自己衝動
尊敬していたあの人が亡くなって、数ヶ月ほど経った。喧嘩別れみたいなものだった。僕が毎日のように通っていた図書室はいつの間にもとの空っぽの書庫に戻り、司書の先生も何も知らないかのようにカウンターに座っている――――。
:衝動との邂逅
僕は今も空の図書室に通い続けている。彼女が遺したのは彼女だけの【文学】。図書室の一角にこっそりとまとめられた、彼女の自作短編集の数々。それを僕は毎日のように棚に寄りかかって立ちながら読んで、そして想像する。
――――あの人の死は、一体どう表されるのだろうか。彼女の紡ぐ物語ならば、彼女はどう死ぬのだろう。もし、あの人の最期を知ることができたら……。
「君、何を読んでいるの?」
急に後ろから話しかけられて冊子が手から滑り落ちた。振り向くと一人の女子が床に中身を晒したそれを拾い上げるところだった。
「……『自己文学短編集・一』……まあ、タイトルはかっこつけてるけど悪くないんじゃない? なかなか良いものを読んでるね」
彼女は薄く笑みを浮かべながら、冊子を手渡してきた。見たことのない顔だけど、と制服を見る。校章がついていない。というかよく見たら、僕の高校の制服とはほんの少しデザインが違う。
「お前は誰だと言いたげな顔だな。はっきり言いなよ。私はついこの間転校してきた堂前硝子。まあ、硝ちゃんとでも呼べばいい。……冗談に決まってるだろう、本当に呼んだら許さないからね? 気持ち悪いし」
流れるような罵倒にたじろぎながらも、僕は彼女――――堂前硝子の中にあの人の纏っていた雰囲気を感じざるを得なかった。あの人はこんな風に僕を蔑んだりはしなかったけれど、その瞳の奥には軽蔑や嘲りがあるのは分かっていた。
……そう、その感情が彼女からも伝わってくるのだ。相手が自分よりも格下だと信じてやまない、自分は相手に信仰されるような特別な存在であると。圧倒的な自尊心が彼女を覆い、そして、どこか空虚さを感じさせるのだ。
「これから図書室……つまり君のところに毎日通うから。よろしく」
それを言いたかっただけ、と言って彼女は図書室から出ていった。初対面のはずなのに、初対面な気がしなかった。彼女は……堂前硝子は、あの人と同じなのか?
僕は手に持ったままだった短編集を開く――――『優子はどうしようもなく絶望的な幻覚を抱いた』――――……そして僕は彼女の書く小説に登場する女性の名前には、いつも『子』がついていることに気づく。僕には硝子があの人の【文学】の化身であるかのように思えてきてしまうのだった。
:理性の躊躇
「あのっ」
なんだかそのまま読む気にもなれず、本を戻して図書室を出ようとした時、一人の女子に呼び止められた。三つ編みが印象的な子だった。校章を見るにどうやら後輩だ。さっき司書の先生とカウンターにいたような気がするし、図書委員の子だろうか。
「……あの人とは、あんまり関わらないほうがいいと思います」
彼女は控えめに、そう忠告する。君が硝子の何を知っているんだ、と聞こうとしたけれど、彼女が名乗り終わった途端そんなことが聞けるような雰囲気ではなくなった。
「私は清水理子……です、先輩」
そう言うやいなや、すぐに理子はカウンターに小走りで戻っていった。図書室はこんなに閑散としているんだから、走る必要性なんてないのに。
――――ああ、君もまた、あの人の産物なのか――――そんな思考が僕の脳内で溶けて飽和していった。
:衝動の誘惑
――――九条紫、二年、文学部部長。僕が尊敬していた彼女はあの日、自宅のマンションから身を投げた。最後の会話は僕の失言により喧嘩……いや、絶縁を迫られたという方が近いのだろうか。つまりは地雷を踏んでしまったというわけだ。
とにかく、最後に見た彼女は今まで見たことがないほど怒っていて、『仲直り』なんてできそうもなかった。……だけれど、あれが本当の九条さんだったのだ、と今なら分かる。僕は彼女にとって、ただの妄信者にすぎなかった。
でも、いつもこうして今のように向かい合って座り、時折彼女の小説について話したり、議論を交わしたりしていたな、なんて懐かしく思う。
「堂前さん」
目の前に座る、あの人そっくりの女子に声をかけてみる。
「何」
本に集中していたのか、不機嫌そうに返事された。こういうところも、彼女に似ている。僕が話しかけるといつも邪魔されて嫌そうなのが顔に出るんだ。分かりやすくて助かるところでもあったけれど。
