雪灯りの記憶【光の守り人シリーズ】
ソコニ
第1話 雪灯りの記憶
朝もやの立ち込める窓辺に、小さな雪の結晶が舞い始めた。カフェ『澪』のガラス窓に、陽子は温かい息を吹きかけながら、今朝一番に淹れた煎茶の香りを楽しんでいた。庭に積もった雪は、まるで時が止まったかのように静かで、スマートフォンの通知音も、都会の喧騒も、この空間だけは遠く感じられた。
「こんな日は、温かいお茶が心に沁みるわねぇ」
いつものように、白藤琴子の柔らかな声が陽子の背後から聞こえてきた。振り返ると、藍の着物姿の琴子が、懐かしそうな表情で中庭に目を向けていた。その横顔には、どこか切なさが混じっているように見えた。
「琴子さん、おはようございます」陽子は微笑みながら答えた。「今朝は特別な雪の日になりそうな予感がします」
「ええ、この雪の降り方は、私が若かった頃の思い出の日と同じよ」琴子は窓際に歩み寄りながら言った。「あの日も、こんな風に大きな雪が、音も立てずに降っていたわ」
陽子は琴子の言葉に、何か特別な思いが込められているのを感じ取った。聞きたい気持ちを抑えながら、朝の準備を続けていると、店の風鈴が、外からの風も無いのに、かすかに揺れ始めた。
目を凝らすと、風鈴の中に小さな雪の結晶が舞っているのが見えた。店内なのに。陽子の心の中に、まだ見ぬ誰かの深い思いが、そっと触れるように伝わってきた。
午前10時、開店準備を終えた頃、最初のお客様が訪れた。陽子の目を引いたのは、その老婦人の手に握られた古びた写真と、小さなタブレット端末だった。
「あの、こちらで雪見の茶会が開かれていたと聞いて...」老婦人・野口節子さんは、おずおずと声をかけた。「孫が建築の勉強をしていて、古い建物の記録を集めているんです。私の若い頃の思い出の場所を、なんとか残したくて」
陽子は優しく頷いた。「寒い中、よくいらっしゃいました。温かいお茶をご用意いたしますね」
玉露を丁寧に淹れながら、陽子の視界に、いつもと違う光景が広がり始めた。かつてこの場所で開かれていた雪見茶会の情景が、お茶の湯気とともに立ち上っていく。
着物姿の若い女性たちが、雪の降る庭を眺めながらお茶を楽しむ姿。その中に、若かりし日の琴子の姿も。そして、艶やかな着物姿の若い節子さんの姿も。二人は熱心に何かを語り合っている。
「あの日のことを、よく覚えていらっしゃいますか?」琴子の声が、現実と過去の境目で響く。「1964年の大雪の日、この部屋で私たちは未来を語り合ったのよ。節子さんは、この町に初めてカメラ店を開くって言って...」
老婦人の目に涙が光った。「ええ、白藤さん...琴子さんが、この町の将来について熱く語ってくださって。私の夢を応援してくださって」節子さんは懐かしそうに微笑んだ。「あの後、本当に小さなカメラ店を開いて、観光で訪れる方々の思い出をたくさん撮らせていただいたんです」
陽子はお茶を差し出しながら、節子さんの心の中に深い感謝の念を感じ取った。そこには60年前の雪の日の記憶が、まるで昨日のことのように鮮やかに残っていた。写真だけでなく、人々の心の中にも、確かな記録として。
「実は先日、東京の孫から連絡があって」節子さんはタブレットを取り出した。「建物の3Dスキャンをしたいって。このカフェの歴史的価値を、最新技術で残したいって言うんです」
陽子は琴子と目を合わせた。琴子はゆっくりと頷き、節子さんの横に座った。もちろん、節子さんには琴子の姿は見えない。
「素晴らしいお考えですね」陽子は節子さんの手に自分の手を重ねた。「この建物の魂は、きっとずっと生き続けていきます。デジタルの記録の中にも、私たちの記憶の中にも...」
その瞬間、中庭に面した障子に、不思議な光が差し込んだ。雪の結晶が作る影絵のような模様が、60年前と同じ場所に、同じ模様を描き出している。
「まるで、あの日の光と同じね」節子さんは感動に震える声で言った。「琴子さんが、『この建物には不思議な記憶が宿っている』って教えてくれたの、今でも覚えています」
「ご存知でしたか?」陽子は穏やかに尋ねた。「この建物は、来年から保存修復工事が始まることになったんです。中村さん...再開発プロジェクトのリーダーの方が、この場所の価値を理解してくださって。その時には、ぜひお孫さんのお力もお借りできればと思います」
節子さんの表情が明るく変わった。「本当ですか?あの子、きっと喜びます。祖母の若い頃の思い出の場所で、仕事ができるなんて」
夕暮れ時、節子さんを見送った後、陽子は琴子と一緒に再び窓辺に立った。雪はまだ静かに降り続いている。庭には節子さんの足跡が、かすかに残されていた。
「不思議ね」琴子が言った。「雪の結晶は一つとして同じものはないけれど、人の心に残る温かな思い出は、時を超えて同じ光を放つものなのね。写真やデジタルの記録も大切だけど、何より大切なのは、この場所で紡がれる人々の想いかもしれない」
陽子は静かに頷いた。窓の外では、降り積もった雪が、街灯に照らされてやわらかな光を放っていた。それは、過去と現在、そして未来へとつながる人々の想いを、そっと包み込むように輝いていた。
琴子の横顔に、小さな雪の結晶が舞い、そしてゆっくりと溶けていった。
雪灯りの記憶【光の守り人シリーズ】 ソコニ @mi33x
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます