解答篇:消しゴム一つ分の勇気


 阿笠紫のことを、特別カッコいいとは思わない。

 変わったことといえばときどき突拍子のないことをし始めるくらいで、それ以外はそこらの男子と大して変わりはしない。考えなしに生きてることも、頭の中がスケベなことでいっぱいなのも。


 小学校の頃、あたしは身体の成長がちょっと早いだけだと思っていた。

 中学校に入ると、人より太ってるのかなと悩んだこともあった。

 だけど男子のあたしを見る目が変わり始めて、そうじゃないと気がついた。


 どうやらあたしの身体は、男子からするとかなり魅力的に見えるらしい。

 女子からも言われるくらいだ。ちょっと触らせてとか、どうやったらそんなに大きくなるのとか。

 まったく鬱陶しいったらない。好きで巨乳になったわけじゃないし、男に好かれたいと思ったこともないのに。


 だったらもう少し刺激の少ない格好しなよ、と友達に言われたこともあるけど、男子の目を気にして自分の格好を変えるのは、なんだか負けたみたいで嫌だった。

 子供っぽい意地だとわかってはいるけど、それがあたしのプライドだった。


 そんなあたしにとって、同じクラスの男子どもはみんな知能のない猿だ。

 人と喋るときに顔も見れず、胸ばっかりじろじろ見るスケベザル。

 阿笠紫も、そんな猿の群れの一部に過ぎなかった――


「七海さん、君から一つ、許可をもらいたい」


 それはたまたま、阿笠と日直になったときだった。

 担任から雑用を押し付けられて、放課後の教室で2人きりになったとき、阿笠は真剣な顔をしてわたしにそう言った。


 ……許可?

 よくわかんないけど、もしかして告白か?


 今までにもこういうシチュエーションは何回かあった。でも胸をチラチラ見ながら愛の告白なんかするやつに、恋愛感情なんか抱けるはずがない。

 だから全部断ってきた。阿笠に対してもそうするつもりだった。

 あたしはため息をつき、


「なに?」


 と、ぶっきらぼうに聞き返す。

 阿笠は相も変わらずあたしの顔を真剣な顔で見つめ続けていた。まるで首の角度と目の向きがその状態で固定されているみたいだった。

 緊張しているのかと思ったけど、それにしてはちょっとおかしい。

 どっちかといえば……見てはいけないものを、見ないようにしているかのような……。


「単刀直入に言わせてもらう」


 その状態のまま、阿笠は大真面目に言う。


「不躾ながら――君の胸を見てもいいだろうか!」


 今度はあたしが固まった。

 大真面目な阿笠の顔を見つめて、何度も瞬きをして、


「はあ?」


 ようやくそれだけ、リアクションができた。

 胸を? 見てもいいか? 許可? はあ?

 意味不明すぎて上手く怒ることもできないあたしの前で、阿笠はググっと何かを抑え込むようにキツく目をつむりながら続ける。


「正直、中学生男子にとって――いや、これは僕の問題だな。僕にとって、君の爆乳は魅力の塊だ! その一挙一動、一チラ一揺れに僕の感情は嵐の海のように揺れ動く! そこにあれば見ずにはいられない!」

 

 真剣な顔で、何言ってんだこいつ……。

 あたしは戸惑うばかりだったけど、当の本人としては、全然ふざけている様子じゃなかった。


「しかし僕は、できれば公明正大に生きたいと常々思っている! 君に許可なく、その胸をチラチラ盗み見ることは公明正大と言えるか? 否だ! よって許可をもらいたい! 自分の欲を制御しきれない哀れなこの僕に、どうか慈悲をもらえないだろうか!」


 ここまで聞いて、とりあえずわかったことがある。

 こいつ、アホだ。

 クラスでは『たまに天才になることがある』って言われてるけど、それ以外では人並み外れたアホのようだった。

 

