【百合短編小説】シルエット・ソナタ 〜二人で奏でる永遠の調べ〜(約6,600字)

藍埜佑(あいのたすく)

【百合短編小説】シルエット・ソナタ 〜二人で奏でる永遠の調べ〜(約6,600字)

## 第1章:出会いのプレリュード


 春風が音楽棟の窓を優しく叩いていた。ピアノの音が廊下に漏れ出し、春の陽気とともに建物全体を包み込んでいく。練習室の一つで、藤堂春香は呼吸を整えながらショパンのノクターンに向き合っていた。


 長い黒髪を一つに束ね、すらりとした指が鍵盤の上を舞う。二十歳になったばかりの彼女は、幼い頃からピアノと共に生きてきた。音楽大学でさらなる高みを目指す春香だが、最近どこか心に迷いがあった。


「技術は確かなのに、何かが足りない……」


 指導教授の言葉が頭から離れない。


 春香は深いため息をつき、楽譜と向き合う姿勢を正した。その時、ふと廊下から聞こえてきた歌声に、彼女は動きを止めた。


 透明感のある、しかし芯の強いソプラノ。まるで春の光のように清らかで、どこか切なさを帯びた声が春香の心を捉えて離さない。


 思わず立ち上がり、練習室のドアを開ける。廊下の向こうから、その歌声は聞こえていた。


 声の主は、声楽棟の練習室にいた。春香は思わずその部屋の前で足を止めた。ドアの小さな窓から覗き込むと、一人の女性が目を閉じて歌っている姿が見えた。


 シューベルトの「魔王」。難曲として知られる歌曲を、彼女は見事な表現力で歌い上げていた。春香は思わずその場に立ち尽くし、最後の音が消えるまで聴き入った。


 歌い終えた女性が目を開けると、そこで立ち尽くす春香と目が合った。


「あ、ごめんなさい! 」


 慌てて頭を下げる春香。しかし相手の女性は柔らかな笑顔を向けてきた。


「いいのよ。聴いていてくれて嬉しいわ」


 伸びやかな黒髪を肩で切り揃え、凛とした佇まいの中に優しさを感じさせる女性。それが、星野麗子との出会いだった。


「藤堂春香です。ピアノ科の2年生」


「星野麗子よ。声楽科の2年生。よろしくね、春香さん」


 麗子は、春香より少し背が高く、整った顔立ちの中にどこか凛とした雰囲気を漂わせていた。


「素晴らしい歌声でした。思わず聴き入ってしまって……」


「ありがとう。でも、まだまだ納得できないの。特にここの表現が……」


 麗子は楽譜を手に取り、悩ましげに眉を寄せた。


「良かったら、私が伴奏させていただけませんか? 」


 突然の申し出に、春香自身が驚いた。しかし、この声とピアノを合わせてみたい気持ちが抑えられなかった。


「本当? 嬉しいわ。伴奏者を探していたの」


 そうして二人は即興の共演を始めた。ピアノと声が重なり合い、練習室は豊かな音色で満たされていく。時折目が合うと、二人は微笑み合った。音楽を通じて、既に何かが通じ合っているような感覚。


