【医学生短編小説】白衣の花園 ~命の形を見つめて~(約5,800字)

藍埜佑(あいのたすく)

【医学生短編小説】白衣の花園 ~命の形を見つめて~(約5,800字)

## 第1章:春の訪れ


 桜の花びらが舞う四月の朝、鹿島凛子は東京大学医学部の校門をくぐった。緊張で少し早めに家を出たせいか、まだ誰もいない中庭には、朝もやと桜の花びらだけが漂っていた。


「凛子ちゃーん!」


 背後から聞こえた声に振り返ると、小走りで近づいてくる親友の月城詩織の姿があった。いつもの黒縁メガネに、少し癖のある栗色の髪を後ろで一つに束ねている。


「おはよう、詩織」


「もう、凛子ちゃんったら、先に来ちゃうんだから。待ち合わせって約束したでしょう?」


 詩織は凛子の腕にしがみつくように寄り添った。華奢な体つきながら、意外と力強い腕の感触に、凛子は少し笑みを漏らす。


「ごめんごめん。緊張して眠れなくて」


「わかるよ。私だって昨日の夜はほとんど眠れなかった」


 二人は肩を寄せ合いながら、医学部の建物に向かって歩き始めた。今日から始まる解剖実習。医学部に入学して一年が経ち、いよいよ本格的な医学の勉強が始まる。


 凛子は自分の胸の高鳴りを感じながら、ちらりと詩織の横顔を見つめた。幼い頃からの親友は、相変わらず可愛らしい。丸みを帯びた頬に、切れ長の瞳。緊張のせいか、少し紅潮している。


「ねぇ、凛子ちゃん」


「うん?」


「私たち、これから本当の医者になっていくんだね」


 詩織の声には、不安と期待が入り混じっていた。凛子は黙って頷く。医学部に入学した時から、この日が来ることは分かっていた。しかし、いざその時を迎えると、想像以上の重みを感じずにはいられない。


 講堂に着くと、すでに何人かのクラスメイトが集まっていた。窓際で静かに本を読む成瀬美咲。いつも一人でいることが多い彼女だが、凛子は時折見せる儚げな笑顔が気になっていた。


