このクラスには、僕に恋した女子がいる
紙城境介
出題篇:このクラスには、僕に恋した女子がいる
僕は、信じがたいものを目にした。
聞けばきっと誰もが笑うだろう。また自意識過剰な妄想を語っていると嘲りを受けるかもしれない。それでも今、それは確かに、僕の手の中に実在していた。
消しゴムである。
何の変哲もない、青と黒のカバーがついた直方体のあれである――いや、カバーがついた、という表現は正確じゃない。カバーがついていた、という表現のほうが正確だ。
そのカバーは、ついさっき、僕自身が取ってしまったから。
カバーのついていない消しゴムというものは、どうも裸にひんかれているような印象があって、見ていると恥ずかしい気持ちになってくるのは僕だけだろうか。
僕だけじゃないとすればその消しゴムは、銭湯の利用を禁止されていることだろう――見間違いようのない大きなタトゥーが、その白い肌に刻まれているからだ。
人体で言えばちょうどお腹のところ。長辺に対して垂直に『阿笠』と大きく書かれ、その右下に小さく『紫』と書いてあった。きっとスペースが足りなくなったんだろう。
阿笠紫とは、ちょっと珍しいが、僕の名前である。
両親には下の名前で紫と呼ばれるが、別に髪の毛を紫に染めていたりはしない。いたって平凡で健康的な中学2年生である。
その僕の名前が、どうして消しゴムに刻まれているのか?
しかも、クラスの教室の前側の扉のそばでたまたま拾った、見ず知らずの消しゴムに。
その謎の答えは、一つでしかありえなかった。
有名なおまじないだ。
好きな人の名前を消しゴムに書いて誰にもバレずに使い切れたら、その想いは成就する――
そう。
まさに信じがたい答えである。
この消しゴムの持ち主は、僕に想いを寄せている!
中学2年。思春期という言葉が脳内の辞書に載って、恋愛という概念がいよいよ現実味を帯びてきたこの時分、まさかこの僕にそのような相手が現れるとは、予想だにしていなかった。
せいぜい妄想が限界だった。
しかしながら、今、僕の手の中にあるこの消しゴムも、その肌に刻まれた僕の名前も現実のものである。
このクラスには、僕に恋した女子がいる!
……本当に女子か?
いや、ひとまずそういうことにしておこう。なぜなら僕は女の子が好きだから。
そう思うと、すべての角が丸みを帯びて、安全性に配慮された子供用のおもちゃみたいになったこの消しゴムも、どこがかわいらしく思えてくる。
……誰だ?
誰がこの消しゴムの持ち主なんだ?
僕は自分の席から教室を見回す。
昼休みの教室は喧騒に包まれていて、各所でグループを作った生徒たちが雑談に興じている。小学校の頃、一世を風靡したドッジボールや氷鬼はついにブームが終わってしまったと見えて、教室には半分以上の生徒が残っていた。
この中に……いる。
密かに僕に想いを募らせている女の子が。
僕に抱きしめられたり、チューされたりしても怒らない女の子が!
しかもその想いを表に出せず、こうしておまじないに頼っているのだ。なんていじらしい――
――ん? 待てよ?
消しゴムのおまじないは、『誰にもバレずに使い切る』が条件だったはずだ。
だとしたら……僕にバレてしまったこの時点で、もう無効になっているのでは?
……………………。
いや、あきらめるのはまだ早い!
おまじないなんて要は心の持ちようだ。超自然的な力が実際に働くわけじゃない。もしこのおまじないが成功したら、そのことが見知らぬ彼女の背中を押して、僕に現実でアプローチをしてくるかもしれない。
あるいは。
消しゴムを使い切った頃を見越して、僕のほうから接触を測れば――
――おお! まるでおまじないが効力を発揮したかのようではないか!
友人からは常々、『お前ってときどき天才だよな』という評価を頂戴する僕だが、このアイデアには我ながら花丸をあげたかった。
つまり、僕が気付いたということさえバレなければ。
拾ったこの消しゴムを、秘密裏に持ち主に返すことができれば。
もはや僕には、人生初の彼女ができたも同然というわけだ!