 だけど、だからこそ、と言うか……ちょっとだけ清々しい。

 他の男子どもは、自分の薄汚いスケベ心を認めようとしないで、さも自分は真面目です、紳士ですという顔をしながらあたしに欲望をぶつけていた。

 だがこいつは、自分のスケベさを素直に認めているし、それを申し訳ないとも思っているのだ。

 少なくとも、それは、他の男子たちは一度もしなかったことだった。


 ちょっとだけ、面白い、と思っている私がいた。


「……あのさ」


 少しだけ。

 少しだけ、試してみよう。


「あたしが許可しなかったとして、あんたはどうすんの? 絶対見ないって言い切れんの?」

「その場合は見ない……! この両目を潰してでもだ!」

「ふーん……」


 あたしは、阿笠に近づいた。

 一歩、二歩――あたしの胸が、阿笠の胸にくっつきそうになるくらいまで。


「これでも?」


 阿笠がたじろいで一歩引く。

 引かれた分だけ、あたしは詰める。


 阿笠の目からは、制服の襟から覗くあたしの胸の谷間がよく見えるはずだ。

 絶対に、目が下に向く。

 その瞬間を見逃さないように、あたしは阿笠の目をじっと見つめた。


 吐いた唾を飲むなら、阿笠もその程度の男子だったということ。

 ちょっと思考回路がアホなだけで、どうせこいつもその辺の男子と変わりはしない。それを自分自身で証明するのだ。


 阿笠はあたしの目を見つめ返しながら、少しだけ鼻の穴を広げた。

 何度も見た、スケベなことを考えてる顔。

 ほら、やっぱり。

 それから、少しでもあたしにバレないように、一瞬だけ目を下に向ける――


「……うぐ、ぐぐぐぐ……!」


 ――と思ったら。

 阿笠は苦しそうにうめきながら、顎を持ち上げ、上体を反らし――


「み、見ない……! 絶対に見ない……!!」

「……意外と根性あるじゃん。でもずっとそうやって天井見てるつもり?」

「君に、許可をもらえない限りは……!」

「もういいじゃん。他の男子は許可なくチラチラ見てるよ。あんただけ頑張ったって意味ないって」


 上体を反らした阿笠にあたしはさらに詰め寄ると、阿笠はあたしを避けるようにさらに背中を反り返らせていき――

 ――ぐらっ、と後ろにバランスを崩した。

 倒れる。

 と思った瞬間、


「ふんっ!」


 阿笠は素早く両手を床に突っ張り、ブリッジをした。


「ふは、フハハハハ!! これなら何も見えないぞ! 見えてもせいぜい下乳だ!!」


 山なりに反り返ったお腹をさらした状態で、阿笠は謎に勝ち誇る。

 こいつ……本当にアホだ。


「……ぷはっ! あははは!」


 思わず、吹き出してしまった。

 だって、そこまでする?

 普通に背中を向けるとか、他にも方法はいろいろあったでしょうに。

 

 スケベザルなのは他の男子と一緒だ。

 だけどこいつは……ときどき天才になる、スケベザルだ。


 あたしはブリッジをした阿笠の、顔があるほうに回り、そこにしゃがみ込む。


「いいよ」


逆さまの顔が、驚いたように目を見開かせた。


「許可、やるよ。好きなだけ見な? 別に減るもんでもないし」


 天才スケベザルの根性を、認めてやろう。

 見られるのは相変わらず鬱陶しい。だけどこいつは筋を通した。そこを認めてやることはやぶさかじゃなかった。

 まあ……これ以降、他のやつが同じ許可を求めてきても、全員ぶん殴ってやるけどね。


 阿笠もさぞ喜ぶことだろう。

 ここまで我慢してきた分、堰を切ったようにじろじろ見始めるかもしれない。

 まあしゃがみ込んだ今の体勢だと、膝に遮られて下乳も見えないだろうけど――


「……………………」


 ――なのに、阿笠は、ちっとも胸のほうに目を動かさなかった。

 むしろ、下のほう。

 床の近くで逆さまになった顔の、まっすぐ正面を食い入るように見つめていて――


そこには、わたしの股間があって。

 

「あ!」


 わたしは慌てて膝を床につけて、スカートの中身を隠した。

 ミスった! ミスった!

 胸のことばっかり考えてて、下のほうが……!


 耳が燃えるように熱くなって、何も言えなくなる。

 一方、阿笠は腕に限界が来たのか、ブリッジを崩して床の上に仰向けになった。

 そいつはそのまま、教室の天井をぼーっと見つめて、


「……意外にも清純な白……」


 意外で悪かったなあ!?