「おはよう、成瀬さん」


 凛子が声をかけると、美咲は少し驚いたような表情を見せた後、かすかに微笑んだ。


「おはよう、鹿島さん、月城さん」


「今日から解剖実習だね。緊張する?」


「ええ、少し……」


 美咲の言葉は途切れがちだった。詩織が自然な流れで美咲の隣に座り、話しかけ始める。


「私なんて昨日の夜、全然眠れなかったんだから。成瀬さんみたいに落ち着いているのが羨ましいな」


「いえ、私も……実は、とても緊張していて」


 美咲の声は小さかったが、確かな意志が感じられた。凛子は二人の会話を聞きながら、窓の外を見つめた。まだ朝早い校庭には、桜の花びらが静かに舞い落ちている。


 やがて講堂は学生たちで埋まっていった。ざわめきの中に、時折緊張した笑い声が混じる。皆、これから始まることへの不安と期待を抱えているのだろう。


「おはようございます」


 藤堂教授の声が講堂に響き、一瞬にして静寂が訪れた。五十代後半と思われる彼女は、凜とした佇まいで壇上に立っていた。


「今日から解剖実習が始まります。皆さんにとって、これは医師になるための重要な一歩です」


 藤堂教授の声は、厳かでありながら温かみを帯びていた。


「しかし、これは単なる技術や知識を学ぶ場ではありません。皆さんは、かけがえのない命と向き合うことになります」


 凛子は思わず背筋を伸ばした。隣では詩織も真剣な表情で教授の言葉に聞き入っている。


「御献体してくださった方々は、医学の発展のために自らの体を捧げてくださいました。その崇高な思いを無駄にすることのないよう、真摯な態度で実習に臨んでください」


 教授の言葉が胸に染み入る。凛子は自分の手を見つめた。これから、この手で人の体の中に入っていく。その重みを、今まで以上に強く感じていた。


## 第2章:解剖実習開始


 更衣室で白衣に着替えながら、凛子は自分の心臓の鼓動を感じていた。


「凛子ちゃん、後ろのボタン、留めるの手伝って」


 詩織が背中を向けながら言う。凛子は親友の首筋に視線を落としながら、小さなボタンを丁寧に留めていく。


「はい、できたよ」


「ありがとう。私も凛子ちゃんの分、手伝おうか?」


「お願い」


 今度は凛子が背中を向ける。詩織の指先が背中に触れる度に、少しくすぐったい。


「ねぇ、凛子ちゃん」


「うん?」


「私たち、これからずっと一緒だよね」


 詩織の声には、どこか不安が混じっていた。凛子は振り返り、親友の手を握った。


「当たり前でしょ。小学校の時からずっと一緒だったんだから、これからもそう」


 詩織の目が潤んだように見えた。


「うん!」


 二人が実習室に入ると、すでに何人かの学生が集まっていた。中央に並べられた解剖台。その一つ一つに白い布が掛けられている。


「鹿島さん、月城さん、こちらです」


 美咲が手を振っていた。彼女と同じグループになれたことを、凛子は密かに嬉しく思った。


「今日から、よろしくお願いします」


 美咲の横には、もう一人の同級生、立花陽子がいた。いつも明るく活発な彼女も、今日は珍しく落ち着いた様子を見せている。


「みんな、来たわね」


 藤堂教授が近づいてきた。


「これから実習を始めますが、まずは黙祷をささげましょう」


 四人は静かに目を閉じた。凛子は、目の前の白い布の下で眠る方への感謝の気持ちを込めて、しっかりと手を合わせた。


「では、始めましょう」


 教授の声を合図に、凛子たちは慎重に白い布をめくり始めた。その瞬間、詩織の手が少し震えているのが分かった。凛子は自然な動作で、その手に自分の手を重ねた。


「大丈夫」


 囁くように言うと、詩織は小さく頷いた。


 最初の切開を入れるまでの間、誰も声を発することはなかった。ただ、四人の呼吸だけが、静かな実習室に響いていた。


## 第3章:揺れる心


 解剖実習が始まって二週間が経った頃、凛子は自分の中で何かが少しずつ変化していくのを感じていた。


 最初の数日は、メスを持つ手が震えることもあった。しかし、日を重ねるごとに、人体の精緻な構造に対する驚きと畏敬の念が、その戸惑いに取って代わっていった。


「凛子ちゃん、これ見て」


 詩織が指さす方向には、複雑に絡み合う神経の束が広がっていた。


「こんなにも繊細な構造が、私たちの体の中にあるなんて」


 詩織の目は好奇心に輝いていた。白衣姿で真剣な表情を浮かべる親友の姿に、凛子は目を奪われた。普段の柔らかな雰囲気とは異なる、凛とした美しさがそこにはあった。