声をかけたのは定期テストも近いし……と問題を解いていたはいいものの、全く理解できない部分があったからだ。この機会に硝子に聞いてみようと思った。まあ、もしかしたら硝子は僕より頭が悪い、という可能性もあったけれど。
「本当に馬鹿だなあ」
彼女はそう言って僕を冷たい目で見つめる。その後深く軽蔑のため息をついて、彼女は言った。
「私が君に勉強を教える……? そんなことするわけないだろ、時間が無駄になるじゃないか」
嘲笑って、その話題はその瞬間に断ち切られた。
……あの人は僕の前で勉強やら学校の話なんてほとんどしなかった。あの人との会話なんて思想と文学だけで十分だったからだと、今ならわかる。もしくは、彼女よりも僕のほうが優れていることがあったとしたら、彼女が壊れてしまうから、とかだろう。
それなりの学力と成績を持っていたはずだ、彼女は。けれどそれは脆く、人並みの『努力』すらも嫌う彼女では保つことすらできなかっただろう。
「はー、つまんない」
本をぱたりと閉じて、ぐいと伸びをする。
「どうせ教えるくらいならもっと楽しいことがいいかなあ」
そう言って彼女は立ち上がり、じりじりと僕に詰め寄ってくる。それは獲物を狙う獣と変わらず、ゆっくりと僕に狙いを定めて首筋に噛みつこうとしているように見えた。【衝動】のまま、僕を噛み殺してしまうかのようにも思える。
「見たいんでしょう、人の死を」
硝子はささやく。それこそ悪魔のように、僕を惑わすように。全てを知っていて僕を欺くように。頭の中であの人の死の妄想が、何度も何度も繰り返される。永遠にループする。その妄想から抜け出して、死んだあの人の片鱗を見たい。
「人生は一度きりだもんね、我慢してたってしょうがないさ」
無理だ。だめだ。倫理的におかしい。そんな言葉が喉に詰まって出てこない。当たり前だ、だって僕の本心はそれを、望んでいるから。道徳的とか倫理的とかそんなものどうでもいい、ぼくはあの人の迎えた死をより深く感じたい。僕は黙ったまま彼女を見つめた。
「……ふふ、返事は決まったようだね」
僕は彼女が荷物をまとめるのを、ただ眺めた。
「明日の放課後、図書室裏で待っているよ」
彼女はそう言って、図書室の扉を雑に開けて出ていった。
:理性の説得
言うまでもなく、理子は歩み寄ってきて僕を諭す。
「……だめです、先輩」
いや、まだ君には何も――――
「私には分かるんです、分かっちゃうんです、先輩が何をしようとしているのか」
真っ直ぐに僕を見つめる。
「あの人の誘いに乗ったら、だめです」
本当にそうなのかは、わからないし、僕もまだ……決めてない。
「あなたが一番分かってるはずでしょう」
その言葉にも、僕の【衝動】は止められなかった。
「戻れなくなりますよ」
僕は図書室の扉を押した。それが彼女への、遠回しな答えだった。
「……そうですか」
理子の残された部屋に広がるのはただ、静寂のみ。
:衝動の暴走
翌日硝子に呼び出された通りの場所へ向かうと、そこには眠っている司書の先生がいた。
「ちゃんと来たね、よし、始めよう」
そして、ナイフを手に持った彼女。
「彼女が今から死ぬから、よく見ておくんだ」
え、と声が漏れた。詳細を聞こうとしたときにはもう遅く、先生の首を掻き切るナイフが見えたところだった。
鮮血が溢れる。最悪のタイミングで目を覚ました先生がもがく。声は出ない。ただヒューヒューと息が喉から吹き出すばかりだ。彼女は何度も何度もその首にナイフを突き立てる。その制服が赤黒く染まっていく。硝子の白い肌にべっとりとその液体がまとわりつく。
「ほら、君もやってごらんよ」
彼女が僕にナイフを押し付けてくる。はねのけようとその手に触れると、残ったのは気持ち悪い血の感覚。思わず僕は彼女を突き飛ばし逃げ出した。
:自己への衝動
僕は必死で逃げた。バレないようにできるだけ人のいない通路を選んだ。こっそりと手洗い場で念入りに手を洗った。それでもまだあのべたべたしたものが残っているような気がして、ずっとズボンで手を拭き続けていた。何もついていない。ついていないはずなのに感覚が消えない。
息が切れる。廊下に立ち止まった。後ろから急に足音がした。
「ズボンに血がついていますよ。怪我でもしたんですか? 大丈夫?」