「不躾ながら許可を願う。今夜の僕の妄想に、君を出演させても――」

「いいわけあるか!!」

「ごぶっ!?」


 仰向けのお腹にゲンコツを振り下ろした。


 ……と、まあ、こういうアホなきっかけがあって。

 阿笠とは、少しだけ話すようになった。

 って言っても、ノートを取り忘れたときに見せてもらうとか、そんな程度の関係。

 普通に話してる間も、阿笠はあたしが許可を出した通り、ほとんどあたしの胸元を見ていた。


「そんなに見て何が面白いわけ?」

「男の本能だからな。改めて何がと言われても説明が難しい」

「わっかんないなあ……」

「人は自分が持たないものに憧れを抱くものだ。柔らかさはどんなだろうとか、揺れると痛いのかなとか、洗うときはどうするんだろうとか、すべてが僕にとっては未知だ」

「……あんた、そんなにあたしのことばっか考えてんの?」

「出演回数はぶっちぎりのトップだな」

「キモ……」


 人は自分が持たないものに憧れる。

 確かにあたしにはこいつのような素直さはなかった。自分を明け透けにする勇気も、公明正大にこだわる根性もなかった。


 だからなのかな。

 気付いたら、あたしから質問することが増えていて。

 まるで――阿笠のことが、知りたくなってるみたいで。


 正直、認めたくなかった。

 こんなにアホで、スケベで、キモくて、変人で、別にカッコよくもない。

 こんなやつが、あたしの初恋になるかもなんて――認めたくなかった。


 認めたくなかった、けど。


「ではな。今日も素敵だった」

「……うるさい。スケベ」


 会うたびに繰り返される褒め言葉が、いつの間にか嬉しくなってて。

 認めたくなかった。

 だから――口に出すこともできなかった。


 いっそ、こんなプライド、消しゴムで消してしまえればいいのに。




◆◆◆




 わたしは毎朝、午前8時15分発、準急の3車両目に乗る。

 入るのは決まって前の扉。降りたときに駅の出口に近いのは後ろの扉なんだけど、そっちにはあんまり行かない。

 なぜかと言うと、そっちにはいつも、阿笠くんがいるからだ。


 阿笠くん。阿笠紫くん。

 そのクラスメイトが、毎朝わたしと同じ駅から電車に乗って通学していることに気付いたのは、今のクラスになって1週間くらい経った頃だった。


 クラスにおいて存在感を示さないことにおいて定評のあるわたしは、だからもちろん、クラスメイトを覚えるのにもちょっと時間がかかる。

 男子ともなればなおさらだ――だけど阿笠くん、彼のことは、ろくに異性の顔を見ることもできないわたしでも顔を覚えているくらい、クラスの中でも目についていた。


 ちょっと変わってる、というか。

 男子から笑いが起きたと思ったら、大体その中心には彼がいる――だけど、ひょうきんなムードメーカーってわけでもなくて、彼はいつも真剣な顔で、以下のように熱弁を振るっているのだ。


「いいか諸君! エッチな異世界もので満足しているようではまだまだだ。単行本で加筆される乳首も得がたいものだが、まったくエロのない少年漫画からフェチズムを感じてこそ、我々思春期男子のリビドーは健全に育つ! ヒロアカの扉絵から興奮を得てこそ真なるスケベである!!」

「よくぞ言った阿笠!」

「お前はたまに天才になるな!」


 本物の街頭演説よりも喝采を受けている阿笠くんを、女子たちは決まって冷ややかな視線で眺めていた。

 わたしも最初はその1人だった。


 初めて駅でその存在に気付いたとき、彼はその手に文庫本を開き、怜悧な目つきでその文章を追いかけていた。

 タイトルは手がかぶっていてほとんど見えなかったけど、どうにか『~の殺人』と書いてあることだけは読み取れた。

 推理小説かな?

 教室ではあんなバカな話をしてるくせに、そんな頭よさそうなものも読むんだ……。


 その次の日には、表紙に女の子のイラストが描かれた文庫本を読んでいた。

 ライトノベルってやつ?

 ブックカバーもつけずに堂々たる読書っぷり。わたしも可愛いイラストは好きだけど、駅で読むとなったら他の人に見られてるんじゃないかって気になっちゃうかも。

 他の人の目なんか気にならないんだ……。

 意味もなく恥ずかしがらないし、遠慮しない。……その図太さが、わたしには羨ましかった。


 新書、ハードカバー、SF 、純文学。

 阿笠くんが読んでいる本は多岐に渡った。

 教室で同じようにしている姿は見たことがない。通学しているときだけの習慣なのかもしれない。


 いつも教室で彼と一緒に騒いでいる男子たちは、知っているのだろうか?

 本に目を落としているときの彼の横顔が、こんなにも知性に満ちていることを。


 いつも彼に冷ややかな視線を浴びせている女子たちは、知っているのだろうか?

 ひとときとページからそらすことのない彼の目が、早朝の湖のように澄み切っていることを。


 駅のホームで列に並び、電車を待つ。

 左に目をやり、阿笠くんを見る。


 開いたドアをくぐり抜け、空いた席に座る。

 閉まったドアに背中を預けた、阿笠くんを見る。


 いつしか、それが当たり前になっていて。

 いつしか、それが楽しみになっていて。


 毎朝、8時15分に、同じ車両の反対側にいる。

 ただそれだけのことなのに――わたしの恋は始まってしまっていた。


 無益なことだと我ながら思う。

 だってわたしは、彼と一言だって話したことがない。

 ただ一方的に、電車の中で読書をしているのを勝手に盗み見ていただけで……それで、この気持ちが報われるなんて、そんなの妄想でだって都合が良すぎる。


 彼とどうこうなろうなんて思えなかった。

 ありとあらゆる人間関係に対して後ろ向きなわたしにとって、毎朝ちょっとした楽しみができる……それだけでも充分に幸せなことだった。


 たとえ彼に、名前すら覚えられていなかったとしても。

 電車に揺られるほんの数十分、この暖かな気持ちが味わえるだけで、それで……。


「――生亀さん?」


 不意に、名前を呼ばれた。

 わたしはハッとして、自分が居眠りしていたことに気付いた。

 そうだ、昨日ちょっと夜更かししたから、ついうつらうつらと……。

 そして顔を上げて、わたしの名前を呼んだその人を見上げたとき、わたしの眠気は全部吹っ飛んだ。


「駅、着いたぞ。降りないと」


 阿笠くんが。

 わたしの前に立っていて、わたしを起こして――わたしを呼んで。


「どうした? 体調でも悪いのか?」


 阿笠くんが訝しそうに首をかしげたので、わたしは慌てて立ち上がった。


「だ、大丈夫ですっ! 降ります降ります……!」

「それだったらいいが」


 わたしは、今にも閉まりそうだったドアから急いでホームに降りる。

 阿笠くんと一緒に。

 そのまま階段を上って改札に向かう。目的地が同じだから、阿笠くんもわたしの隣を歩いた。


 会話がない。

 ど、どうしよう、どうしよう……! 何か喋らなきゃ……あ、そうだ、まだお礼言ってない!