「ねぇ、詩織」


「うん?」


「私たち、本当に医者になれるかな」


 突然の問いかけに、詩織は少し驚いたような表情を見せた。


「どうしたの? 凛子ちゃんらしくないね」


「ううん、ただ……この二週間で、医学の深さを改めて実感して」


 凛子の言葉を遮るように、詩織が両手で凛子の頬を挟んだ。


「大丈夫だよ。私たち、絶対になれる。だって、凛子ちゃんは私が知ってる中で一番優しくて、一番賢い人なんだから」


 詩織の真っ直ぐな瞳に見つめられ、凛子は思わず目を逸らした。


「なんだか、照れるな……」


「あら、珍しい。凛子ちゃんが照れるなんて」


 詩織がくすくすと笑う。その笑顔に、凛子の不安は少しずつ溶けていった。


 その日の午後、美咲が実習室で一人、じっと何かを見つめているのを見つけた。


「成瀬さん?」


「あ、鹿島さん……」


 美咲は少し慌てたように視線を逸らした。その手には一枚のノートが握られていた。


「どうしたの?」


「これ……御献体してくださった方のカルテの写しなんです」


 美咲は小さな声で続けた。


「最期まで、ご家族の写真を枕元に置いていたそうです」


 凛子は黙って美咲の横に座った。


「私、考えてしまって……この方の最期の思い出は、どんなものだったのかなって」


 美咲の声は震えていた。


「きっと、温かいものだったと思う」


 凛子はそっと美咲の肩に手を置いた。


「この方は、私たちに多くのことを教えてくれている。その中には、命の重さだけじゃなくて、命の温かさも含まれているはずだから」


 美咲は小さく頷いた。その瞳には、涙が光っていた。


## 第4章:命の重み


 実習が佳境に入った五月の終わり、凛子たちのグループに一つの転機が訪れた。


「今日は、心臓の解剖を行います」


 藤堂教授の声に、実習室全体が緊張に包まれた。


「人体の中で最も雄大で、かつ繊細な臓器です。細心の注意を払って、お願いします」


 凛子は深く息を吸い、ゆっくりとメスを持ち上げた。しかし、その時、立花陽子が急に後ずさりした。


「私、ちょっと……」


 顔が青ざめている。


「立花さん?」


 凛子が声をかけた時には遅く、陽子はよろめきながら実習室を飛び出していった。


「私、追いかけてくる」


 詩織が凛子に目配せし、陽子の後を追った。


 残された凛子と美咲は、しばらく沈黙を守った。


「鹿島さん」


「うん?」


「私たち、本当にこれでいいのかな」


 美咲の声は、いつになく真剣だった。


「どういう意味?」


「こうして、人の体を解剖することが……」


 凛子は、メスを置いて美咲の方をじっと見つめた。


「成瀬さんの気持ち、わかるよ」


 凛子は静かに言葉を紡いだ。


「でも、だからこそ私たちは、この方の体から学ばせていただくことの意味を、しっかりと心に刻まなければいけないと思う」


 その時、実習室のドアが開き、詩織と陽子が戻ってきた。陽子の目は少し赤くなっていた。


「ごめんなさい、みんな」


「大丈夫?」


 凛子が尋ねると、陽子は小さく頷いた。


「うん。ちょっと、急に色々なことを考えてしまって……でも、もう大丈夫」


 詩織が陽子の背中をそっと撫でながら言った。


「私も最初の頃は、よく泣いていたんだよ。夜も眠れないことがあって」


「そうだったの?」


 陽子が驚いたように詩織を見つめる。いつも明るく振る舞う詩織のそんな一面を、誰も知らなかった。


「うん。でも、凛子ちゃんが私の手を握ってくれて、『この経験は、きっと私たちを優しい医者にしてくれる』って」


 詩織は凛子を見つめながら続けた。


「その言葉で、私は自分の気持ちと向き合えたの」


 四人は静かに見つめ合った。そこには、言葉以上の理解が流れていた。


「じゃあ、続けましょうか」


 凛子の言葉に、全員が頷いた。


## 第5章:一輪の花


 実習も終盤に差し掛かったある朝、凛子は早めに実習室に向かっていた。昨夜、ふと思いついたことがあったのだ。


 実習室に入ると、まだ誰もいない静けさが漂っていた。凛子はそっとバッグから取り出したものを、解剖台の脇に置いた。


 小さな一輪挿し。そこには、一輪の白い百合が活けられていた。


「これは?」


 背後から声がして振り返ると、藤堂教授が立っていた。


「あの、私……」


「素敵なことをするのね」


 教授は優しく微笑んだ。


「私も学生の頃、同じような気持ちになったわ」


