第20話:歪んだ心に囁くもの
『今、電話してもいいですか?』
塾からの帰り道だった。久々のつむぎからのLINEだったけれども、俺の彼女はなかなか難しいことを言う。
俺は受験生だ。それも、かなり高望みの。つむぎには悪いけれど、今は一刻でも時間が惜しい。
……それでいいの?
頭の中で、何かが囁いた。
俺はただいまも言わずに自分の部屋に駆け込んで、勉強机に向かう。いつもなら夕ご飯が先だけれども、今日は親は宿直だし、今はそんな気分じゃない。
カバンから英熟語の参考書を取り出し、しおりを引き抜いて、ぶつぶつ例文を復唱しながら没頭していく。
意識よ、沈め、沈んでくれ。
さっきから頭の中でがんがんと欲望が俺に囁く。きっとこれは黒い悪魔だ。白い天使は、努力に見合うだけ俺を守ってくれる。
……追い出したいの?
追い出したい、そうだ。
今だけは恨むよ、つむぎ。
俺は、今は君が憎い。
……本当に、今だけ?
もしも、拒絶したせいで頻繁にLINEが来ようものなら、俺はきっと耐えられない。ただの一度、甘えられただけでこれなのだ。あいつは甘えているなんて微塵にも思っていないだろうけれど。
……ずっと、無視すればいいじゃない。
嫌だ、あいつは傷つく。豪胆なくせに繊細だから。
……じゃあ、どうするの? 自分を殺したら意味がないじゃない。
切り捨てるしか、無いってのか。
俺は、いつだったかの赤本の論説文に乗っていた一節を反芻しながら、スマホに指を走らせる。
言葉には、伝え方がある。
『ごめん、見るの遅くなって』
ひとつ。まずは声をかけて。
『相談なんだけどさ』
ふたつ。あえて言葉を切ろう。
『もしかしたら俺たち、ちょっと離れた方がいいのかなって』
みっつ。本題は相手を傷つけないように優しく。
画面に映る文字たちは、その内容の重さに比例せずに、存外軽やかに放たれてしまった。
もう、取り消せない。もう、戻れない。
把握した時には、もう俺の中の何かが崩れ落ちた後で、俺の体はそのショックに耐え切れずに力が抜けた。目の前に開かれた英熟語の参考書が今はただ煩わしい。
俺はスマホの電源を切ってベッドに放り投げると、そのまま部屋の電気も落としてタオルケットを被った。どうか、夢でありますように。いいや、確かに今文字を打ったのは俺の指だった。
頭の中でけたけたと何かが嗤っている。
せめてもと、俺は祈る。たった数か月の間に紡ぎ続けた華奢で、濃密な思い出にすべてを賭けて。
これまでの思い出たち、お願いだ。どうか俺の代わりに、つむぎの道しるべとして寄り添っていてやってはくれないか。
◇◆◇
うっすらと顔を出した太陽の光が、レースカーテン越しにベッドの先を照らしている。もう、一晩経った。
まさか眠れない夜が来るだなんて、これまで思いもしていなかった。
けれども確かに、俺は昨日、眠れなかった。体は脱力してどうしようもなかったっていうのに。これじゃ、受験勉強の方すら手につかない。
真っ暗な部屋、昨日の夕方までは覚えていた日常英会話時点の一節、今日の夕飯さえも思い出せないこの頭。ああ、思い出した。つむぎのせいで昨日の夕飯はすっぽかしていたんだった。
お腹、すいた。
卑しい俺の体は、頭がどれだけショックを受けていてもお構いなしに疲れて、腹を鳴らす。
俺はよっこいせ、と重い体を起こして目を
……ん?
足元で、うつぶせに放置されているスマホが、震えもせず、ただ無音にシーツの一部分をぽっかりと照らしている。もっと日が昇っていたら気づかなかったかもしれないような弱っちい明かるさで、ぼんやりと。
俺はスマホをじっと見つめた。スマホは数分おきに、暗くなったり明るくなったりを繰り返す。手元の目覚まし時計が狂っていないならその間、きっちり5分。
落ち着かぬまま、コーンスープとマリーで手早く朝食を済ませている間も、スマホは点いたり消えたりを繰り返していた。
その正確さと執拗さからは、もはや執念さえも伝わってくる。
太陽が昇って、窓から差す光の筋が床を滑っている。
スマホと距離を置きながらにらめっこして、何十分経ったか。開かれっぱなしだった参考書は、手持ち無沙汰にいじられたせいで、昨日にどこまでやっていたかもわからなくなっている。――いや、それはいいか。どうせ忘れちゃったんだ。
光の筋がついにスマホを覆い隠して、ぼんやりとシーツを照らしていた明かりもわからなくなった。けれどもきっと、今、スマホは点いている。
俺は恐る恐るベッドに近づいて、スマホを握りしめる。
思い当たる節は、ある。
ごつごつしたプラスチック製の無機質なスマホカバーがぐっしょりと、一瞬で湿っていくのがわかる。
俺は恐る恐る、スマホに人差し指だけをひっかけてひっくり返した。
やっぱり。
ひっくり返して、スマホに映るのはつむぎの三文字と、何も設定されていない灰色の人型アイコン。このアイコンを変えられるって教えたらつむぎは「そうだったんですか⁉」って、目を丸くして驚くだろうか。
微笑ましい妄想を蚊帳の外に、俺の頭は昨日の景色をフラッシュバックさせる。
言葉には、伝え方がある。
――とても、残酷な伝え方だ。
『ごめん、見るの遅くなって』
ひとつ。まずは声をかけて。
――相手に重さを悟られないように。
『相談なんだけどさ』
ふたつ。あえて言葉を切ろう。
――鈍感を装うために。
『もしかしたら俺たち、ちょっと離れた方がいいのかなって』
みっつ。本題は相手を傷つけないように優しく。
――嘘、俺は確かに意図してつむぎを傷つけている。
そうだ。俺は確かにあいつを傷つけて、勝手に投げ捨てたのに、全部が終わったかのように力が抜けて。身勝手にも、不安定なものに縋って。
どうしようもない奴じゃないか、腑抜けたみっともない野郎じゃないか。
だってのに、それなのに。
何なんだよ、あいつは。何なんだよ、本当に
俺は嬉しかった。損得勘定でしかものを見られなくなってしまった麻痺した頭の、歪んでいる、真っ当な喜び方じゃなかったとしても。
自分の時間を殺してまでも、声をかけ続けてくれるのか。
――つむぎ。
囁くと、止まらない。
もし、もしも君が俺の道しるべになってくれるというのなら、今だけは縋りたい。
こんな、心を麻痺させる冷たい場所よりも、欲望まみれでも暖かい場所に戻りたい。
ちょっと、その声を聞かせてくれないか。
頭の中で、白い天使が「やめようよ」とぐずっている。
そう、それがきっと正しいんだろう。
だから、言い換える。
――これは等価交換だ。相手が天秤に載せてくれたものの分だけ、俺には答える義務がある。期待に応えようとする受験勉強と何も変わらない、だろう?
屁理屈なのは、わかってる。
だけど、今だけは見逃してほしい。
俺は愛しい人の名前を囁きながら、俺の指はスマホに映る緑の丸ボタンを、流れるようにタップした。
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幸せの道しるべ【リレー小説】 三門兵装 @WGS所属 @sanmon-3
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