「お……お、起こしてくれて……あ、ありがとう、ございました……」


 詰まりまくったけど、どうにか最後まで言うことができた。

 でもきっと、これが最後の会話になるんだろうな……。会話とも言えないけど。

 そんなわたしの予想を、阿笠くんは裏切ってくる。


「なんで敬語なんだ?」

「えっ?」

「クラスメイトだろう。年上でもないのに」

「え、あ、そ、それは、えっと……」


 わたしはテンパりにテンパった末に、


「わたしのことを……し、知ってたんですか?」


 盛大に話を脱線させた。

 あー! 今そういう話じゃないでしょ!? 頭の中にあったものがこんがらがって口から!


 でも、だって、意外だったのだ――わたしは本当に存在感のない日陰者だし、同じ美術部の加賀さんが話しかけてくれるおかげでギリギリ立場を保っている添え物だし。

 阿笠くんが、わたしの名前を認知しているなんて――思わなかった。


「それは……」


 わたしのあまりにも的外れな質問返しに、阿笠くんはすっと目をそらした。

 まるで……恥ずかしがっているみたいに。


「……毎朝、同じ車両に乗っているクラスメイトの女子がいたら……少しくらい、気になってしまうものだろう……」


 え?

 気になる?

 わたしが?

 こんなわたしが?


 わたしだけじゃ――なかったんだ。

 気になってたのは、わたしだけじゃ――


「いや、すまん! 別にじろじろ盗み見ていたわけじゃないんだ、信じてくれ……。思春期の自意識がなせる技で、近い空間に知ってる女子がいると意識してしまうというか……とにかく気にしないでくれ!」


 そう言って、阿笠くんは足早に改札を抜けていった。

 その背中を見送りながら、わたしの胸には言葉がぶすぶすと燻っていた。


 ――『わたしもだよ』って、言いたかった。

 ――『わたしもずっと気になってたよ』って、言いたかった。

 

 だけど、わたしの口は、結局何もまともに言葉を作らないまま。

 阿笠くんの背中は、人混みの向こうに消えてしまった。


 期待、してもいいのかな。

 こんなわたしでも、何かあるかもしれないって、思ってもいいのかな。

 毎朝のささやかな楽しみだけで、満足しなくてもいいのかな。


 そこから、自分で一歩を踏み出す勇気は、今のわたしにはなかった。

 だから、頼るしかなかった。

 子供っぽい願掛けでしかなくても。


 あのとき言いたかった言葉を、言えますように――って。




◆◆◆




 絵を描くのが好き。

 何かを作るのが好き。

 何かを作っている人を見るのも、すっごく好き。


 だから、阿笠くんみたいな変人が何かを作るとしたらどんなのだろう……って、前々から気になっていた。


「あれー? まだ誰かいると思ったら、阿笠くんだ」


 なんて言って。

 まるで工芸室の中を覗いて初めてその存在に気付いたみたいに言ったけど、本当はその30秒くらい前から阿笠くんだってわかってた。

 じゃなきゃ、作業に没頭してる人に話しかけたりしない。

 

 後ろ姿を見て、阿笠くんが何か作ってるって気付いて、その内容が気になって。

 だけど邪魔するのも悪い気がして、扉の前で息を潜めて、声をかけるか迷って。

 結局、興味に勝てなかった。


 絵でもなんでも、人の作った物っていうのは、その人の人柄みたいなものが出る、と私は思っている。

 全然喋らなくて、何を考えているかよくわからない人でも、作ったものを見たら『いろんなこと考えてるんだな』とか『意外と優しいところあるんだな』とか、そういうことがわかってくる。


 同じクラスの志奈子ちゃんがまさにそうだ。

 教室では全然喋らないけど、絵からは意外とひねくれてるところとか、気にしいなところとかが滲み出てて面白い。遠慮して上手く表に出せないんだろうけど、そういうところをもっとみんなに知ってもらえば、友達もいっぱいできるのになって思う。


 その点で言うと、阿笠くんは人柄が表に出過ぎているくらいだ。

 いつも教室でなんだかおバカな演説をしているし、思ったことが素直に口から出ちゃうタイプというか――見ていて清々しい気持ちになってくるタイプ。


 でも、そういう変わった言動が阿笠くんのすべてなのかな?

 変人っていうキャラクターの裏に、本当の阿笠くんが隠れてるんじゃないのかな……?

 それがもしかすると、彼の作ったものに滲み出てるんじゃないかな?


 そう思うと、もう我慢してはいられないのだった。


「居残り?」


 なんて、白々しく言いながら、私は阿笠くんの手元を覗き込んだ。

 レリーフ……? かな?

 分厚い木の板に、なんだかよくわからない複雑な模様が彫り込まれている。

 人の顔……? のようにも見えるし、馬……? のようにも見えた。


「工芸の授業ってこんなの作ってるんだ。これ何?」


 と尋ねると、阿笠くんは彫刻刀を動かしながら、


「ん……加賀さんに話すのはちょっと憚られるが……」


 どこか奥歯に物が挟まったような言い方で話し出す。


「以前……体育の時間で、ちょっとした事件が起こってな……。詳細は省くが……宮田くんに人としての成長の機会が訪れたというか……友人として言祝ぐべき出来事があったのだが……」

「ふーん?」


 なんのこっちゃって感じだったけど、本当に言いにくそうだったので、とりあえず相槌を打っておいた。


「彼がそのとき流した涙を見て、僕は人としてのあるべき姿に想いを馳せざるを得なかった……。インターネットが流し込んでくる情報によって、自分がどれだけ汚れているかを理解したんだ……。だからあの涙の輝き、純粋さを、忘れないうちに形に残しておこうと思ってな……」

