高校三年生
櫻葉の君
櫻葉の君 ――――『自己文学短編集・三』より
九条 紫
君には何が見える? ああ、何も分からない。ここには何があるのか、到底理解が及ばないんだ。見上げてご覧よ、桜が奇麗だ。――――いや、あれは桜なのか? いいや、そもそも花であるかどうかすら分からなくなってきた。あれは何なんだ。何にしても、あれは異常に奇麗だな――――
遡り、始まりの日。全ての始まりの日。
「なあ、お前窓の外ばっか見過ぎだろ」
友人は僕にそう語りかけてくる。僕は無視を貫き通す。どうでもいいからだ。人というものはいつもそうだ。特定の行動を続ける者に対して怪訝そうに見つめては理由を問う。理由などないというのに。理由などないから自分でも困っているというのだ。
僕の悪癖は授業中だろうがいつであろうが窓の外を眺めてしまうというものである。教室の中なんて視界に入れるのも嫌悪感があるほどだ。狭い。それに対して外はどうだろう、窓が閉まっていようが開いていようが、そこには途方もなく彼方まで続く空があるのだ。どこまでも風に乗って飛んで行く花の一枚一枚、葉の薄さが太陽の光に透けて映るもの、その自由は形容し難い美という存在だと言えよう。
「……ああ、また聞いてねえし」
聞いてはいるんだがなあ、と思った。返事はしなかった。顔も見なかった。人間の顔というのは見た瞬間に感情が読めてしまうからいけない。自然はいい。見たところでなんの感情も伝わって来やしないのだ。ただそこにあるのは過ぎ去りゆく時の流れと大気の変動による自然現象の一部でしかない。
キーンコーンカーンコーン――――チャイムが鳴る。人工的な音だ。元は自然であったにしろ受け入れ難い音である。今日は担任が出張か何かでいないとかで帰りのホームルームは一瞬で済む。うちの担任は話が長い。他クラスに比べると軽く五分以上は長いだろう。教室にいる時間はそう快いものではないからよしてほしいものだ。
「それでは終わりましょうか」
代理で来た教師の話が終わり、終礼が済んだ瞬間に荷物を持ち教室を出る。この廊下がまた息苦しい。さっさと走り抜けたいが僕の身体能力だとあまりに困難なため諦める。階段を駆け下り、ようやく渡り廊下までたどり着いた。外の風だ。このような人工物に囲まれていては到底味わえない自然だ。僕は息をつく。つい先程まではまるで死人かのように凝り固まっていた身体が一気に解れる。息切れを起こしつつも心地よさを感じる。
と、ここまで走ったのは早く帰りたいからではない。僕はこの中庭にある木々が好きなのである。好きなどというありきたりな言葉で表すにはあまりに言葉が足りなすぎるほどに好きなのである。人工物はあるがうまく馴染んでいる。ベンチなんかはまああっても許されるものだし、東屋も壁で囲まれてさえいなければそれでいいのだ。
――――その東屋に、『なにか』いる。
それは不自然の塊だった。三次元空間に存在する他次元生命体のようなものであった。例えるのであれば現実世界にあまりにも美麗なイラストレーションが存在しているような、まるで人工知能によって作られたアニメーションが蠢いているような、そんな違和感だった。
ひと目見ただけで分かる。明らかにそれはこの世に存在し得ない――――存在が信じられない生命体――――生きているのかさえよく分からないが、とにかく『変』なのである。僕は近付いた。いつもの僕ならあり得ない行動だったが、僕の定位置に『それ』が座っているというのは非常に癪に障ったから仕方がないとも言える。
近くに寄るとよりその不自然さは際立っていた。人間のような形をとったなにかであった。しかし人間らしさはそのどこにも感じられない。無機。その言葉こそしっくりくる。声をかける勇気は流石にないが、隣に座る勇気はあった。危険性を感じなかったからというのもあるが、なぜだか僕はそれに惹かれていたと言ってもいい。
「スみまえん」
向こうから声をかけてきた。声というよりそれは音と呼んだほうが適切なものではあったが。返事をし、表情を読もうとしたがそこには表情などなかった。『塊』だった。
「あnnnnnnこレは、何、デすかヵ」
それは春を過ぎてもう花のない桜の木を指差して言った。正確には、そう言ったように見えた。これはまともに喋ることすらできていない。僕が勝手に読み取っただけだ。
「これは『桜』の木」
「さケら」
合成音声のような歪さを感じる音だった。それでいて自然というものそのもののようでもあった。ごく自然に誕生した人工物? 何と言っていいかすら分からない。
「さくら」
「sアくrrrrrrrrrr」
もはや音声としての体をなしていない。コンピュータのバグが発生しているみたいな音だと思った。
「……さくら」
「サク,ラ」