 その日から、二人は放課後の練習室で顔を合わせるようになった。春香は麗子の歌に寄り添うように伴奏を奏で、麗子は春香のピアノに合わせて声を重ねる。


 春の陽光が差し込む練習室で、二人の音楽は少しずつ深まっていった。


## 第2章:心のアダージョ


 新緑が鮮やかな五月。春香と麗子の関係は、音楽を通じて徐々に親密さを増していった。


「春香のピアノ、最近変わってきたわ」


 練習後、二人で帰り道を歩きながら麗子が言った。


「そう? どんな風に? 」


「そうね……より柔らかく、でも芯のある音になった気がする。まるで誰かの心に触れるような……」


 麗子の言葉に、春香は頬が熱くなるのを感じた。確かに、麗子と出会ってから、自分の音楽が少しずつ変化していることを感じていた。


 それは技術的な向上というよりも、むしろ心の機微が音に反映されるようになったことだった。麗子の歌声に導かれるように、春香のピアノも感情表現が豊かになっていった。


「麗子の歌のおかげよ。いつも心を震わせてくれるから」


「私も春香の伴奏があるから、安心して歌えるの」


 夕暮れの街を歩きながら、二人は音楽について、将来について、様々な話を分かち合った。時には立ち止まって、道端の花を眺めたり、街角の猫に話しかけたりする。


 ある日の練習後、春香は麗子を自分のアパートに招いた。狭い一室だが、大切に手入れされたアップライトピアノがある。


「綺麗なピアノね」


 麗子は優しく鍵盤に触れた。


「ずっと私の伴侶よ。でも最近は、麗子との演奏の方が心が躍るの」


 春香の言葉に、麗子は柔らかな笑みを浮かべた。その表情に、春香は何か強く心を揺さぶられるものを感じた。


 窓から差し込む夕陽が、二人の姿を優しく照らしている。春香は思わず、麗子の頬に触れた。滑らかな肌の感触が、指先から伝わってくる。


「麗子の頬、本当に柔らかいのね」


「春香のその手つき、まるでピアニストみたい」


 麗子は春香の手を取り、自分の頬に押し当てた。その仕草には、どこか甘えるような愛らしさがあった。


 二人の距離が、自然と縮まっていく。互いの呼吸を感じられるほどの近さで、二人は見つめ合った。


「春香……」


 麗子の囁くような声に、春香の心臓が高鳴る。


 そっと顔を近づけると、麗子は目を閉じた。春香は、麗子の長い睫毛や、整った鼻筋、柔らかそうな唇のラインを、まるで大切な楽譜を読むように見つめた。


 二人の唇が重なったとき、それは最も優美なハーモニーのように感じられた。


 その後、二人は互いの体の温もりを確かめ合うように、そっと触れ合った。麗子の耳たぶに触れれば、小さな震えが伝わってくる。春香の首筋を撫でれば、かすかな吐息が漏れる。


 それは言葉では表現できない、触れ合いによる対話だった。音楽が二人を結びつけ、そして今、その絆は身体的な親密さへと変化していく。


「春香の手が触れる度に、私の心が躍るわ」


「麗子の温もりを感じていると、私も幸せな気持ちになるの」


 夜が更けていくにつれ、二人の触れ合いは深まっていった。それは探検のように、地図を作るように、相手の新しい一面を発見する時間。


 しかし、その幸せな時間の中にも、かすかな不安が忍び寄っていた。春香は留学のチャンスを掴もうとしており、麗子にはオペラ歌手としての夢がある。二人の将来は、まだ霧の中にあった。


## 第3章:触れ合いのノクターン


 梅雨の季節を迎え、キャンパスには雨の音が響いていた。練習室で向かい合う二人の姿は、以前にも増して親密さを増していた。


 春香は麗子の歌声に合わせて指を動かしながら、時折横目で彼女の表情を窺った。麗子が目を閉じて歌う姿には、神々しいまでの美しさがあった。


「今日は調子がいいわね」


 一曲を終えて、麗子が春香に微笑みかける。


「ええ、麗子の声に導かれるように、自然と指が動くの」


 二人は練習後、いつものように春香のアパートへと向かった。雨の音を背景に、二人は静かな時間を共有する。


「春香、留学の話、どうなった? 」


 突然の問いに、春香は少し躊躇った。


「ウィーン国立音楽大学からの返事を待っているところ。でも……」


「でも? 」


「麗子と離れたくないの」


 正直な気持ちを告げると、麗子は優しく春香の手を握った。


「私も寂しくなるわ。でも、これはあなたの夢でしょう? 」


 麗子の言葉は温かく、しかし何かが胸に刺さるように感じた。


 二人は互いの体温を感じながら、黙り込んだ。雨の音だけが、静寂を埋めていく。


「麗子の手、少し冷たいわ」


 春香は麗子の手を両手で包み込んだ。


「春香の手は温かいのね」


 自然な流れで、二人は抱き合った。麗子の体から漂う柔らかな香りに、春香は心が落ち着くのを感じる。


「春香の髪、シルクみたい」


 麗子は春香の長い黒髪に指を通した。その仕草に、春香は身震いした。


「麗子の指先が触れる度に、私の心が躍るの」


 二人は互いの温もりを感じながら、ゆっくりと寄り添っていく。触れ合いは、やがて深い愛情表現へと変わっていった。


 窓の外では雨が降り続け、部屋の中は静かな闇に包まれていく。しかし、二人の感覚は研ぎ澄まされていた。視覚に頼れない分、触覚はより繊細になる。


「春香……あなたの全てが愛おしい」


「麗子も……私の大切な人」


 二人は互いの体の地図を、心を込めて描き続けた。それは長い旅のように、終わりのない探求のように、愛おしさに満ちた時間だった。


 しかし、その深い愛情の中にも、将来への不安が影を落としていた。ウィーンからの返事を待つ春香。オーディションに向けて準備を始める麗子。二人の道は、少しずつ異なる方向を示し始めていた。


