自己滞留


 私の入学した高校には『図書室の七不思議』がある。学校の七不思議、とかじゃなくて。図書館だけで七つもあるのだ。日当たりの悪い特別教室棟のはしっこにあるから、納得といえば納得ではあるけれど。


 そんな噂のせいもあってか図書室に近づきたがる人はそういない。……のに、私はじゃんけんに負けて図書委員会に入ることになってしまった……。最悪だ。今週の昼休みから活動が始まるらしく、今日はそのための集会の日。入学したばかりで友達も全然いないから、あんな不気味なところに一人で行かないといけないのがまたつらい。


「ねえ、もしかして図書委員の子?」


 はあ、とため息をついていると突然後ろから声をかけられた。振り向くとそこにはショートカットで青いリボンの――――つまり、三年生の女子が立っていた。彼女はやっほ、とフレンドリーに言って手を挙げる。親しげだけれど全く知らない人だ。


「あ、あの……なんでわかったんですか?」


 私はただ渡り廊下を渡っているだけの新入生だっただろうし、というか、なんで急に声をかけられたのか……それ以前に誰? と疑問ばかりが募る。すると彼女は困惑の表情を読み取ったのか、くふふ、と笑った。


「一年生はこっちの渡り廊下なんてほとんど使わないでしょー、あと落ち込みすぎ! そんなに心配しなくても大丈夫だからね」


 そう言っては急に肩を組んでくる。フレンドリーを超えてもはや馴れ馴れしいとも思うけど、なぜだか嫌な気分はしなかった。面倒見の良さを感じるからかな、と思う。


「そーだ、あたしは三年五組、図書委員長の櫻子。よろしくね後輩ちゃん」


 にっこりと浮かべた笑顔が若干胡散臭いとは思ったけど、多分憎めないタイプの人なんだろうなと思った。どうやら握手を求めているらしい手は流石に受け入れられなかったけど。


「図書室まで一緒行こっか、不安だよね」


 そう言うと彼女は握手しようとしたそのままの手で私の腕を引いて図書室まで連れて行こうとする。振りほどこうとしたけど案外力が強くて無理があった。鬱陶しいどころか強引すぎる。


「……あの、聞きたいんですけど図書室の七不思議って……」


 話題がないから、せめて何か話そうと思って出たのがこれだった。さすがに図書委員だったら真相も知ってるだろうと思うけど。ちなみに詳細はこんな感じのもの。




 一、図書室には『謎の本』が存在する。処分したはずなのに必ず戻ってくるらしい。


 二、誰もいない図書室から男女の話し声がすることがある。


 三、司書の先生が時々全くの別人になって見えることがある。


 四、図書室から繋がる渡り廊下に血痕が見えることがある。


 五、本の配置が時々大幅に変わっている。司書の先生は何もしていないと言う。


 六、制服の違う生徒がいることがあるが決して話しかけてはならない。狂ってしまうから。


 七、図書室に近づきすぎてはならない。なぜなら自殺者の狂気が【滞留】しているから。




 ……正直信じられないけれど、まああの気味の悪い場所にあればそんな噂も立つか……という感じではある。納得はいく。信じはしないけど。


「やっぱりあの噂、知ってるんだ」


 うんうん、と彼女は頷く。若干わざとらしい動作。


「ま、有名だしねー……あと、ほんとのことだし」


 は? と声が出そうになるのをなんとか抑えた。先輩の前なんだからさすがにそんな言葉遣いはできない。櫻子さんは図書室の重い扉を押して中に入った。私も後に続いた。司書の先生は奥の方で事務作業かなにかをしていてこちらをちらりとも見る様子はない。


「ほんの数年前なんだ、自殺者が出たのって」


「あたしが一年のときに二人目が出たんだよ」


 そう言って彼女はそこにあった椅子に腰掛けた。私はその向かいに座った。長机を挟んで私達は向かい合っている。頬杖をつこうとしたけれど、机の上が埃っぽいのに気付いてやめた。


