼は呟きながら前へ前へ進んでいく。しかしそこに前向きさや希望は見いだせない。

 肌を刺すほど冷たい海水は、傷だらけの小さな腕を一層傷めつける。しかし、冷たさと塩気によるそれらさえも、もはや彼を踏み止まらせるすべになってはいない。一歩、また一歩と小さな彼は暗い真っ暗な海の奥へ奥へと進んでいく。

 荒れ狂う真冬の真夜中の海。そこに浮かぶのは銀色の満月ばかりで、彼を止める人間は一人もいない。


「あぐ……ッがぼ……あぅ……」


 海面が彼の口許に届くようになり、いよいよ海底に足がつかなくなってきた。溺れてしまうことは明白なのに、それが恐ろしいことを引き起こすのはわかりきっているはずなのに、彼の足は止まらない。

 これで良いんだ、これで……そんな想いが、幼い彼を唯一奮い立たせここまで導いてきた。しかしそれがどういう感情のもので引き起こされているかは誰も知らない。誰も知りはしないが、真相を無言に物語るように海水に濡れた手も足も、幼い顔も傷だらけ痣だらけだ。それどころか、彼の全身が真っ黒に汚れていて、黒い髪も伸び放題だ。大きな蝶を貼り付けたような紫色のあざのある目許は、くるりと大きな愛らしい眼があるのに、それはぼんやりと曇っている。

 海面はもはや彼の鼻先まで迫っていて、息を吸うこともままならない。限界は近い――そう、幼いながらに自分の最期をさとり、彼はきゅっと目をつぶりながらさらに一歩踏み込もうとした。

 その時、何かが強く彼のか細くて折れそうな腕をつかんだ。

 一体何が――そう、彼が驚き振り返る間もなく、それは彼を海中から引き揚げ、濡れそぼるのも構わずその腕の中に抱き留められた。

 抱きしめられる、なんて未だかつて誰も彼にしてはくれなかった。だから、それがどういう状況にあるのか、すぐに把握できずに言葉も出ない。ただ、呑み込んでいた海水を弾みで吐き出し、むせるばかりだ。

 それでも、どこかで感じたような、懐かしい――そんな感覚が彼の中にあればの話だが――ような、よく知っているようなぬくもりを持つその者は、むせる彼の背をぎこちない手つきでさすり、やがてこう訊ねてきた。


『――お前、わしと同じ神にならぬか?』


 神……聞き慣れない言葉に、腕の中の彼はぼんやりとそれを見上げる。黒いうろこのような硬そうな肌に、大きく裂けて牙が光る口許、彼を見つめてくる瞳はまばゆいばかりに金色にきらめく。

 人ではない、と、幼い彼でもすぐにわかった。では、人ではないとすれば、これは、神というものなのだろうか?

 差し出された言葉の意味は解らない。それでも、心と体のどこかがホッと馴染んでいく感触がするのは、抱きしめてくる腕に、彼を痛めつける意思を感じられないからだろうか。

 幼い彼はうなずく代わりに大きな背に小さな腕を回し、ぎゅっと抱き返しながら答えた。


「――うん。なる」


 銀色の月だけが見ていたその光景と交わされた言葉が、のちにどのような事態を引き起こしていくのか、この時は誰も知る由もなかった。



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