【吃音百合短編小説】囁きの距離(約5,400字)
藍埜佑(あいのたすく)
【吃音百合短編小説】囁きの距離(約5,400字)
●第1章 屋上の出会い
春の柔らかな風が、高校二年生の桜庭彩音の肩に触れた。
教室から抜け出した彼女の足取りは、いつもと同じように屋上へと向かっていた。階段を上がる足音が、静かな廊下に響く。鉄の扉を開けると、晴れ渡った青空が視界いっぱいに広がった。
「は……」
小さなため息が、彼女の唇からこぼれる。いつものように屋上の隅にあるベンチへと向かい、静かに腰を下ろした。
ここが彩音の居場所だった。昼休みになると必ずここへ来て、広がる空を眺める。教室で他の生徒たちが楽しげに会話を交わす中、彼女だけがそこにいられない理由があった。
「……」
無意識に自分の唇に触れる。そこから紡がれる言葉は、いつも彼女を裏切った。幼い頃から、言葉が詰まるたびに投げかけられる冷たい視線や、時には失笑。それらが彼女の心を少しずつ蝕んでいった。
吃音。それは彩音の影のようについて回る存在だった。一度言葉が詰まると、さらなる緊張を呼び起こし、次の言葉を押し込める負のループ。そのため、彼女は必要以上に話すことを避けるようになった。
教室での彩音は、ただそこにいるだけの存在だった。授業中も発言を求められることはなく、グループ活動でも誰も彼女に話しかけてこない。それが当たり前になっていた。
「あ、やっぱりここにいた!」
突然の声に、彩音は驚いて振り返った。
茶色く染めた髪をポニーテールに結んだ少女が、扉の方から駆けてくる。白井陽菜。クラスで一番活発で、誰とでも楽しそうに話す女の子だ。
「今日も一人で何考えてたの?」
陽菜は、まるで親しい友達のように彩音の隣に座った。距離が近すぎて、彩音は思わず身を縮める。
「べ……べべべ、別に……」
小さな声が震える。それ以上何も言えなくなる。
「別にって言いながら、実は私のこと考えてたりして?」
陽菜は茶目っ気たっぷりに笑う。その表情があまりに眩しくて、彩音は目を逸らさずにはいられなかった。
「ち、ちが……う……」
否定の言葉が、喉の奥で引っかかる。
陽菜の笑顔が、少しだけ寂しそうに曇る。それを見た彩音の胸が、妙に痛んだ。
「大丈夫だよ、彩音ちゃん」
陽菜は優しく微笑むと、彩音の手に自分の手を重ねてきた。温かい。その感触に、彩音は思わず目を見開いた。
「無理に話さなくていいの。でもね、彩音ちゃんが考えてること、もっと知りたいって思うの。言葉じゃなくても、何かで伝えてくれたら嬉しいな」
陽菜の瞳には、迷いのかけらもない。その真っ直ぐな視線に、彩音は言葉を失った。自分を不完全な存在だと諦めていた彩音には、それがあまりにも眩しすぎた。
「……で、……でで……でも……」
震える声。けれども、陽菜の目はじっと自分を捉えて離さない。その視線に導かれるように、彩音は小さく頷いた。
春風が二人の間を通り抜けていく。
それは彩音の人生が、少しずつ色づき始めた瞬間だった。
●第2章 心の距離
陽菜との出会いから、一週間が過ぎていた。
毎日の昼休み、陽菜は必ず屋上にやってきた。話好きな彼女は、教室での出来事や友達との会話、時には些細な独り言まで、次から次へと話題を展開する。その様子は、まるで小鳥のさえずりのようだった。
彩音はただ黙って聞いているだけ。それでも陽菜は決して彩音に無理強いすることはなかった。時折、彩音の表情を確認するような優しい眼差しを向けながら、自然な間を取りながら話を続ける。
「ねぇ、彩音ちゃんって何か趣味とかあるの?」
ある日、陽菜がそう尋ねてきた。
「……」
彩音は少し考え込む素振りを見せた。趣味と言えるものはあったが、それを説明する自信がなかった。
「あ、ごめんね。答えづらかったよね」
陽菜は申し訳なさそうに笑う。
「……す、数……」
彩音は小さな声で呟いた。
「数? もしかして数学?」
陽菜の目が輝く。彩音は小さく頷いた。
「わぁ、すごい! 私、数学苦手なんだ。でも彩音ちゃんって、テストの時いつも満点だよね」
彩音は驚いて陽菜を見た。自分の成績なんて、誰も気にしていないと思っていた。
「数字って、な、なんだか……や、安心する……」
珍しく、彩音から言葉が紡がれる。
「へぇ、どうして?」
陽菜は genuineな興味を示しながら、彩音の方に身を乗り出してきた。その仕草に、彩音は少しだけ心が躍るのを感じた。
「……う、嘘を……つ、つかないから……」
そう言って、彩音は空を見上げた。青い空には、薄い雲が風に流されていく。
「言葉と違って……数字は……い、いつも……お、同じ……」