「その前に亡くなった人も同じ学年だったらしくて、呪われた学年とか言われたりしててさ」


 笑えない冗談だなと思った。まあ、よくある。そういう噂が流行ると学年ごとなんだかんだと言われるものだ。


「それ、先輩だったの。いっつも図書室にいる人でね」


 懐かしむような瞳だった。それがなぜか羨ましくて、なにも返事ができなくて。換気されてない図書室特有の紙の香りが頭の中にまでいっぱいに広がってくる。


 延々と同じような話しかしてこない櫻子さんにうんざりして、もう今日は帰ろう、と話を適当に切り上げた時、『自己文学短編集・三』そう表紙に書かれた冊子が、私の視界の隅に映ったような気がした。




 次の日。櫻子さんのことがうざったいとか鬱陶しいとか、そういうことを思ってたはずなのにまた図書室に来てしまった。司書の先生は前と同じで奥の方にいて作業をしている。どこにいるんだろう、ときょろきょろと周囲を見回していると、本棚の奥の方から彼女は出てきた。


「また来たんだ、えらいね」


 そう言って彼女は私の頭をわしゃわしゃと撫でる。なんだか悔しいけどまんざらでもない。年上にかわいがられるというのはあまり慣れない感覚でちょっとむず痒かった。


「図書委員なんてやることないから、自由でいいよ」


 彼女はそう言うから、その辺りの本を適当に取って読んだり、座って自習をしたり、まあ、そんなこんなで日も経って、気がつけば毎日図書室に通っていた。櫻子さんは私が何をしていようが話しかけてきて、聞いてもいない過去の話を毎度のように語った。




「あたしは先輩に一目惚れしちゃったの。皺のないシャツに浮かぶ背中のラインとか、長過ぎる前髪の中から時々覗く瞳とか、すごく素敵でさ」


 もはや変態的な思考を見せるときもあった。彼女がその先輩とやらについて語るときはいつも恍惚としていて、その別に悪いわけでもない顔はきらきらと輝いていて、まさに乙女といった感じだった。こじらせた乙女だった。


「でも先輩、好きな人がいたんだ。好きな人っていうか、憧れの人? その人が一人目の自殺者でね」


「先輩はずっとその人に夢中だったんだ、その人の何がいいのかなんて話は聞き飽きちゃった。だって毎回言うの、あの人はすごい人で……って」


 私だって聞き飽きそうです。なんて、今日は言ってしまいたいくらいだ。恋を知らない私はそんな話聞いたって気の利いたことは何も言えない。ただ聞くだけ。それでも彼女は話を終わらせるときに「聞いてくれてありがとう」なんて言うから、どうしても邪険にはできなくなってしまっただけなのだ。


「で、あとで分かったんだけどね、あたしの名前ってその人の小説のキャラとおんなじだったの。だからあたしのこと気になったんだって」


「その瞬間、あたし、この名前で良かったー! って思っちゃった」


 へへ、と笑う櫻子さんは紛れもなく恋する乙女で、なんだかすごく憎らしくなった。もうその人はいないというのに、ずっとずっと恋い焦がれているのだ、きっと。


「でね、先輩、いっつもその人の話しかしなくってさ」


 それは貴女でしょ、と言おうとして呑み込んだ。これは連鎖だ、と思った。


「嫉妬したりもしたよ、だって、もういないのにずっと慕ってるんだもん。……はは、人のこと言えないけど」


 自虐的な笑み。彼女は気付いていた。自分で分かってて、たぶん、奥深くで恋を煮詰めるのをやめられないんだろうなって思った。もうどこにだって材料はないはずなのに、ずっとあたためられ続けてる哀れな恋だった。彼女の脳の内部で甘い甘い毒の香りが【滞留】していた。


 だからきっとこの図書室の空気はこんなにも、どんよりと重く、暗い。今日は天気が絶妙に悪いのも相まってほんの少し青っぽい明かりがぼやぼやと室内を照らしている。


「だって先輩は――――あたしの命だよ」


「だからあたしはあの人のいたところでしか生きてけない、他のとこでは死んでるのと一緒なんだ」


「ずっと、好きなの」


 ああ、彼女の瞳の先にはその【先輩】だけしか映っていない。それが自分にもわからないけれどとにかく癪で、溜まって――――ああ、ひどく恨めしい。私の中身がぐちゃぐちゃと音を立てて腐食されていくのを感じる。だめだ、これ、感情に呑まれる。心の奥底まで貴女に、いっぱいにされて、乱されて、狂気を植え付けられて……


