この黒に対たるを誓う−寿ぎの巫女と呪殺の従者−

安崎依代@1/31『絶華』発売決定!

「……お前、まだ生きているのか」


 きっと俺はこのまま死ぬのだろうなと、漠然と覚悟が決まったその瞬間に、その声は聞こえた。


「こんなところで、何をしている」


 一面の雪景色の中に仰向けに倒れ込み、ピクリとも動かない人間に行き合えば、誰でもそう言いたくなるものだろう。


 これがまだ自邸の庭や人家に近い野原でのことならば『いい歳をした男が雪遊びか』と一笑にされるだけだろうが、生憎あいにくここは深い山の中の、切り取られたかのようにポッカリと開けた野原の中だ。こんな吹雪ふぶきが吹き荒れる日に、こんな場所まで雪遊びに来るような馬鹿はいない。


 つまり、声を投げてきた相手だって、本来ならばここにいるべき存在ではないはずだ。


「か、え……くれ」


 しばらく前から吹雪は収まり、今はチラチラと名残なごりのように粉雪が舞い降りてきている。俺の視界いっぱいに広がる灰色の空はぼんやりと明るく、世界は静まり返っていた。少なくとも、誰かがここに近付いてくる足音は聞こえなかった。


 ならばきっと、この声の主はヒトではないのだろう。


「あやかしの、女房は……いらない、ん、でね」

「そんなザマで、まだそんなた口を叩けるのだな」


 凍りかけていた唇を開いてかすれた声を上げれば、俺の体をなかば覆い隠した氷雪よりも冷たい言葉が返ってきた。


 同時に、もはや首さえ動かせない俺の視界に入り込むように、サラリと漆黒が広がる。


「案外、本当に放っておいても大丈夫なのやもしれん」


 その『黒』は、絹糸のように垂れ込める髪の色であり、光を弾く瞳の色であり、まとった衣の色でもあった。


 俺の体を……どす黒くきたならしい赤に染まった俺の体を、まるで不浄を覆い隠すかのように降り積もる雪とは、対極の色。何もかもが白く染め上げられた世界の中で、その侵略を唯一拒む色。


 今の俺には、彼女の『黒』が、世界の何よりも美しいものに思えた。


「しかし、ここでお前のげんに従った結果、雪解け後に死体がひとつ転がっているのは、寝覚めが悪い」


『ここは神域であるゆえに、本来ケガレは拒むべきであるが』と、彼女は表情ひとつ動かすことなく呟く。


 とてもじゃないが、人の生死を語っている風情ではない。まるで目の前に落ちている塵芥をいつ片付けるべきかと思案しているかのような雰囲気だ。


「はて、どうすべきか」


 そんな彼女の様子に、俺は思わず凍て付いていた唇の端を吊り上げていた。


 ヒトでないことを隠す気もない言動も。いかにもワケアリそうな俺を目の前にしても動じていない風情も。


 何よりも、俺よりも高い場所から、俺の目を真っ直ぐに見つめる、その視線が心地よい。


 ──こんなに真っ直ぐに瞳をのぞき込まれたのは、一体いつぶりなんだろう。


 思い返せば、こんなにも真っ直ぐに俺を見つめてきた存在は、目の前にいる彼女が初めてかもしれない。


 都を震撼させた呪殺師。存在そのものが『陰』で『ケガレ』と忌まれた男。


 そんな俺の人生の終わりが、こんな静寂に満たされた、心穏やかなものならば受け入れてやってもいいと思っていたが。


 ……気が変わった。


「拾って、みるか?」


 俺は役目を放棄しかけた喉に力を込める。もう二度と、己の意志で言の葉を紡ぐことはないと思っていた喉に。


「神域に、ケガレは……残したく、ない、の、だろ」

「拾って、何とする」

「好きに、すれば、いい」


 正直に心の内を告げれば、女は表情の見えない顔でじっと視線を注いできた。長く垂れ込める黒髪が冷気を退けてくれているのか、女からは体温を感じないのに、髪に囲われた胸から上は寒さがやわらいでいる。


「お前」


 そんな、灰色の空の代わりに俺の視界を占めた黒の中で。


 彼女は、不意にツイッと目をすがめた。


「この状況で、まだ生を望むのか」

「この、状況」

「体も、魂も、深手を負っている。その上、随分と業を背負い込んだようだな。怨念の糸が、無数にお前を締め上げている」


 ──そこまで見えているのか。


 やはり彼女はヒトではないのだろう。『俺』の在りようを的確に言い当てる言の葉に、俺は思わず笑みを深める。


 そんな俺の表情にも反応を示さないまま、彼女は実に淡々と言い切った。


「正直、生き延びたとしても、その先にあるのは地獄だろうよ」

「いい、ね」


 だから俺はその分、精一杯の感情を言の葉に込める。


「きっと、地獄の業火で、この体も、いい、感じに、温まる」


 俺の返しが意外だったのか。あるいは気に入らなかったのか、逆に気に入ったのか。


 彼女は何かを吟味しているかのようにじっと俺を見つめた。


 相変わらず、世界に音はない。俺の全身は端から『死』が始まっているのか、感覚がどんどん遠ざかっているような心地がした。


 それでも、俺の視界を上書きした黒は遠ざからない。俺も、この黒だけは、意識からは手放したくない。


 ──もしもこのまま死に絶えるならば、この黒に全てを包まれたまま逝きたい。


 そう願った、その瞬間だった。


「いいだろう。ケガレにまみれた、哀れなヒトの子よ」


 不意に、彼女が言葉を落とした。


 さらにゆっくりと、『黒』が、俺に近付いてくる。


「死に臨むこの瞬間までも、そこまでの業を背負ってなお、この苦界にしがみつきたい理由があると言うならば」


 俺の頭のすぐ傍に膝をついた彼女は、表情を変えず、言の葉も止めないまま、ゆっくりと俺の顔の上に顔を伏せた。


「『寿ことほぎの巫女』たるわらわの対の座に……我が荒御魂アラミタマたる座に、お前を奉じてやろう」


 ひんやりとした感触が、唇に触れる。


 だがその瞬間、触れ合った唇を介して俺の体を巡ったのは、温かな生気だった。まるで春の雪解けのように、雪から生まれた清水が大地を潤すがごとく、俺の体を温かな熱が巡っていく。


 ──ああ、まるで……


 俺の体そのものが、春になったみたいだ。


 そう考えたのを最後に、俺の意識は美しい黒の中に消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

この黒に対たるを誓う−寿ぎの巫女と呪殺の従者− 安崎依代@1/31『絶華』発売決定! @Iyo_Anzaki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画