なんてことだ。
これは慎重に事を進めなければならないぞ。
消しゴムの持ち主は、まだこの消しゴムを落としたことに気付いていないかもしれない。
僕がこの消しゴムを、教室の前側の扉のそばで拾ったのは昼休みの初め頃――
その直前の4時間目には移動教室があった。きっと持ち主はペンケース、または制服の胸ポケットに消しゴムを入れていて、移動教室から帰ってきた際に扉のそばで落としてしまったのだろう。
制服の胸ポケットと限定できるのは、女子のスカートにはポケットがなく、夏場のため誰もブレザーを着ていないからだ。この状態だとポケットはブラウスの右胸のところについているやつだけである。まったく不便な話だ。
つまり何が言いたいのかというと、消しゴムの持ち主はまだ1回も消しゴムを使おうとしていないはずだということだ。
しかし、5時間目の授業が始まり、一度でも板書で書き損じをすれば、すぐに消しゴムの紛失に気付くだろう。
その前に返却するのだ。
本人にバレることなく――消しゴムの持ち主を特定して!
さて……容疑者は誰だ?
僕への恋心を募らせていそうな女子は誰がいる?
この教室で見つかった以上、このクラスの女子なのは間違いないと思う。昼休みだから別のクラスの生徒が出入りすることもあるが、消しゴムを持参することまあそんなにあることじゃない。
このクラスの女子で――僕のことが好きな子?
……
僕は窓際の前のほうの席で友達と談笑している、サイドテールの女子を見やる。
加賀さんは我がクラスのムードメーカーの1人で、文武両道にして品行方正、そして才色兼備――絵に描いたような優等生だ。
男女分け隔てなく誰に対してもフレンドリーで、僕も肩に触られたり肩に触られたり、あと肩に触られたりしたことが何度もある。
部活は美術部だったか。快活な雰囲気で運動も得意なのに、熱中しているのは文化系っていうところに品を感じる。
加賀さんといえば、しばらく前にこんなことがあった。
僕といえば泣く子も黙る帰宅部として学校中に名を馳せているが、たまには放課後の学校に居残ることもある。その日は工芸の授業の課題がまるで終わる気配を見せないので、泣きたくなる気持ちをこらえながら学校で終わらせることにしたのだ。
夕暮れに染まる工芸室で、黙々と彫刻刀が木材を削る音を響かせていたそのとき――
「あれー?」
という声が、出し抜けに僕の耳朶を打ったのだ。
「まだ誰かいると思ったら、阿笠くんだ」
振り返ると、入り口の引き戸に手をかけた加賀さんが、少し驚いたような顔で僕のほうを見ていた。
「居残り?」
そう聞きながら、彼女は工芸室の中に入ってきて、僕の手元を覗き込む。
絵の具の匂いがした。
もうずっと木材の匂いばかり嗅いでいたので、まるで爽やかな風が吹き込んできたような、そんな気持ちになった。
「工芸の授業ってこんなの作ってるんだ。これ何?」
僕が提出期限ギリギリに考案したモチーフについて語ると、加賀さんは「あは! なにそれ!」と笑ってくれた。
それから加賀さんは僕の正面の席に座って、僕の作業を見物し始めた。
僕たちの中学では芸術科目が一部選択制になっていて、工芸か美術を選ぶことになる。美術部である加賀さんは当然美術選択なので、選ばなかった工芸に興味があったのかもしれない。
加賀さんはしばらく黙って見学していたけど、やがて口を出してくるようになった。
「阿笠くんって不器用? なんか彫り跡ガタガタじゃない?」
「うわっ、こわっ! 怪我するよ? そんな彫刻刀の使い方!」
「ねえねえ、ちょっと貸して?」
とうとう口だけでは我慢できなくなったのか、加賀さんは左手を差し出してくる。
美少女にそう言われて断る僕ではない。僕が素直に彼女の左手に彫刻刀を渡すと、加賀さんはそのまま左手で木材を彫り始めた。
「こうやって木目に沿って――ほら、やっぱりこっちのほうが彫りやすい」
芸術センスのなせる技なのか、加賀さんは授業を受けていないはずなのに、僕よりも工芸の授業の内容を理解していた。
そして結局、残りの半分くらいは加賀さんが彫って、さらに半分は加賀さんの授業を受けながら僕が彫ることになった。
今にして思うと――いくら興味分野のこととはいえ、あんなにも親切に接してくれたのはどうしてだろう。
僕のことが好きなのでは?
そう考えると辻褄が合う。
ではやっぱり、消しゴムの持ち主は加賀さんなのだろうか?
いや、早とちりは禁物だ。消しゴムを返す相手を間違えてしまったら、その時点でおまじないも無効になったと本人は思ってしまうかもしれない。
他に候補はいないだろうか?