突然僕に話しかけてきたのは、新任の女の先生だった。さっき、ズボンはちゃんと確認したはずだ。僕の見えないところにあったのか? うっすらと香水のような匂いがする。それは僕にとって気持ちの悪いもので、吐き気がした。
「どうしたんですか?」
相手は僕の顔を覗き込む。冷や汗が出る。止まらなくなる。背中がじっとりと濡れていく。シャツが肌に張り付いて不快感が増す。
「ああ、それとも――――人でも殺したんですか?」
息ができなくなる。目の前の先生だったはずのものの顔部分がどんどんと歪んでいく。溶けて溶けて溶けて崩れる。それは人としての原型を失いどろどろと流動する。
僕は咄嗟に逃げた。追いかけてきている気はしなかったけれど、全力で走った。ふと目を向けたところに明かりの付いた美術室があって、僕は思わずそこの扉を開けて中に飛び込んだ。
「おや、やっとたどり着いたか」
彼女がいた。なんだか、僕、おかしいんだ。そう口に出そうとする。
「とっくの昔におかしくなってる」
間髪入れず、硝子は答えた。
「君は、私と出会った時点で、とっくに狂っていたんだよ」
にっこりと、子供に言い聞かせるように。
「それとも、あの人が死んだ時点で……かな?」
手に持ったナイフをくるくると弄びながら、彼女はそう言った。あれ、僕は君にそんなこと……と言おうとして、口をつぐんだ。
――――その傍らにあるのは、理子の死体だった。
「ああ、この子?」
げしげしとそれを足で踏みながら、彼女は言う。僕は止めなきゃいけないはずなのに、全く動けなかった。彼女は僕を支配しきっている。
「ふふ、君の好みはこんな大人しくて可愛らしい子じゃないだろ?」
違う。そう言いたかった。僕は本当はこういう、おとなしめで可愛らしい後輩みたいな娘が好きなんだ、って。【理性】的で他人思いの物静かな文学少女。僕のことを慕って想ってくれる優しい女の子。
「違う。私みたいな、【衝動】に駆られた獣みたいなのがいいんだよな?」
胸ぐらを掴まれ、ぐ、と僕の首が締まる。その瞬間今すぐに叫びだしたくなった。そうです! 僕が本当に好きなのは、九条さん、あなただ! と!
眼の前にいるのは明らかに堂前硝子であった。だけれども、僕が見る彼女は、九条紫でしかないのだ。既に死んでいるにもかかわらず、幻想の【文学】に囚われ【衝動】のままに動く文学少女! 僕を見下し傷つけて、自分よりも格下だと安心して眠りたい、そのためだけに僕を蔑む、そんな彼女を僕は望んでいるのだ!
「はは、君も随分とこじらせているようで」
そうしてまた目の前の九条紫は僕に嘲笑を浴びせる。そうだ、これだ。僕が欲しかったのはこれだ。あの最後の一瞬だけでなく、僕はずっと彼女に見下されたかったのだ。
「君を見下す私を――――君は見下して快感を得てるんだね、……本当にどうしようもない奴だ」
彼女のその言葉に喜ばずにはいられない自分がいる。僕は、あの人、九条さんよりもずっと格下で、まともじゃない。まともじゃないからこそ、【衝動】に支配されるんだ!
そう、【衝動】が【理性】を殺し、そしてしまいには【自己】を殺すから。
「ようやくあの人のもとに行けるだろうね」
そうなったらきっとあの人は疎ましがるだろうな、なんて思うとすこし笑みが溢れた。今はそんな嫌悪の視線さえ懐かしく、僕の望むものであると思うのだ。もしあの人の自嘲の【文学】にまた触れられるのなら、この身を【衝動】に焼かれたっていい。
「その傲慢な願い、叶えてあげるよ」
硝子は満足そうに微笑む。ああ、結局は彼女の思い通りなのだろう。でも構わない。それでいいんだ。あの人の【文学】のままに僕は生きたい。あの人が、九条さん、あなたが僕を【文学】にしてくれたんだ。あなたの幻想が僕を狂わせる。【衝動】を抱かせる。【理性】が意味を成さなくなる。
「人生は一度きりだからね」
――――あの人によく似た彼女の握るナイフが僕の腹に突き刺さった時、初めて僕の手のひらのひどく熱いことに気がついて、……その手には、ナイフがあったのだ。いや、さっき僕は彼女に、……何が起きたのだろう?
なにもわからない。ただ、【衝動】のままに僕は倒れた。【理性】が戻ることはなかった。
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