陽菜は黙って聞いていた。その瞳には、彩音の言葉を一つも聞き逃すまいという真剣さが宿っていた。
「そっか。数字は彩音ちゃんの友達なんだね」
陽菜のその一言に、彩音は小さく目を見開いた。今まで誰にも理解されなかった自分の気持ちを、陽菜は実に簡単な言葉で表現してくれた。
「私も彩音ちゃんの友達になれたらいいな」
陽菜はそう言って、優しく微笑んだ。その笑顔に、彩音の胸の奥で何かが震えた。
●第3章 数字の言葉
夏の日差しが照りつける放課後、職員室の前で立ち止まっていた彩音の姿を、陽菜は偶然見かけた。珍しいことに、彩音は数学担当の織田先生と話をしていた。
「桜庭さん、この前の数学オリンピックの予選の採点結果が届いたわ」
織田先生は嬉しそうに紙を手にしている。しかし彩音は困ったように俯いたまま、小さく首を横に振った。
「……い、い……いいです……」
「でも、満点だったのよ? しかも、解答の方法が素晴らしかった。私も思いつかないような証明方法で……」
彩音は顔を真っ赤にして、ますます俯くばかり。陽菜は少し離れた場所から、その様子をそっと見守っていた。
「本選に出場する権利があるのよ。あなたの才能を活かさない手はないわ。きっと……」
彩音は突然、深く頭を下げると、廊下を小走りに去っていった。織田先生は残念そうにため息をつき、職員室に戻っていく。
翌日の昼休み。いつものように屋上で二人は向かい合っていた。
「ねぇ、彩音ちゃん」
陽菜は慎重に言葉を選びながら切り出した。
「昨日、織田先生と話してるところ、ちょっと見ちゃった。数学オリンピック、満点だったんだね」
彩音は驚いたように目を見開き、すぐに視線を逸らした。
「……べ、……べつに……たまたま……」
「たまたまじゃないよ。先生が言ってたよ。誰も思いつかないような証明方法だって」
彩音は膝を抱えるようにして、小さな声で話し始めた。
「……す、数字は……わ、わわ私の……と、ともだち、みたいな……。こ、ここ言葉と違って……うそを……つ、つかない……。で、でも……それを人に……せ、せせ、説明するのは……む、むずかしくて……」
陽菜はゆっくりと彩音の隣に座り、その肩に優しく手を置いた。
「そっか。数学は友達なんだね。でも、その才能を隠しておくのはもったいないと思う」
「……せ、説明できないと……だ、だめ、でしょ? た、たとえ……こ、こたえが……あ、あってても……」
「違うよ」
陽菜は真剣な眼差しで彩音を見つめた。
「答えを出すことと、それを説明することは別物だよ。彩音ちゃんは、自分の才能を吃音のせいで否定する必要なんてない」
彩音は驚いたように陽菜を見つめ返した。その瞳には、小さな涙が光っていた。
「……ほ、ほんと?」
「うん、本当だよ。私、彩音ちゃんの才能を誇りに思う。これも彩音ちゃんの大切な一部分だもん」
彩音は小さく頷いた。陽菜の言葉は、彼女の心の奥深くに染み込んでいくようだった。数学という自分だけの世界も、否定しなくていいのかもしれない??そんな気持ちが、少しずつ芽生え始めていた。
●第4章 新しい一歩
秋の訪れを感じさせる風が、屋上を吹き抜けていく。
「彩音ちゃん、今日放課後空いてる?」
いつものように陽菜が問いかけてきた昼休み、屋上のベンチに並んで座る彩音は小さく頷いた。そして、意を決して口を開いた。
「……い、……いいいい……一緒にぃ……か、……かかか……帰る?」
短い言葉。それでも、言い終えた瞬間、彩音は息を切らしたような心地になった。陽菜は驚いたように目を丸くし、次の瞬間には満面の笑みを浮かべた。
「もちろん! 彩音ちゃんから誘ってくれるなんて、めっちゃ嬉しい!」
陽菜の笑顔を見て、彩音の胸の奥に小さな温もりが広がった。
その日の放課後、二人は夕暮れの街を並んで歩いた。陽菜が楽しげに話す声を横で聞きながら、彩音はその姿をそっと見つめる。彼女の言葉をもっと聞いていたいと思う反面、自分も何か伝えたいという思いが胸を押し上げる。
立ち止まったのは、公園の小さな噴水のそばだった。陽菜がふと足を止め、振り返る。
「彩音ちゃん、最近ちょっとずつ話してくれるようになったよね。すっごく嬉しいけど……無理してない?」
心配そうに見つめられ、彩音は一瞬ためらった。でも、陽菜の優しい瞳を見ていると、不思議と勇気が湧いてきた。
今なら、言えるかもしれない――自分の言葉で、本当に伝えたいことを。
彩音は深呼吸を一つして、陽菜の目をまっすぐに見つめた。
彩音は胸の中で覚悟を決める。
そして、震える声でゆっくりと話し始める。