 雨音を聞きながら、春香は麗子を強く抱きしめた。今この瞬間だけは、未来のことを考えたくなかった。ただ、愛する人の温もりを感じていたかった。


「どんなに離れても、私たちの音楽は繋がっているわ」


 麗子の囁きに、春香は黙ってうなずいた。二人の心は、音楽という見えない糸で結ばれている。それは、距離や時間を超えて響き合う、永遠のハーモニー。


 その夜、二人は互いの体温を感じながら、静かに眠りについた。窓の外では、雨が優しく降り続けていた。


## 第4章:別れのバラード


 夏の終わりが近づく頃、春香のもとにウィーンからの手紙が届いた。


「合格……したの」


 震える手で封筒を握りしめる。これは憧れの留学のチャンス。しかし、春香の心は複雑な感情で揺れていた。


 その日の練習後、春香は麗子に手紙のことを告げた。夕暮れの練習室で、二人は向かい合って座っている。


「おめでとう、春香! 」


 麗子は満面の笑顔で祝福の言葉を贈った。その笑顔の裏に隠された寂しさを、春香は見逃さなかった。


「でも、麗子……」


「行きましょう。これはあなたの夢だもの」


 麗子は春香の手をしっかりと握った。その手に込められた想いが、春香の胸を締め付ける。


「私も、オーディションに合格したの」


 麗子の言葉に、春香は息を呑んだ。


「ミラノ・スカラ座の研修生として、イタリアに行くことになったわ」


 二人は長い沈黙の後、笑い合った。運命のいたずらとも言えるような展開に、言葉を失う。


「私たち、それぞれの夢を追いかけることになるのね」


「ええ。でも、それは……きっと正しい選択よ」


 その夜、二人は春香のアパートで最後の時間を過ごした。窓から差し込む月明かりが、二人の姿を銀色に染めている。


「春香の指、本当に綺麗」


 麗子は春香の手を取り、一本一本の指に唇を寄せた。


「麗子……」


 春香は麗子を強く抱きしめた。温かい体温、柔らかな髪の感触、優しい香り。全てを記憶に刻み付けたかった。


「忘れないで。私たちの音楽を」


 麗子の囁きに、春香は黙ってうなずいた。二人は言葉以上に、触れ合いで気持ちを伝え合った。


 指先で相手の輪郭をなぞり、唇で肌の温もりを確かめ合う。それは別れを惜しむような、でも未来を信じるような、切なくも愛おしい時間だった。


## 第5章:再会のファンタジー


 二年の月日が流れた。


 春香はウィーンで研鑽を積み、麗子はミラノで歌声を磨いていた。二人は時折メールを交換し、それぞれの成長を喜び合っていた。


 そして運命は、思いがけない形で二人を再会させる。


 ウィーン楽友協会のホールで開かれる日本人音楽家による特別演奏会。春香はソリストとして、麗子は声楽家として招かれていた。


 リハーサル室で二人が出会ったとき、時間が止まったかのように感じた。


「春香……」


「麗子……」


 駆け寄って抱き合う二人。変わらない温もり、懐かしい香り。しかし、二人とも確実に成長していた。


 春香の演奏は以前にも増して深みを増し、麗子の歌声はより力強く、より繊細になっていた。


 その夜、二人はウィーンの街を歩いた。石畳の上を歩く足音が、懐かしい記憶を呼び起こす。


「春香は変わらないわね。でも、どこか違う」


「麗子も、より美しくなった。でも、この温もりは昔のまま」


 静かな路地裏で、二人は唇を重ねた。懐かしくも新しい感覚に、心が震える。


「ホテルに来て」


 麗子の誘いに、春香は頷いた。


 部屋に入ると、二人は言葉を交わす代わりに、ゆっくりと服に手をかけた。月明かりの中、二年分の想いを込めて触れ合う。


「春香の体、少し引き締まったわね」


「麗子は相変わらず、シルクのように滑らか」


 指先で確かめ合うように、二人は互いの変化を感じ取っていく。練習で鍛えられた春香の腕、舞台で磨かれた麗子の佇まい。


 しかし、心の繋がりは少しも変わっていなかった。むしろ、時を経て深まっているように感じられた。


## 第6章:永遠のソナタ


 演奏会当日、春香と麗子は最後のステージを共に迎えた。


 シューベルトの「魔王」。二人の出会いの曲が、今また二人を結びつける。


 ピアノの前に座る春香、その横で歌い出す麗子。二人の音楽は、まるで一つの魂から生まれるかのように響き合う。


