第6話『雪の重力』
その日から、雪が上向きに降り始めた。
地面から空へと昇っていく白い結晶を、人々は最初、目の錯覚だと思った。しかし、それは紛れもない現実だった。雪は重力に逆らって上昇し、灰色の雲の中に吸い込まれていった。
私の妻、由美子は、その現象を「帰還」と呼んだ。
「雪が故郷に帰るのよ」と彼女は言った。そして三日後、由美子も雪と同じように上昇していった。
それは午後三時のことだった。私たちは散歩の途中で、突然、由美子の体が地面から浮き始めた。彼女は驚いた表情を見せることもなく、ただ穏やかな顔で空を見上げていた。
「大丈夫よ」
それが由美子の最後の言葉だった。私は必死で彼女の手を掴もうとしたが、指先はすり抜けた。由美子の体は徐々に透明になり、雪のような白い結晶となって、空へと消えていった。
その後、同じような現象が世界中で報告されるようになった。人々は突然、雪のように結晶化し、空へと昇っていく。しかし、それは誰にでも起こることではなかった。ある種の人々だけが「帰還」を果たした。
心理学者たちは、「帰還」する人々に共通点があると指摘した。彼らは皆、深い喪失を経験していた。愛する人を失った人、故郷を追われた人、自己のアイデンティティを見失った人。そして不思議なことに、彼らは皆、その喪失を受け入れていた人々だった。
由美子もそうだった。五年前、私たちは流産で子供を失った。由美子は長い間苦しんだが、最後には静かにその現実を受け入れた。あの日の散歩の途中、彼女は子供の名前を密かに呟いていた。
私は毎日、上昇する雪を見つめている。時々、それらの結晶の中に人の形を見つけることがある。微かな輪郭、懐かしい仕草、どこか見覚えのある表情。
科学者たちは、この現象を説明しようと必死だった。重力の局所的反転、量子的な状態遷移、平行世界への移動。しかし、どの理論も完全な説明には至らなかった。
ある夜、私は夢を見た。由美子が雪の中で微笑んでいた。彼女は私に手を差し伸べ、何かを語りかけていた。しかし、その言葉は聞こえない。目が覚めると、枕元に一片の雪の結晶があった。室温は20度を超えていたが、その結晶は溶けることはなかった。
今朝、私は自分の手のひらが少し透明になっていることに気がついた。それは恐怖ではなく、どこか懐かしい感覚を呼び起こした。窓の外では、雪が静かに上昇している。
由美子、もうすぐ会えるね。
『雪解けの記憶』「死と再生を巡る6つの物語」 ソコニ @mi33x
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