そう考えながら教室を見回すと、1人の女子が目についた。
……
僕は後ろのほうの席であくびをしながらスマホをいじっている、ツーサイドアップの女子に振り返った。
七海さんを知らぬものは男子の中にはいない。その理由はもちろん、彼女が誇る大人顔負けのスタイルにある。
夏服のブラウスからあふれ出しそうな大きな胸、スカートから伸びるムチムチの太もも、そのすべてが中学生――どころか10代女子の域にはなく、もはや犯罪的だとさえ言っていい。
特に薄っぺらい夏服をぱっつんぱっつんに張り詰めさせているその爆乳は、男子の視線を1秒たりとも余すことなく集め続けている。
『中学男子で最もピュアな男』の異名を取る僕の友達・宮田くんが、彼女の体操服姿を見た瞬間、股間がとんでもないことになって泣き始めてしまったのはあまりにも有名だ(僕たちの中で)。
そんな罪な七海さんだが、ちょっとキツそうな顔つきのわりに、実は意外と優しいところがある。
ちょうど今日も、3時間目の芸術選択授業の終わりに、一部の男子が教室の前のドアに黒板消しを挟む、という今日日あんまり見ないような古典的なトラップを仕掛けて遊んでいたんだが――休み時間の終わり際に帰ってきた七海さんが、そのドアを開けてしまった。
黒板消しが落下を始め、七海さんの綺麗な髪がチョークで汚れてしまう! と思ったのも束の間、彼女は右手を上に上げて黒板消しをキャッチした。
そして、
「やめろ」
と、にやにやしていた男子の肩をつかみ、そのまま顔面に黒板消しを叩き込んだのだ。
それから、彼女は「もし角が当たったら怪我するだろ」と尤もな注意をした。他の人を慮って、身を挺してトラップを解除したのだ。
もちろんトラップはバレバレで、後から帰ってきた美術選択の生徒たちは、みんな後ろのドアに回って教室に入っていたんだけど。
女性性の塊のような容姿と、男気のある性格を兼ね備えた彼女は、男女ともに人望が厚い。
そんな彼女にも弱点というのはあるもので……僕は以前、彼女にノートを写させてくれと頼まれたことがある。
「ちょっと居眠りしてて……昨夜、ネトフリでアニメ見始めたら止まんなくなって……」
アニメとか見るんだ、と僕が相槌を打つと、七海さんは恥ずかしそうに言ったものだ。
「喋りすぎた……。忘れて」
そうして、黙々と右手に握ったボールペンでノートを写す作業を続けたのだ。
どちらかというと、アニメを見ていることよりも、大して関係性のない僕に頼み込んでまで授業のノートを取ることを重要視していることや、ボールペンで記されたノートの文字の綺麗さのほうが意外だったんだけど、僕はそれ以上口を開かなかった。決して制服の襟から覗く胸元に夢中だったわけじゃない。
……いや待て、ボールペン?
そうだ、七海さんはノートを取るのにボールペンを使っていた。
僕のノートを写した部分だけじゃない。他のページも全部だ。
だとしたら、消しゴムは使わないんじゃないか?
なんでこんな簡単なことに気付かなかったんだろう。ボールペンで書いた文字は消しゴムでは消せない。だったら、僕の名前が書かれた消しゴムの持ち主も、七海さんのわけがないじゃないか。
くそう……あのおっぱいを揉み放題になると思ったのに……。
となると、もう他の候補は……やっぱり加賀さんなのだろうか?
……ん? いや、そういえば……。
今日の3時間目が終わった後、黒板消しのトラップを仕掛けるというしょうもない遊びが始まったのは、工芸選択の生徒が美術選択の生徒より早めに教室に戻ってきたのがきっかけだった。七海さんも美術選択だったから帰ってくるのが遅かったのだ。
だけど、トラップが設置される前に教室に帰ってきていた美術選択の生徒は2人だけいて、その片方が加賀さんだった。黒板消しの設置角度で激論を交わす男子たちを、呆れた目で眺めていたのを覚えている。
その加賀さんの隣に……もう1人いたのを思い出した。
もう1人の美術選択生徒。
そう――
生亀さんは加賀さんと同じ美術部で、だけど加賀さんとは正反対に人見知りでおどおどした感じの女の子だ。
背も小さくて、小動物みたいで愛らしいけど、同じ部活の加賀さん以外とは、話しているのをあまり見たことがない。
当然、僕ともほとんど話したことがない。
だけど、まったく関係がないかといえばそうでもない。
なんと、彼女とは出席番号が隣同士なのだ。
僕が1番で、彼女が2番。
このクラスが始まった頃、席が出席番号順になっていた頃には、プリントを後ろに回すときにいちいち目が合って、なんとなく気恥ずかしい思いをしたものだ。
自慢じゃないが、僕はすぐ前の席や隣の席が女子になったら、絶対と言っていいくらいその女子が気になってしまう。
彼女が同じタイプだったとしたらどうだろう。
席が前後で隣り合っていた1ヶ月ほどの間、僕の背中やらうなじやらを見続けて、いつしか恋心を抱いてしまっていたとしたら――
――あるな。大いにある。
なにせ1ヶ月も見つめ続けるんだ。特に何も話したことがなくても、特に彼女に何もしていなくても、何かしらの感情が芽生えるはずだ。
僕なら芽生える。
というか、実際にそれでちょっと好きになったことがある。
あれは小学校5年生の頃だったか――いや、この話はまた今度にしよう。
そう考えると、後ろを見るたびに目が合っていたのも納得だ。
なにせ彼女は、ずっと僕の後頭部を見ていたのだから!