 その言葉に、凛子は少し驚いた。厳格な印象の藤堂教授が、こんな柔らかな表情を見せるとは思っていなかった。


「先生も?」


「ええ。医学を学ぶということは、人の命と向き合うということ。その重みを感じた時、自然とこういう気持ちになるものなのよ」


 教授の言葉は、凛子の胸に深く響いた。


 その日の午後、実習室に入ってきた詩織が、その花を見つけた瞬間の表情を、凛子は忘れることができなかった。


「凛子ちゃん、これ……」


「うん」


 言葉は必要なかった。詩織は静かに微笑み、凛子の手をぎゅっと握った。


 次の日、凛子が実習室に入ると、目を疑う光景が広がっていた。全ての解剖台の脇に、一輪の花が供えられていたのだ。


 白い百合、赤いカーネーション、ピンクのガーベラ……様々な花々が、静かな実習室に彩りを添えていた。


「みんな、同じ気持ちだったのね」


 美咲が小さな声で言った。その目には、涙が光っていた。


「うん」


 陽子も頷きながら、自分の供えた黄色い菊の花を見つめていた。


 その時、詩織が駆け込んできた。両手には、小さな花束が抱えられていた。


「ごめん、遅くなっちゃった! 私も……」


 言葉を詰まらせる詩織に、凛子は優しく微笑みかけた。


「いいタイミングよ。みんなでお供えしましょう」


 四人は静かに、しかし確かな思いを胸に、花々を並べていった。


 藤堂教授は、その様子をドアの外から見守っていた。その瞳は、かすかに潤んでいた。


 窓から差し込む朝日に照らされ、花々は一層鮮やかに輝いていた。それは、まるで命の輝きそのもののようだった。


## 第6章:新たな一歩


 解剖実習の最終日。凛子たちは、これまでの数週間を振り返りながら、最後の片付けを行っていた。


「なんだか、あっという間だったね」


 詩織が言いながら、使用済みの器具を丁寧に洗浄していく。


「そうね。でも、私たちの中で、何かが大きく変わった気がする」


 凛子の言葉に、美咲が静かに頷いた。


「最初は、ただ怖かった。でも今は……この経験が、私たちを医師として、そして人として大切な何かを教えてくれたように思います」


 陽子も器具を拭きながら言った。


「そうだね。私も、人の命の尊さを、体の中から学んだ気がする」


 実習室の窓から、夕暮れの柔らかな光が差し込んでいた。


「ねぇ、みんな」


 詩織が突然、声を上げた。


「最後に、お別れの挨拶をしましょう」


 四人は解剖台の前に立ち、深々と頭を下げた。言葉には表せない感謝の気持ちを、全身に込めて。


 その時、藤堂教授が入ってきた。


「皆さん、お疲れ様でした」


 教授の声には、普段には無い温かみが感じられた。


「最後に、私から一つ、話があります」


 教授は一枚の写真を取り出した。それは、花々が供えられた実習室の様子を撮影したものだった。


「この写真を、御献体された方のご遺族にお送りしました。そうしたら……」


 教授は一通の手紙を取り出した。


「『医学を志す若い方々の、このような優しい心遣いを知り、主人も喜んでいることでしょう』というお返事をいただきました」


 凛子は思わず、詩織の手を握りしめた。詩織も、強く握り返してきた。


「皆さんは、これから様々な場面で、人の命と向き合うことになります。その時、今日までの経験を思い出してください」


 教授の言葉が、静かな実習室に響く。


「医学は確かに科学です。しかし、それ以上に、人の心と向き合う営みでもあるのです」


 夕暮れの光が、四人の白衣を優しく照らしていた。


 実習室を出る時、凛子は最後にもう一度、振り返った。もう花々は片付けられていたが、その香りと、そこで学んだ全てのことは、確かに心に刻まれていた。


「凛子ちゃん」


 詩織が声をかけた。


「これからも一緒だよ」


「うん」


 凛子は親友の手を取った。医師への道のりは、まだ始まったばかり。でも、この実習で学んだことは、きっと二人を、そして皆を、より良い医師への道へと導いてくれるはずだった。


 桜の季節は終わりを迎えていたが、凛子たちの心の中では、新しい何かが、確かに芽吹き始めていた。


(終わり)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

【医学生短編小説】白衣の花園 ~命の形を見つめて~(約5,800字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画