 どろどろになった自我に追い打ちを与えるように何かが私の頭の中に入ってくる。全体的にぼんやりとして、それなのに一部だけやけに鮮明だ。まるでいつかの恋の記憶のような、いつも遠くから眺めているような、蜃気楼を追っているような――――






「あの人の小説はいつだって独りよがりだったんだ、……本人に聞かれたら相当嫌な顔をされてしまうだろうけど」


 ――――あたしはずっと聞き役だった。先輩に話したいことなんて一つもなかったから。っていうか、あたしのことは何にも知ってほしくなかったし、知ってくれないだろうなって分かってたから。


「でも独りよがりが悪いとは言わない。だって人間なんてそんなものだし、僕はそんなあの人に憧れていた」


「僕は時々思うんだ、あの人はどう死んだんだろうって。あの人の小説では大抵人が死ぬ。たぶん、自分と重ね合わせて殺してたんだと思う。だからきっと彼女自身も――――神秘的に死んでいたのなら、僕は、それが見たいって【衝動】に駆られて仕方がない」


 先輩は最期にそれを見たのかな? ねえ、先輩。本当はもっと貴方のことを知りたかった。あたしのことなんて何も知らなくていいから、全部知りたかった。それも嘘かも。全部知ってほしかったし全部知りたかった。貴方の全てを受け入れたかった。


 だって、ずるいよ。もういないじゃんか、その人。あたしを見て。そんなこと言えなくて。その人に恋してる先輩が好きで。


「――――ねえ、君は一人の男のために世界を変えてしまいたいと思う?」


 急にそう問いかけられてどきりとした。それは初めてあたしが彼に質問されたから、っていうのもあったけど、あまりにもあたしに当てはまりすぎていたから。むしろ先輩はあたしの気持ちに気付いててそんなことを言ったんじゃないかとすら思った。


「例えば一目惚れをしたとか、優しく話しかけてくれた相手とかで、その人はその世界に不満を感じている……そんな感じの状況で君に力があったら、そうする?」


 やっぱり、あたしのことだ。だってあたし、一目惚れした上に先輩が優しくしてくれて、離れられなくって。貴方に会うためにほとんど毎日図書室に通ってたんだもん。どうしよう、この気持ちがバレちゃってるのなら、あたし、どうしたらいいの? 分かんなくなったけど、答えた。


「絶対、します」


「その人の望む世界にします、それで、ずっとずっと幸せに生きてもらうんです」


 一度声を出したら止められなくなっちゃうもんなんだって、あたし初めて分かった。だって今まで誰かと話すことなんて、特に先輩にこうして喋ることなんて全く無かったから詰まってたものが一気に出てきたみたいだった。


「だってそうです、力があるのなら愛する人のために使いたいってあたし思うんです。この世界が嫌だっていうなら、あたしが変えられるんなら変えるし、変えられないんならなんとかしえ変えられるようにします、だってきっとそれが愛で、だって、……なんて言っていいかわかんないけど……あ、えっと……その、なんていうか」


 今思えばあたし、初心すぎてちょっと気持ち悪かったな。ううん、正直だいぶ。後半なんてどもっちゃってそれどころじゃなかったし。……今だってこじらせてるけどさ。とにかく、もしバレちゃってるのならできる限り伝えなきゃ、って。思ってしまったんだ。


 でもそれより、そう言い終わった後の先輩の顔があたし、頭から離れなくて。


「……そっか」


 その時の彼の表情は、もう何もかも諦めたみたいな感じだった。生気がなくて、ただ何も無い机の上を見つめている。あたし、何か言っちゃダメなこと言ったのかなって思ってた。でもあの本を読んで分かった。彼は彼自身に絶望して、あたしを信じられなかったんだって。その数日後に先輩は――――




 ――――そんな、私が知るはずのない記憶。妄想かもしれない。それは分からない。私の中に流入してきたそれはもう既に私の記憶と同等になって、混ざり合って、私の中の押し込めようがないものと同化していく。膨張していく。抑えられない。