まあ及第点といったところか。僕は何をしているんだ、と少しはまともになった思考が問うてくる。しかしこの眼の前の『違和感のない違和感そのもの』は僕の頭をかき乱してくる。まあいいかと思わせてくる。言語だって少しは喋れることだし。
「あtttttttし,さくレみたデす」
かと思えば全く聞き取れない。なんて? などと聞き返す気にはならなかった。友人でもないのに。そもそも明らかに人間でもないのに。向こうはわけの分からない物体だ。なんだか会話をするのも馬鹿らしくなって立ち上がる。
「まて」
急に流暢になる。短い単語は発音がしやすいとかそういう理論だろうかなんて考える。その物体の顔のような部分を見つめてみたが感情は何一つ伝わってきやしなかった。待てと言われたからには仕方ないから待ってやるか、と、そのままでいると。
「 」
きぃん、と脳に響く空白。音のない、文字のない言語。何も無いのに何かが分かった。何も無いのに何かを伝えてしまった。咄嗟に耳を守ったときにはもう遅く――――というか、耳を守ったってなんの意味もないような、全てを貫き通す……概念的な、形のない、なにかだった。
何一つはっきりとは分からない。理解が及ばないものだということだけが自分の脳内に理解を促す。諦めろ。ただ受け取ったものをそのままにしていろ。そういう類の言葉だった。
「わ、かた」
それを言いたいのはこっちだ、と言いたくなった。なにも分かってなどいなかったけれど。僕は何も答えることができずにただ立っている。いや、だめだ。帰らなければ。今乱された脳内を治さなくてはならない。せめてまだ耐えられる自宅で治さなくてはならない。
僕は東屋を出た。なんとかして足を動かし、日光を浴びた。肌に伝わるぴりっとした快感。
「さヨuなら」
ほんの少しマシになった言語が背後から聞こえた、気がした。
それから数日は『あれ』の姿は見なかった。もう消えたのか、ああやって僕に何かを送りつけて、無理やり送らせて、満足したのかは分からなかったけれど。
「なあ、お前なんか最近おかしくないか?」
放課後の友人がそう問う。黒板消しクリーナーの音がごうごうと教室に響いた。不快だった。返事は一つもしなかった。なぜ友人なのか、なんて訊く人もいるだろうが逆に僕が訊き返したいくらいだ。なぜ、彼は僕の友人なのだろうか?
人間というものは異様なほどに不確かだ。友人関係だって同じくそうだ。それなのに僕はなぜ彼を友人だと定義できるのであろうか。それは僕にも分からない。分からないけれど僕は彼を友人だと定義している。そう呼んでいる。ほとんど会話を成立させていないにも関わらずどうしてこうも構われるのかは正直知りたいところではあるが。
――――おかしいって、どういうことだろう。そう考えながらも僕はいつものように中庭に向かった。今日はいつもより遅く帰ってもいいか、と思いつつ。
「あ」
居た。数日前のように東屋の、僕の特等席に座っていた。
「こにちわ」
言語が急激にマシになっている。見た目もそうだった。前よりは周囲の風景に馴染んでいる。自然だった。よく分からない他次元生命体からよく分からない人間に進化したと言ってもいい。ただ制服の襟が変なことになっていたり指の本数が多かったり少なかったりして、まだ歪ではあるのだけれど。無視して隣に座った。
「こやにちは」
もっと変なことになった。無視したからか? なんて推測してみる。多分意味はない。そのままぼうっとして自然を享受する。ふわふわとした柔い空気が弱々しい風に乗って運ばれてきた。
「おしえて、なこと、ある」
それはそう切り出した。その眼の中はありえないほどに明瞭で、僕自身がはっきりと映り込んでいた。いつも通り何もかもが不満とでも言いたげな顔をしていた。
「ヒトは、まなえ、ついてる」
名前、と言いたいのだろうかと予想する。まあそうだな、と思う。人には名前がついているものだ。人間特有の個体識別のためではあるが、まあ正直どうでもいい。そんな物があったとしても何の意味もないのと同じだ。全ては自然に帰す。
「あたしは?」
乞うように僕を見る。次元の違う瞳。僕をじっと見つめる。僕の身体の奥底まで、脳の中まで見通されているような感覚がした。僕の全てがそれに吸い込まれる。そうして僕は塵になってしまう。そんなわけのわからない妄想がなぜか頭の中をぐるぐると鬱陶しく回った。
「――――櫻子、だ」
咄嗟に声が出た。もはや無意識だった。気がつけばそう名付けていた。彼女の顕す女子学生風の容貌と、桜という単語を執拗に言っていたことが影響したのかもしれないと思った。
「サクラコ」
それは言葉を噛み締めるように呟く。言語を理解し始めた彼女にとって、待ち焦がれている桜という言葉はどう聞こえるだろうか。そもそも彼女に情緒というものは分かるのだろうか。
