自己文学論
私にとって【文学】とは何か。生きがいだとか人生だとか恋人だとか、そんな軽率でありきたりな答をしたくはない。それは永遠に答の出せないものだ。つまり、常に追い求め続ける問なのだ。
そんな問の答を考え続けることは果たして無意味なことなのだろうか? 否。考えることにこそ真の意味があるはずだ。考え、追求し、私の、私だけの【文学】を手に入れる。そのために私はまた文章と向かい合うのだ――――。
放課後の図書室の人気の無さはありがたい。教室などとは比べ物にならないほど静かで、こんな陰気なところには不似合いな爽やかな風が吹き込んでくる。
私はそんな空間にキーボードのタイピング音を響かせる。進捗はまずまずだ。部長として他の部員の小説に劣るようなものは書いてはいけない。こじらせた自尊心を必死に注ぎ込んで私は【文学】を満たそうとする。器すらないただの空間に流し込み続ける。このまま頑張れば私の望むものは出来上がるのだと信じて。
かちゃり、と音がした。目の前の机に教科書やら勉強道具やらが置かれたようだった。席は空いているのにわざわざ真向かいに人がいる場所を選ぶだなんて勇気がある……というか変わっているな、と顔を上げると、偶然にもその変人と目が合った。暑くなってきたこの時期に学ランをきっちりと着込んだ男子だった。
「あ、あのっ」
唐突に上ずった声が投げかけられた。私は受け取ろうか迷った。返事をするべきか。でもこの図書館には私しかいないし、どう見ても話しかけられているのは私だ。無視した際のメリットとデメリットを考えてみたが、どちらもそこまで思いつかなかったので答えることにした。
「何ですか」
校章の色からして同学年、二年生か。見たことのない顔、のような気がする。私は人の名前やら顔やらを覚えるのが苦手だから、忘れているだけかもしれない。
「九条紫さん、ですよね、文学部の」
控えめに発せられた声。そう、私の部活は『文芸部』ではなく、『文学部』なのだ。『文芸部』ではわからない、覚えられないなどと言う人がどうやら多いらしく、より覚えられそうな『文学部』への部名変更を申請した。私が。
にしてもよくわかっているな、変えてもなお間違える人がいるのにもかかわらず。……それなら変えなくても一緒だろうなんて鋭い意見は聞かないことにしよう。
「その、これ、あの……読んでくださいっ」
そんな『理解のある』彼は一通の封筒を押し付けてきた。突然の出来事に突き返すこともできずにそのまま受け取る。これは何、と聞こうとしたときには彼はもう逃げ出していた。
ラブレター……には見えないな、これは。彼の声は聞いたことがなかった気がするし、たぶん、話したことがない。中身はどうやらただの手紙らしい、ということを確認して私はそれをそのまま鞄へと仕舞った。今読んだからといって特に何もない。帰ってからでいい。
すぐ読んでほしいならそう言うだろう、彼のような人がそんなことを言えるかどうかは置いておいて。それに今は忙しいんだ。せっかく筆が乗っているのだから、それを妨げるようなことはしないでもらいたいところなのだが。
あーあ、やる気失せた、帰ろう。よくあるのだ、こういうことが。せっかく【文学】に深く入り込んでいたというのに、邪魔をされてしまった。もういいや、締切はまだまだ先だし。結局完結させて出してしまえればいいんだし。
よし、帰る。もういい。荷物をリュックに戻して背負う。パソコンといくつかの教材しか入れていないから、ひどく軽い。私は置き勉主義者なのだ。ただでさえ執筆で肩が凝るのだし、リュックくらいは軽くして負担を軽減させようという作戦である。
相変わらず人のいない図書室から出て、ごく普通に玄関で靴を履いて、家に帰った。
家の中は静かだ。母はこの時間、多分仮眠を取っているだろう。できるだけ音を立てないように、ゆっくりと自分の部屋に向かう。階段がぎしぎしと鳴る。大きな音を立ててしまって、母に怒られはしないだろうかとひやひやした。
扉を開けると、少し肌寒い空気が広がる。二階っていうのはいつもそうだ。夏は熱くて冬は寒い。だからといってエアコンをつけるのは電気代的にもよくないからひたすら我慢。夏なら窓を開けて、冬なら布団を被ればいい。
今日はそんなことをしなくても耐えられそうだから、普通に鞄を床に置いて椅子に座った。さて、課題は終わらせたっけ、と中身を漁る。
かさり、と聞き慣れない音がした。あ、そっか、手紙。鞄の中にそのまま入れっぱなしだったんだ。気が向いたから読んでみようかとその封を破った。