「……わ、わわわ……私は、ずずずっと……怖かっ……がった。……こ、……こここ……ここ言葉が、うううまく出ないせいで……ききき嫌われるんじゃないか……って。だ、だ、だだだ、だから……ひひひ人と話すのを……ささ……避けてた……。で、でも……ひひひ陽菜ちゃんだけは……わ、わた……わわわ、わた、わた、私に……ややや優しくしてくれた。……だ……だだから、ひ、ひひ、陽菜ちゃんの前では……わ、わわわ私も……は、はは話してみたいって……お、お、お、思えたの……」
言葉に詰まりながらも、彩音は続けた。胸の中にある思いを、最後まで伝えるために。
「だ、だだだ、だから……ああ、あり、あり、あり、ありがとう……。……それと……わわわ私、ひ、ひ、ひひ陽菜ちゃんのことが……す、す、好き……」
言い終えると同時に、彩音の目には涙が浮かんでいた。心臓が壊れそうなほど速く鼓動している。怖かった。でも、それ以上に、最後まで言えたことが嬉しかった。
陽菜はしばらく目を見開いたままだったが、すぐに柔らかい笑みを浮かべ、そっと彩音の手を取った。
「彩音ちゃん、ありがとう。ちゃんと自分の言葉で伝えてくれて。本当にすごいよ……私もね、彩音ちゃんのこと、大好きだよ」
その言葉を聞いた瞬間、彩音は涙をこぼした。陽菜が優しく抱きしめてくれる。二人の間に流れる穏やかな時間に、彩音は初めて自分の居場所を見つけた気がした。
夕陽が二人を優しく包み込んでいく。
●第5章 私たちの場所
季節は冬へと移り変わっていた。
屋上は寒くなったが、それでも二人はここで昼休みを過ごすことを選んだ。ただし、今では厚手のコートを羽織り、保温用のマグカップを持参している。
「あったかい!」
陽菜は温かい紅茶を一口すすった。その横顔を見つめながら、彩音は静かに微笑んだ。
あの日から、二人の関係は少しずつ、でも確実に変化していった。教室でも、陽菜は自然に彩音の隣にいるようになった。グループ活動の時も、さりげなく彩音をフォローしてくれる。
そして何より、彩音自身が変わっていた。
「桜庭さん」
ある日の放課後、織田先生が彩音を呼び止めた。
「冬季の数学オリンピック、参加してみない?」
以前なら即座に断っていただろう。でも今の彩音には、挑戦してみたい気持ちがあった。
「……は、はい」
小さいけれど、はっきりとした返事。織田先生は嬉しそうに微笑んだ。
「よかった。楽しみにしているわ」
その会話を少し離れた場所で聞いていた陽菜は、こっそり拳を握りしめていた。
大会当日。会場に向かう彩音の隣には、陽菜の姿があった。
「緊張する?」
陽菜が優しく尋ねる。彩音は小さく首を横に振った。
「……だ、大丈夫。……な、なぜか、落ち着いてる」
「そっか。よかった」
陽菜は彩音の手を軽く握った。その温もりが、彩音の心を静かに支えていた。
結果は、見事な金賞。しかも、独創的な解法が高く評価され、特別賞も受賞した。
「おめでとう!」
陽菜は飛び上がらんばかりに喜んでくれた。彩音は照れくさそうに微笑む。
「……あ、ありがとう。……ひ、陽菜ちゃんのおかげ」
「違うよ。これは全部、彩音ちゃんの力だよ」
そう言って、陽菜は彩音をぎゅっと抱きしめた。
春が近づいてきた頃。二人はいつものように屋上にいた。
「ねぇ、彩音ちゃん」
陽菜が空を見上げながら言う。
「私ね、彩音ちゃんの吃音のこと、全然気にならないの。だって、それも彩音ちゃんの一部だから。むしろ、一生懸命言葉を探して、私に伝えようとしてくれる姿が愛おしくて……」
彩音は驚いて陽菜を見つめた。陽菜は照れくさそうに微笑む。
「私、彩音ちゃんのことを、もっともっと知りたいの。これからも一緒にいていい?」
その言葉に、彩音の胸が熱くなった。
「……う、うん。……わ、私も、陽菜ちゃんともっと……い、いろんな話がしたい」
二人は互いを見つめ合い、優しく微笑んだ。
春風が二人の髪をそっと撫でていく。かすかに桜の香りが漂う中、彩音は確信していた。これが自分の居場所なのだと。言葉の壁に怯えていた少女は、今では自分の言葉で、大切な人との距離を少しずつ縮めていた。
たとえ言葉が詰まっても、たとえ上手く話せなくても、それは彼女の個性の一部。そして、その全てを受け入れてくれる人がいる。その事実が、彩音の世界をこれほどまでに温かく、優しいものにしていた。
(終わり)
【吃音百合短編小説】囁きの距離(約5,400字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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