「要するに、宮田くんの泣き顔を彫ってるってこと?」

「そういうことになる。馬みたいな顔で泣いていたから馬っぽくしてみた」

「あは! なにそれ!」


 友達の泣き顔を作品にするなんておかしくて、私は思わず笑った。

 からかってやろうと思って作ってるならともかく、彫刻刀をゴリゴリと動かす阿笠くんの顔は真剣そのものなんだから、なおさらおかしい。

 この人はたぶん、本当にこのレリーフが世界にとって意味を持つと信じて、宮田くんの顔を彫っているんだ。


 やっぱり変な人は作るものも変だ。

 私は普通だから、変なものを作れる人に憧れる部分もあるけれど、そこは別ジャンル。

 何よりも、自分では逆立ちしても作れないものが生み出されていく光景に、面白さを感じずにはいられなかった。


 だけど阿笠くんの手つきはたどたどしくて、危なっかしくて、結局口どころか手まで出しちゃった。

 彫刻刀を渡してもらった瞬間、ほんの少しだけ指が触れ合ったけど、阿笠くんの指は男子のものとは思えないくらい細かった――そのことが、なぜだか強く印象に残った。


 それ以来、彼の姿をなんとなく目で追いかけるようになった。

 別にわざわざ見なくても、勝手に目立って勝手に目に入ってくる人ではあるんだけど、私が見てしまうのはむしろそういう、人の輪の中心にいるときじゃなくて、そこから外れて静かにしている、背景の中の阿笠くんだった。


 レリーフを彫っているときの阿笠くんが、ほとんど喋らず黙々と作業をしていたように。

 目立っていないときにこそ、その人の本当のところが出てるんじゃないかって、そんな気がして。


 たぶん、阿笠紫という人は、いつだって真剣なんだろう。

 妙な演説をしてみんなを笑わせているときも、別にふざけているわけじゃない。言葉自体はきっと真実で、適当なことを言っているつもりは少しもないに違いない。


 だから、他の男子が黒板消しをドアに挟んで罠にするなんてくだらないことをして遊んでいるときも、そこに加わろうとはしなかった。

 彼にとってそれは、真剣な情熱を傾けるに足るものじゃなかったからだ。

 ただ人に迷惑をかけるだけの遊びになんて興味はないのだ。

 彼がその熱弁を振るうのは、人間の本当のところを導きだそうとするとき――つまり、わたしが芸術から見出そうとしているものと同じものを求めたとき、それだけなのだ。


 これも、わたしの勝手な解釈に過ぎないけど。

 でも、そうだったらいいなって思う。

 そうだったら、私は――

 ――まあ、うん。そこそこ、嬉しいかな?


 もし友達にこの話をしたら、『阿笠のことが好きなの?』なんて、ちょっと引き気味に言われてしまうかもしれない。

 私はまだ、恋っていうのがよくわからない。だからもしかすると、折に触れて気になってしまうこのそわそわした気持ちが、それなのかもしれない。


 だとしたら、私はどうするのかな。

 いくら絵を描いてみたって、自分の本当のところを理解することは、できそうになかった。

 小学生の頃にちらっと聞いた、消しゴムに好きな人の名前を書いて――みたいな、乙女なおまじないに頼ったりして?


 ……いや、ないか。

 今更そんなことしても、消しゴム使い切る前に卒業しちゃうし。

 中学生にもなって、そんな可愛いことをするとしたら、それは私よりも――


「――おーい! もう校門閉まるよー!」


 部活の終わり際、まだキャンバスの前に座っているその子に声をかけると、その子は慌てたように振り返った。


「す、すみません……。すぐに片付けます……」


 消え入りそうな声でそう言って。

 その子は――


 生亀志奈子ちゃんは。


 ――鉛筆画のキャンバスにカバーをかけ。

 すべての角が丸くなった消しゴムを、ポーチの中にしまった。




◆◆◆




 最大のキーは、僕の名前が書かれたあの消しゴムの、使い方にある。

 カバーが短く切り詰められ、すべての角が丸くなったあの消しゴム。


 普通にノートを取るのに使っているのだとすれば、そんな加工は必要がないはずだ。すべての角が丸くなっている――そこまではわかるものの、わざわざ両側の角を使いやすいようにカバーを短く切り詰める、なんてことは普通しない。

 しかもカバーを短くすることによって、僕の名前を書いているのがバレやすくなってしまうし、そもそも名前を書くスペースもかなり狭まってしまっている。


 あの消しゴムは、ノートを取るために使っているものではないのだ。

 角を優先的に使わなければならないほど、繊細な作業に使っているものなのだ。

 例えば――そう。


 鉛筆画とか。


 鉛筆画であれば、消しゴムの角を使って細かく線を消せば、そこに光が差し込んでいるという表現ができたりする。その他、細かい修正には角を使わなければならないし、角の消耗だけが早くなる理由は充分にある。

 もちろん、両側の角を使いやすくしておく必要も。


 あの消しゴムは普通の授業で使われていたのではない。

 絵を描くのに使われていたのだ。

 となると、その持ち主の属性は大きく絞られる。

 すなわち――


 ――美術の授業を選択しているか。

 ――美術部に所属しているか。


 僕が妄想で適当に想定した容疑者たち――加賀さん、七海さん、生亀さんの3人は全員美術選択。加賀さんと生亀さんに至っては美術部にも所属している。これだけではまだ容疑者は絞れない。