――――はじめまして、どうしても九条さんの作品について感想を伝えたかったので、直接は恥ずかしいのでこのような形で伝えたいと思って手紙を書かせていただきました。邪魔をしてしまったかもしれませんが、すみません。
九条さんの作品は一文目から引きが強くてすぐに世界観にのめり込むことができました。描写が丁寧で情景を想像しやすくて、活字を読むのが苦手な人でもわかりやすいと思います。僕のようにいつも読書をしているような人間でも読み応えと面白さがあって、何度読んでも飽きないのはすごいなと思いました。哲学的で、どこか神秘的な作風がとても好きです。次の作品も楽しみにしています。
へえ、と思った。今まで私の小説が褒められたことなんてなかった。内容が難解、言葉が難しくてわかりにくい、ストーリー性がない、個人の思想が強すぎる……。それをむしろ良いことと取る人がいたのか。
少し、……いや、本当は、すごく嬉しい。他の人に私の【文学】が認められたんだ。こんなの、ラブレターなんかをもらうよりもずっとずっと嬉しい。私が人より優れていると認められたかのような感覚。今すぐにでも踊り出したいくらいに気分が高揚した。
でも、名前が書いてないな。まあ名前なんて関係ないか。私には私の【文学】の信者ができたんだ。これは私の優秀さを示すことにもなる。私は、他より優れている。
次の日、彼はまるでラブレターの返事を貰いに来たかのようにまた図書室にやってきた。そして、私はそれに応えた。私たちは友人のような、恋人のような、それでいて他人のような、そんな教祖と信者になった。私は彼の名前を知らないし、知る気もない。信者はただの信者だ。
ただ、私の【文学】を認めてくれているのなら、それだけでいい。彼の人間性も何もかもどうでもいい。ただ、欲しいのは【文学】への称賛――――。
――――選択。
【文学】と一般生活の選択。
進路希望のプリントが配られた私はひどく悩んだ。【文学】を選んで、私がしたいように生きていくのか。一般生活を選んで大学に進学して、平凡に生きるのか。
……結局、プリントには『大学進学』と書いた。県外の文学部文学科への進学をしようと決めたのだ。私の思う【文学】と、世の中で言う文学とを、深く考えながら探究し続けたい。一般の道から逸れない程度に答を追い求め続けたいと思ったのだ。
でも私は正直、勉強も運動も労働も好きじゃない。本当は小説だけ書いていられればそれでいい。
図書室は校内のどの場所よりも涼しい。エアコンをしているのに窓が開いていようとも、そもそもこの校舎自体があまり日が当たらなくて涼しいのだ。一応書くだけ書いたプリントを脇に置き、パソコンと向き合う。『大学進学』の文字が横目に見えて、思わずため息をついた。
「【文学】だけで生きていければ、苦労しないのに」
思わずそんな言葉が零れ出る。いつも通り目の前に座る彼がいる。
「……いくら九条さんでも、それは難しいと思いますけど」
やけによそよそしいその言葉が、私の劣等感を刺激した。まるで彼が私より正しくて……賢いかのようで。たとえ本当にそうだったとしても、私には、私よりも優れた人間がいるということが許せなくて。
既に破裂寸前だったそれは、彼が意図せず放った小さな棘によって、爆発した。木っ端微塵になった。
「――――そんなの分かってんだよ、馬鹿」
自分でも初めて出すような声だった。自分の声はここまで怒気を含むことができたのだ、と思った。そして私は怒っているのだと改めて自覚した。ぐしゃ、と無意識に握りしめていた進路希望のプリントが歪む。
「く、九条さ」
彼が狼狽える。その瞳には焦りが浮かんでいる。彼はこのあと私の機嫌を取ろうとして私の【文学】を褒めちぎるだろう。ああ、本当に不快だ。
「キミは本当につまらない、私の【文学】は不完全だと、そう言いたいんだ?」
ついに何も言わなくなった。
「私が欲しかったのは私の【文学】の妄信者だけだよ、キミは私を否定したね? もういい、二度と私の前に顔を見せないで。私の【文学】に触れたいのなら勝手にしなよ、私は二度とキミとは関わりたくないんだ」
私がそう言い放つと、彼はそそくさと図書室から逃げ出していった。荷物を一つも忘れることなく。こういうところはきちんとしているくせに、人の地雷を踏んでばっかりなんだな、人間関係ももっとそんなふうに考えろよ、なんて心のなかで毒づく。
……私の言われたくないこと、知っていただろうに。
ああ、失敗だった。彼を信じて、私の【文学】を授けたのが甘かった。そうだ、みんなそう。私がその辺りの人達と同じだと思って見下しているの? 小説しか能のない人間だとでも思ってるの?