「サクラコ!」
嬉しそうに音を発するその傍らには、青々と茂った桜の樹があった。
どうしても教室で昼食を取れなかった日。僕が人工に吐き気を催してどうしようもなくなった日。僕は昼休みに中庭に出た。本当は禁止されているけれど、気分が悪いのだから仕方がない。本当はもっと自然に近ければいいのだがそんな場所はこのあたりにはない。
いつもの東屋に向かうと案の定櫻子がいた。何も言わず隣に座る。彼女はただ僕を物珍しそうな眼で見ていた。気にせず弁当を取り出して蓋を開く。冷凍食品の匂いだった。嫌いではないが好きでもない。食べなければ生きていけないというのが自然であるから仕方なく物を食べる。親には申し訳ないが、食事は本来好きではない。
「あたし、それ」
彼女の手が僕の弁当に伸びる。指、ちゃんと五本ある。フィクションらしく色白で一本一本細く、滑らかな曲線を描いており……そうではなく。弁当を動かして避けた。食欲とかあるのだろうか、これは。
「たべる」
いや、無理だろ。というか、あげないし。空腹状態で教室に戻ったら余計に気分が悪くなる。そもそも他次元生命体に食事はできるのか? 偏見のようで悪いがたぶん無理なのだろう。人間の特権というわけだ。嬉しくもないが。
「するい」
濁点が足りていない。ついているのに比べて嫉妬感情が薄くなっているような感じもする。そんなことはないか、彼女は頬を膨らませているようだし。……あげようかと思ったが餌付けして何か恐ろしいことに見舞われたら嫌なのでやめておいた。ただそう考えるにはもう遅かったかもしれない。
さっさと弁当を平らげて日光を浴びて、教室に帰った。櫻子は無言で僕を見送っていた。授業をサボるような気はしなかったし、いくらつまらなかろうと不快であろうと僕の性質は義務を退けられるようなものではなかったのである。
そうして最後の日。全ての最後の日。
「晴れだね」
彼女の言う通り快晴だった。空は果てが見えないほどに広がって、それを邪魔する雲一つない。乾いた風がゆるく吹いている。その辺の雑草の青臭さまで伝わってきそうなほどに、鮮明な日だった。
「あたしが人間になれたらなあ」
彼女は頬杖をつきながらそう言う。その見た目はほとんど人間の女子高生のそれと変わらない。ただ風に揺れるとゆらゆらと不安定になる部分を除いて、櫻子は人間になりつつあった。だがそれは喜ばしいことなのだろうか……と思ってしまう。
人はみな人を嫌っている。にも関わらずそれを全く表面には出さない。全ては裏で行われる。醜い。真に美しいものは人というものには存在し得ない。自然の中にしかない。――――彼女にはそうなって欲しくはなかった。彼女は唯一だった。
「人は嫌いだ」
ただ一言。櫻子は何も返さない。こちらの目をずっと見つめているような表情をしているだけだ。ゆらり、とその存在がゆらめく。蝋燭の火のように揺れて、蠢き、その姿がぐにゃりと曲がる。
「じゃあ、何が好き?」
いつの間にか流暢に喋れるようになっていた言葉。歪んだ櫻子は僕の目を見つめる。本当は答えるまでもなかった。言葉になんて出す必要もなかった。でも出したかった。君に教えたかった。いや、本当は最初から全て分かっていただろうけど、君にこの言葉を言いたかった。
「桜」
その瞬間、世界は一瞬の無色に覆われ、色とも言えぬ色がその上を塗り尽くしていった。この世の言葉では言い表せない色彩美がそこら中に溢れた。不自然は自然に変貌し、人工を淘汰し尽くす。眼の前の景色はただ『美』であった。
――――どうとも言いようがない。この異常な変化の中で僕だけが変化のないまま正常であった。本来学校の校舎であったところにはもう何も存在しない。周囲に溢れるのは謎の光やら何やら、とにかく瞬時には受け入れ難いもの、そして――――ただ一本の樹のようなもの。櫻子がいたはずの場所に佇んでいる。
それは今までの常識に照らして見ると樹とは到底言えなかった。枝いっぱいに咲き乱れた花々は人工的には決して発せない、まるで星のような光を発している。その色は――――もう色ですらない。言葉で表すにはあまりに言葉が足りなすぎる。言語など必要のないほど、そこにあるのはただ美しいものだった。
これが何なのか――――まともに理解できない。しかし僕には分かった、櫻子の変貌した成れの果てが見えた、この世の中は全てこうなったのだと瞬時に察し、僕は叫んだ。ああ、櫻だ! これが僕の、彼女の求めた櫻だ!
異常なほどに奇麗なそれを前に、僕は立ちすくんだまま動けないでいたのだった。
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