彼女もプリントを回されるたび、僕と目が合うのをほのかに期待していたに違いない……。
さて、候補は2人か。
快活でフレンドリーな加賀さん。
物静かで奥ゆかしい生亀さん。
むう……甲乙つけがたい。
みんなに隠れて加賀さんと密やかな愛を育むのも悪くないが、生亀さんの引っ込み思案のベールを一枚一枚剥がしていくのもいとおかし。
どっちにしよう。
……ん? どっちにしよう?
これってそういう話だったっけ。
あ、そうだそうだ。消しゴムの持ち主を特定するんだ。今夜の妄想のネタを選ぶ会議じゃなかった。
未だ持ち主の特定に至る情報は思い出せない。
強いて言えば、ボールペンを使っている七海さんが候補から消えたくらいか……。
ここは初心に帰って、僕の手元にある動かぬ証拠である消しゴムを、もっときちんと検分してみるか。
人目につかないよう机の下に消しゴムを隠し、腹巻のように真ん中を覆う青と黒のカバーを再び取る。
……思えば、このカバーもちょっと奇妙だ。少し短く切り詰めてあり、消しゴムの両端が外に出るようになっている。腹巻みたいな感じになっているのもそのせいだ。
消しゴムの長いほうの辺に対して垂直に名前を書き、そのせいで下の名前を書くスペースがなくなってしまっているのも、カバーをちょっと短くしているせいだろう。
普通に横向きに名前を書くと、短くしたカバーでは隠しきれなくなってしまうんだろう。
なんでカバーを短くしたんだろう?
その疑問を頭の端に置きつつ、改めて、すべての角が丸みを帯びた消しゴムに刻まれた、僕自身の名前を見つめる。
何か読み取れることはあるだろうか?
女の子らしい、丸みを帯びた文字だとしか……ふふふ。これは美少女の文字に違いない。
僕は目を皿のようにして、その筆跡を鑑定する。
文字には人が表れるという……。どこかに、どこかにあるはずだ。この文字を書いた人間を示す手がかりが……!
――ん?
これは気のせいか?
いや……!
『阿笠』の、『笠』の字。
その上部の竹冠、その1画目。
左下に払う部分だが……その先端が、途中で途切れているような気がする。
まるで、そこにあった何かに、せき止められたように……。
でも、だから何だという話だ。
持ち主の特定には役に立ちそうにない。
それよりも特徴的なのは、やっぱりこの切り詰められたカバーと――
我が頭脳に電流が走った。
「……フハ……」
息が漏れた。
「フハ……フハハ……フフフハハハハハハハハハハ!!」
立ち上がりながら高笑いをすると、近くに座っていた藤井くんが呆れたような顔で僕を見上げた。
「阿笠……お前って、ときどき天才になるよな」
「そう褒めるな」
「漫画の天才キャラみたいな頭おかしそうなやつって意味だが」
真実は得た。
僕に恋している女子は誰なのか?
それはもはや明らかだ。
ヒントは最初から手の中にあった。
そう、すべての角が丸くなった消しゴム――
――すべての角が丸くなった、というところが重要だったのだ。
消しゴムは、普通、最初に使い始めたほうが『頭』になる。
逆側は『お尻』になって、どこかに落として失くす瞬間までカバーの中に隠れる。
そうだ――普通、丸くなるのは『頭』のほうの角だけで、『お尻』の角は新品のままになるのだ。
もちろん、消しゴムの角は使いたくなるもの。
『お尻』の角を気まぐれに使うことだってあるだろう。
しかしこの持ち主は、わざわざカバーを短く切り詰めてまで、両側を使いやすくしている。
意味があるのだ。消しゴムの角を強いて使うことに――
さあ、すべての情報は出揃った。
おまじないは成就する。後は『彼女』の机にでもこっそり消しゴムを戻すだけ。
このクラスには、僕に恋した女子がいる。
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