静かな図書室は答えなかった。だけれど自問自答は止まらない。
……その通りだ。私には【文学】しかない。誰が私のことを嫌おうと、私が何もできなくなろうと、【文学】だけは私の味方だ。だからもういい。彼のことは知らない。彼が褒めてくれた【文学】が急激に価値を失っていく。ああ、やっぱりあんなの【文学】じゃなかった。私の書く小説は、未だ小説として成り立たない。そんな拙いものを【文学】だなんて呼べない。
じゃあ、彼の言ったことは正しかったのか。私が間違っていたのか? そんなわけない。じゃあ、何が正しいんだ? 間違っているんだ?
「九条さん、図書室閉めるよ?」
気がつけば外は既に真っ暗で、あまりに集中していた私を気にかけてか図書室の先生が話しかけてきた。適当な返事をして、慌てて荷物をまとめて図書室から出る。
今日の進捗はいまいちだった。というか、ずっと考えていて小説なんて手につかなかった。私の【文学】は、間違っている? 私の小説は、【文学】なの? 目の前がよく見えない。真っ暗だからだろうか。吹奏楽部はまだ部活をやっているのか、楽器の音がどこからか響く。
頭の中がぐるぐるする。それでも人間、やるべきことはやれるらしい。自然と玄関へたどり着くことができていた。深くため息をつく。それでも酸素が頭に回っている気がしない。うまく息が吸えているのかわからない。
暗い中、自分の靴箱から靴を取ろうとして、かさり、という音に気付いた。吹奏楽部の金管楽器の音色たちに埋もれて気付かないのではないかというくらい、小さな音。演奏の合間だったからだろうか、そのかすかな音が私の耳を満たし、そして思い出した。
あの時、彼にもらった手紙が鞄の中で擦れた時、同じ音がしたんだ。ああ、また彼か。靴箱の奥に手を突っ込むと、案の定封筒が入っていた。よく見えないけれど、あの時と同じデザインの封筒のような気がする。
今すぐ読まなきゃいけない気がして、私は明かりの近くへ移動してすぐに封筒を開いた。便箋はたったの一枚だった。走り書きしたような文体で、彼の言葉が綴られていた、のだが。
ごめんなさい、そんなつもりじゃなくて、僕はそんな……。弁解の言葉ばかりが並んだ便箋。違う、私はそんなものが欲しかったんじゃない。必要なのはただ【文学】への賛美だけ。私はその手紙をそのまま玄関近くのゴミ箱へとぶちこんだ。
……もしかしたら、それすらもいらないのかもしれない。私の【文学】は、私だけで完成させられる。他の誰の助けもいらない。私の、私自身の全てを【文学】に注げば、それだけでいいんだ。そうだ、どうして思い至らなかったのだろう。私は一人でいいんだ。今までだってそうしてきた。
だから彼なんていなくたっていいんだ。私を、私の【文学】を否定する他人なんて必要ない。ただ私を称賛して高めてくれる、【文学】の糧になる人だけでいい。でもそんな人、私以外には絶対にいないから。
そう、私だけでいいんだ。
――――永く追い求め続けた答――――ようやくぼんやりと、答が見え始めた気がする。【文学】とは、私自身。私を【昇華】して【文学】とする、それだけ。私にもやがかかって、少しずつ、少しずつ消えて、【文学】になるんだ。
そこに他人なんていらない。あるのは、もう存在しない私の概念だけ。それが【文学】だ。不幸も幸福も、絶望も希望も、私のすべてが【文学】に【昇華】される。そして私の自己意識が、私の人生が【文学】になるんだ。
想像するだけで、心の奥底からぞくぞくとした優越感が襲いかかる。外に広がる深い闇と淡い月明かりが、私を誰よりも【文学】的に染める。こんな素晴らしいことができるのは、きっと私だけ。私に才能があるから、そう信じていたいだけなんだ。たとえ私が凡人のまま死んでも、そこに残るのは紛れもない【文学】だろう。……ああ、そうであってほしい。
私は一歩踏み出し、その先の【文学】へと浸かっていく。その先に何があるのかはまだ分からない。だけど現実に目の前にあるのは、ただ、いつもの帰路だった。
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