 会場を包み込むハーモニーの中に、二人の想いが溶け込んでいく。技巧を超えた感情の深さが、聴衆の心を揺さぶった。


 演奏を終えた後、二人は楽屋で見つめ合った。


「私たち、やっぱり一緒に音楽を奏でるべきなのかもしれない」


 春香の言葉に、麗子は静かに頷いた。


「でも、まだ私たちには夢がある」


「ええ。だからこそ、この瞬間が愛おしいの」


 その後、二人はそれぞれの道を歩み続けた。しかし、定期的に共演の機会を作り、音楽と愛を分かち合った。


 時には大きなコンサートホールで、時には小さな教会で。二人の音楽は、常に特別な輝きを放っていた。


 そして、五年の月日が流れた後。


 春香は世界的なピアニストとして、麗子は一流のオペラ歌手として、確固たる地位を築いていた。


 東京の新しいコンサートホールのこけら落としに、二人は招かれた。


 控室で、春香は麗子の手を取った。


「もう、離れる必要はないわ」


「ええ。私たちの音楽は、これからもずっと一緒に」


 ステージに上がる直前、二人は静かに寄り添った。これまでの全ての経験が、この瞬間のために存在したかのように。


 指先で触れ合う感覚、温もりを感じる喜び。それらは全て、永遠の愛の証となっていた。


「春香……」


「麗子……」


 二人の音楽は、これからも響き続ける。それは愛の調べであり、永遠のソナタ。


 幕が上がり、新たな演奏が始まろうとしていた。二人の指先が、また新しい音楽を紡ぎ出す。


 それは終わりのない愛の物語。永遠に奏でられる、二人だけのシルエット・ソナタ。


# エピローグ:永遠の誓い


 春の柔らかな陽光が差し込む窓辺で、春香は一通の手紙を読み返していた。麗子からの手紙。世界各地での演奏活動を続ける二人は、時にこうして手紙を交わすことを習慣にしていた。


「CD録音、順調に進んでいるわ。でも、あなたの伴奏が恋しいの……」


 麗子の言葉に、春香は微笑んだ。確かに、別々の場所で活動することも多かった。しかし今、大きな決断をする時が来たと感じていた。


 その夜、オンラインビデオ通話で顔を合わせた二人。


「麗子、私たちもう迷う必要はないと思うの」


「ええ、その通りよ」


 二人は同時に言葉を発して、笑い合った。


「私たち、正式に結婚しましょう」


 春香の言葉に、麗子は目を潤ませながら頷いた。


「ヨーロッパなら、私たちは法的に結婚できるわ」


 二人は真剣に話し合った。これまでのキャリア、これからの音楽活動、そして何より、共に過ごす人生について。


 数ヶ月後、ウィーンの古い教会で、二人は静かな挙式を挙げた。


 春香は淡いブルーのドレス、麗子は純白のドレスに身を包んでいた。


「春香、あなたと出会えて本当に良かった」


 指輪を交換する時、麗子の声が微かに震えた。


「麗子、あなたは私の音楽であり、人生そのものよ」


 誓いの言葉を交わした後、二人はピアノの前に座った。結婚式でデュエットを披露することを、二人は決めていた。


 シューベルトの「魔王」――出会いの曲が、今また新しい出発の曲となる。


 演奏を終えると、集まった友人たちから温かな拍手が送られた。


 その後、二人はウィーンの閑静な住宅地に新居を構えた。広いリビングには二台のピアノを置き、毎日音楽と共に暮らしている。


 世界各地での演奏活動は続けながらも、二人の音楽はより深い愛情に支えられていた。


「おはよう、春香」


 ある朝、麗子は目覚めたばかりの春香の頬にそっとキスをした。


「おはよう、麗子。今日は新しい曲の練習があるわね」


「ええ。でも、その前に朝食を作りましょう」


 二人で料理を作り、コーヒーを淹れる。そんな日常の一つ一つが、かけがえのない時間となっていた。


 夕暮れ時、二人は連弾の練習をしていた。指が触れ合うたび、結婚指輪が小さな音を立てる。


「私たちの音楽、より深くなったわね」


「ええ。これからもずっと、一緒に奏でていきましょう」


 窓の外では、夕陽が街並みを優しく染めていた。二人の影が一つに重なり、永遠の調べを奏でている。


 それは、終わりのない愛の協奏曲。二人で紡ぐ、永遠の誓いのソナタ。


(了)


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