 しかし。

 消しゴムが美術の授業または美術部の活動で使用されている、とわかったことによって、前提が大きく変わった。


 消しゴムはいつ床に落ちたのか、という前提が。


 僕はこれまで、消しゴムを拾ったのは昼休みの初めだから、それが床に落ちたのはその直前の4時間目が終わってからだろう、と思っていた。

 でないと、4時間目の授業で消しゴムがないのに本人が気付いたはずだからだ。

 しかし、普通の授業で使っていないことが判明した今、4時間目の授業で消しゴムの不在に気付いたはずだとは言い切れなくなった。


 例えば、その前の、3時間目の終わりに落としたとしても。

 ――芸術選択の授業の後に落としたとしても。

 4時間目では使わないんだから、落としたことに気付くはずがない。


 そう、消しゴムが落とされたのは、3時間目の芸術選択の授業――美術の授業の終わり。美術室から教室に帰ってきたときだ。

 そしてそのとき、教室では特筆すべきイベントが起こっていた。

 早めに教室に帰ってきた工芸選択の男子がふざけて、黒板消しを教室の前側の扉に挟む、というイベントが。


 再確認するが、消しゴムは教室の前側の扉の近くに落ちていた。

 ということは必然、持ち主は前側の扉から教室に入ってきたことになる。

 


 後から来た美術選択の生徒たちのほとんどは、そのトラップをすぐに見抜いて後ろ側の扉に回って教室に入った。

 ゆえに、前側の扉を使って教室に入ってきた可能性のある美術選択の生徒は、たった3人しかいない。


 落ちてきた黒板消しを堂々と受け止めてみせた七海さん。

 そして、黒板消しが設置される前に教室に帰ってきていた、加賀さんと生亀さん。


 奇しくも、僕が勝手に『ワンチャンあるんじゃないか?』と妄想していた3人だった。

 僕の自意識もなかなか捨てたものではない。


 さて、ここからさらに容疑者を絞り込むには、消しゴムの持ち主が満たしているべき条件を追加しなければならない。

 すなわち、『教室前側の扉を通過したとき、消しゴムを所持していた』という条件を。


 加賀さんと生亀さんについては、教室に入ってきた瞬間を目撃していないので何とも言えない。

 しかし七海さんは違う。

 僕は彼女が教室に入ってくるシーンを明確に目撃していた。


 彼女はドアを開けた瞬間、右手を上に上げて落ちてきた黒板消しをキャッチした。

 それからトラップを仕掛けた男子の肩をつかみ、キャッチした黒板消しを顔面に叩きつけた。


 ――肩をつかみ、キャッチした黒板消しを顔面に叩きつけた。


 ここだ。ここが重要だ。

 なぜなら、肩をつかみながら黒板消しを顔面に叩きつけるには、両手を使う必要があるからだ。


 ここで両手を使っている以上、彼女はその手にペンケースなどを持っていなかったことになる。


 彼女がそのとき消しゴムを持っていたとしたら、ペンケースではなくポケットに入れていたことになるだろう。

 しかし――再び確認だ。

 女子のスカートにはポケットがない。そして今は夏場だから、誰もブレザーを着ていない。

 使えるポケットは、薄っぺらいブラウスの右胸にあるもののみ。


 つまり、七海さんが消しゴムを持っていたとしたら、ブラウスの胸ポケットに入れていたと考える他にないのだ。


 何度も言ったように、七海梨華は中学生離れしたスタイルの持ち主であり、特にその爆乳は制服をぱっつんぱっつんにしてしまうほどだ。

 そんな彼女が薄っぺらいブラウスの胸ポケットなんかに消しゴムを入れていたら、まるで乳首みたいに浮かび上がってしまう。

 それだけでも目立つのに、そこから消しゴムがこぼれ落ちた? 誰にも気付かれずに?

 ありえないことだ。


 彼女の胸は、1秒たりとも余すことなく、男子の視線にさらされているのだから。


 衆人環視の密室ならぬ、ドスケベ環視の密胸である。

 彼女の胸が常に男子の目によって見張られている以上、そこから消しゴムが誰にも気付かれずにこぼれ落ちたなんてことはありえないのだ。




 よって、七海梨華は消しゴムの持ち主ではない。




 ……持ち主では、ない……。

 ぐうう……あのおっぱいに触ってみたかった……!


 気を取り直して、これで容疑者が1人減った。

 残りは2人。

 加賀甘菜と生亀志奈子――


 ここで僕が注目したのは、最も明白な手がかりだった。

 すなわち、消しゴムに刻まれた僕の名前だ。

 竹冠の1画目、左下に払う部分が、何かにせき止められたかのように途切れている――


 ――もしかして、左手の指で消しゴムを押さえていて、それにペンがぶつかったんじゃないか?


 それがわかれば、もはや答えは決まったようなものだ。

 非常にシンプル。

 この手掛かりはこう語っている。


 消しゴムの持ち主は、右利きだと。


 思い出してみよう。

 加賀さんが工芸室で居残りをしていた僕から彫刻刀を受け取ったとき、どっちの手を差し出したか?