 私は櫻子さんを無理やり机の上に押し倒し首に手をかける。彼女は抵抗しなかった。むしろ思いっきり笑った。嘲笑った。あの記憶の中の初々しい彼女とは全く違っていた。これが、彼女が私だけに見せてくれる顔ならそれでもいいとすら思えた。


「やっぱり狂気は滞留するんだ……はは、あたし今最高に幸せだよ」


 その瞳が潤む。狂気を宿したハイライトが光る。それは【先輩】の残したものだろうか、それともそれより前の? もうそんなもの分からないしどうでもよくなっていた。


「先輩から伝播した狂気に殺されるなら本望、ねえ、ほら締めてよ先輩! いるんでしょ、ねえ、ほら、はやくそっちに連れて行って、あたしも先輩と一緒にして」


 腕に力が入りそうになる。櫻子さんの細い首は私のこの手によって簡単に壊せてしまう。そう考えれば考えるほどに彼女を壊して私のものにしたくなる。満ちる狂気、指先の震え。殺せ、殺せ、殺せ。囁き。脳に満ちる死ぬほど甘く苦しい狂気。密度を増す。呼吸を圧迫する。この人を殺せ。そうすれば私だけのものになる。他の人なんて見ないで、死んで。私だけ、私だけを――――嗚呼、どうしようもないほどの【衝動】。


 ――――息が上手くできないほどの苦しみの中、私はなんとかその手を抑え込んだ。深呼吸をして、なんとか狂気を吐き出して、ゆっくりと彼女の首から手を離す。……私は呑まれずに済んだということだ。思わず深いため息をつく。


「……抜けた」


 呟き、自分の中に渦巻いていたものの薄まる感覚に安堵する。大丈夫、今、私の身体はちゃんと私の意思で動いている。指先がしびれてぴりぴりとするけど、動かせる。感情に呑まれていない。大丈夫だ。


「……櫻子さん、私は先輩さんじゃないですよ」


 なんとか声に出す。胸の奥のほうがきりきりと痛むのを感じた。ストレス、なんて薄っぺらい言葉じゃ表したくない痛みだった。どう言っていいか分からない。残留した狂気の毒がまだ私の心を侵食しているような、そんな感じだろうか。彼女は視線をどこか遠くへやっていた。


「わかってるよ」


 切実な理解だった。それはそれでなんというか、癪だった。けれど先程までのような汚い感情ではなかった。たぶん、本当に純粋な嫉妬。


「あーあ、後輩ちゃんがそのまま締めてくれてたらなあ」


「……冗談だよ」


 涙を拭うような仕草。涙ではなかったかもしれない。ちゃんと見えなかったから、ただ目をこすっただけかもしれない。だけど、なぜだか涙だと確信できた。 


「冗談だから、ね」


 そう言う彼女の面持ちは冗談を言いそうなものではなかった。ただ何もない空間を見つめ、潤んだ瞳で乾いた笑みを浮かべている。自分に言い聞かせているんだろうな、と思った。


「――――生きてたほうが先輩さんのこと、強く感じられるんじゃないですか」


 どうしていいかわからない空気感の中、なんとなく発した言葉に彼女が顔を上げる。目が合う。その瞳の奥には紛れもなく私がいた。映っていた。


「……そうかもね」


 目を伏せ、彼女は行き場をなくした手で机を撫でる。まるで大切な人の頭を撫でるように、……いや、そうじゃないか。彼女にそれはできないだろう。大切な人の触れたものに愛おしく触れているようだった。


「先輩の残したものはまだ、ここにあるから」


 その想いの先には、きっと【先輩】がいるのだろう。でももうさっきほど苦しくはなかった。彼女の未練に、実ることも散ることも叶わなかった恋にただ同情した。


「あたしはまだ、あの人を浴びていたい」


 日当たりの悪い図書室には夕日の光なんてほとんど差し込んでこない。まるでまだ留まったままの狂気を祝福しているような、錆びた窓から吹き込む爽やかな風が私達の間を通り過ぎていくだけだった。

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自己文学 冷田かるぼ @meimumei

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