 ――ねえねえ、ちょっと貸して?


 ――とうとう口だけでは我慢できなくなったのか、加賀さんはを差し出してくる

 ――美少女にそう言われて断る僕ではない。僕が素直に彼女のに彫刻刀を渡すと、加賀さんはそのままで木材を彫り始めた




 

よって、加賀甘菜は消しゴムの持ち主ではない。


……持ち主では、ない……。

 ううう……あんなに親しげに話しかけてくれたのに……。

 

 とにかく、これで残るは1人――

 彼女が右利きかどうかは定かではないが、他の可能性が残らず消去された以上は、もはやそれしかありえなかった。


 あとはこっそりと彼女の机にでも消しゴムを戻すだけ。

 そしてのんびりと彼女が消しゴムを使い切るのを待ち――


 ……………………。


 ――本当に、それでいいのだろうか?




◆◆◆




「……よし」


 美術用のポーチを忘れないようにバックにしまうと、わたしは待ってくれていた加賀さんと一緒に美術室を出た。

 加賀さんが鍵を閉めて、その鍵を職員室に返しに行くのを、黙って後ろから見届ける。加賀さんは簡単に職員室に入れてすごいなあ。わたしは緊張しちゃって全然入れない……。


「お待たせ。帰ろ?」

「うん……」


 加賀さんはクラスメイトで同じ部活だからって、毎日わたしと一緒に帰ってくれる。わたしはろくな会話もできないのに、『その静かな雰囲気がいいんだよ』なんて言って、楽しそうに。

 ……いいなあ。

 加賀さんみたいに積極的に人と関われる人間だったら、今頃阿笠くんとも仲良くなってたのかな。

 こんなおまじないなんかに頼る必要もなかったのかな……。


「志奈子ちゃんさ、鉛筆画に普通の消しゴム使ってるよね?」

「えっ? う、うん……」


 あまりにいいタイミングで消しゴムの話を出されたから、挙動不審になってしまった。

 あれ? え? も、もしかして、バレた……?


「練り消し使えばいいのに。そのほうが便利じゃない?」

「いや、うん、まあ……そう、なんだけど……」


 ちょっとだけほっとした。どうもそういう雰囲気じゃない。

 5時間目、お昼休みが終わった後に、机の物入れの手前のほうにあの消しゴムがあったのを見たときには、もしかして気付かないうちにどこかに落として誰かに拾われたんじゃないかって、肝を冷やした。

 もしあの名前を誰かに見られてたら――わたし自身、おまじないなんて眉唾だって思ってるはずなのに、立ち直れなかったかもしれない。


 わたしには、好きな人に積極的に話しかけていく勇気なんかない。

 消しゴムに名前を書く――そんな自己満足みたいな行動が精一杯。

 それだって最後までできるとは限らない。消しゴムなんて、使い切る前に替えるか失くすかしてしまうものだし、卒業まで使い続けたとしても使い切れるとは限らない。そう思って、せめて減りが速くなるように絵のほうで使ってるけど、まだまだ先は遠い。


 だけど……。

 阿笠くんの名前が入っているものと一緒に、毎日キャンバスに向かう。

 それは思ってたよりも……勇気づけられることで。

 何もしていないも同然なのに……ちょっとずつ、彼に近づけているような気がして。


「……あの消しゴムのほうが……やる気出るの。もっと頑張らなきゃって……そんな気持ちになるの」


 わたしは人よりもできることが少ない。

 1人じゃ職員室に入れないし、会話もまともにつなげられないし。

 だったら、せめて絵くらい……好きでやっていることくらい……頑張らないと。

 人を好きになる資格すらないような、そんな気がする……。


「そっかぁ……。思い出の品? みたいな?」

「まあ、その……」

「あ、わかった! 好きな人にもらったんでしょ!」

「えっ!? 違う、違う……!」


 わたしがぶんぶんと首を横に振ると、加賀さんは「そっかぁ」と残念そうに言った。


「最近の志奈子ちゃんの絵見ててね? ちょっと前向きになったなー、好きな人でもできたのかなーって思ってたんだけど」

「……好きな人ができると、前向きになるの?」

「どうもそうらしいよ? 私はあんま自覚ないけど……」

「え?」

「あ、いや、今のなしなし。聞かなかったことにして?」


 そう言って、加賀さんは恥ずかしそうにはにかむ。

 その表情は、ドキッとするくらい可愛くて――え? もしかして……。


「――あ! もう駅じゃん。じゃあ私はこの辺で! また明日ねー!」


 いつの間にか駅に着いていて、徒歩通学の加賀さんは逃げるように去っていった。

 ……あの加賀さんでも……好きになる男の子がいるんだ。

 なんていうか、今更だけど……中学生って感じがした。


 わたしは駅に入り、一度階段を上がって改札を抜け、それから階段を下ってホームに出る。

 どこまでも続いているように見える長いホームは、夕焼けの光で寂しげに照らされている。4つつながった待合用の青い椅子に、夕日が水たまりみたいにたまっているように見えた。


 その一つに。

 見覚えのある、制服の男の子が座っていた。


「え……」


 思わず声が漏れる。

 阿笠くんが、4つの椅子の一番奥に座って、向かい側のホームを見つめていた。


 学校帰りに阿笠くんの姿を見たことはない。

 部活、やってないはずだし……。

 この辺で友達と遊んでて、帰るのが遅くなったとか……? それでたまたま、わたしと帰る時間がかぶった?


 そ……そんなこと、あるんだ。

 おまじないの効果だったりして……なんて、ないない。


 それよりも問題なのは、今、わたしの身の処し方だった。

 このままホームの入り口で突っ立っているわけにもいかないし、だからって阿笠くんがいる待合椅子をスルーして奥の椅子まで行くのはなんだか感じ悪いし……。

 あれ? もしかして、同じところに座るしかない?

 わたしにはあまりにもハードルの高いことだったけど……それが一番自然だって言うなら……そうするしかなかった。


 わたしは、まるで阿笠くんのことなんか全然気付いてませんよーという顔をして、恐る恐る、彼の三つ隣に腰を下ろす。

 それから、そっと横を覗き見ると、2人分の空白の向こう側に、夕日に照らされた阿笠くんの横顔があった。


 ……こんなに近くにいるの……電車で居眠りしちゃったときぶり……。

 こうしてきちんと横顔を見ると、顔も意外とカッコいいなって思う。

 鼻がすっきりと通っていて、目はちょっと切れ長で……。

 補正入ってるかな? 好きな人の顔はカッコよく見えちゃうものなのかな?


 そんなことを意味もなくぐるぐると考えているうちに、鼓動がドキドキと早まっていった。

 ただ黙って、1メートルくらい横に座っているだけなのに、その沈黙が幸せで。

 こんなことがわたしなんかにあっていいのかなって……不安になるくらい。


 だから、思ってなかった。

 これ以上のことが起こるなんて……思ってなかった。


「生亀さん」


 急に呼ばれて、ビクッと身体がはねた。

 阿笠くんが、ゆっくりとこっちに顔を向けた。


「美術部、だったかな」


 わたしのこと……気付いてたんだ。

 そ、そりゃそうだよね? 一応クラスメイトなんだし……毎朝同じ電車に乗ってるんだし。

 なのに黙ってて変なやつだなって思われなかったかな? ああ、どうしよどうしよ……! こんなことなら自分から話しかければよかった……! そんなことできっこないけど……。

 と、とにかく質問に答えないと!


「そ、そうです……」

「こんな時間まで活動しているんだな」

「えっと、まあ、その、絵を描くのには時間がかかるので……」

「その絵って、どうやったら見れるんだ?」


 え?

 阿笠くん、わたしの絵、見たいの……?

 いやいや、早とちり早とちり。加賀さんのが見たくて、同じ美術部のわたしに聞いてるだけかもしれないし……。


「賞を取った作品とかは……たまに、校舎の入り口とかに、展示されてます……けど……」

「それ以外の作品は?」

「いくつかは……美術室に」

「ふうん……」


 な……何だったんだろ。

 阿笠くん、絵に興味あるのかな?

 阿笠くんみたいな人が絵を描いたらどんなのができるのか、ちょっと――ううん、かなり興味はあるけど……。


 阿笠くんはまた顔を向かいのホームに戻す。

 その顔は何か、難しいことを考えているように見えた。


「……僕は……」


 そして、わたしには横顔を向けたまま。

 阿笠くんは、唐突に話を始める。


「僕は……考えることは得意だし、それを口にするのも得意だが……それはおそらく、世界を少しでも変えてみたいという出所不明の欲求からだ」

「…………?」


 今度は急に自分語り。

 本当に掴みどころがない。だけどわたしは黙って聞いた。


「そう思っていた……。だけど、違ったのかもしれない。本当に何かを変えてみたいなら、何かしら行動を起こしていたはずだ……。どれだけ教室で演説をしても、何もしないなら意味はない……。僕は何かを変えたいのではなく……何かに変えてもらうのを待っていたんだ」


 何かに変えてもらうのを……待っていた。

 わたしが、話しかけるでもなく、通学電車の中で阿笠くんを見ていたように。

 消しゴムのおまじないに頼ったように。


「それに気付いて、思い直した……。些細なきっかけでいい。大きな変革は必要なかった……。ある日突然、許嫁ができるとか、義理の妹ができるとか、そんな大きなイベントを待つ必要はなかったんだ。ほんの些細な――消しゴム一つ分程度のきっかけでも、自分が何かをすれば、それだけで変えることができるんだ」


 ――消しゴム?

 突然出てきた言葉に、わたしの頭は真っ白になった。

 なんで? 今? 消しゴムって?


 まさか。


 わたしの混乱をあざ笑うかのように、ホームの果てから電車がやってくる。

 その巨体が起こす風がわたしの周りを吹き抜けていき、そして灰色の車体は、ちょうどわたしたちの前に扉を置いた。


 扉が開く。

 家に帰るための。

 次の駅に行くための。


 阿笠くんが、椅子から立ち上がった。


「生亀さん」


 開いた扉の前で振り返り、阿笠くんは、他ならぬわたしに言う。


「行こう」


 わたしは。

 わたしは――


「――うん」


 椅子から立ち上がって、電車に乗った。

 阿笠くんと一緒に。

 同じ扉から。


 消しゴム一つ分の勇気を持って。

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このクラスには、僕に恋した女子がいる 紙城境介 @kamishiro

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