流浪の賢人、深山幽谷の天嶮にて弟子の試験を行なう

まさつき

前編 弟子の試験

 今は昔のことである。


 唐国からくにより渡り来た、道登どうとう法師という賢人がいた。


 長身痩躯、行き交う女が尽く頬を染め膝を崩して腰を抜かすというほどの美男である。歳の頃は二十七かそこらにしか見えないが、実のところは定かでない。


 法師を名乗るが、唐国で仏法を修めた後に道術を極めて仙人となり、気まぐれに東の島国へやって来て、今度は陰陽の道を身に着けたという変わり者であった。とっくに天上へ昇天していてもおかしくないのだが、閨房けいぼうの術を極めたいだのと理屈をつけて地に残り、諸国を渡る旅を続けている。


 道登にはひとり、童子の弟子がいた。名を制多せいたという孤児である。


 故あって縁を得て、仙骨を備えていた制多に興味を持ち、制多も道登に良く懐いたものだから、弟子として連れ歩く事になった。


 才ある子であった。生まれながらの武人といってもいい。


 制多の武術の腕前は幼い頃からなかなかのもので、特に金砕棒かなさいぼうを得意とした。二十斤はあるかという金砕棒を軽々と振る怪童だ。どんな体術武術でも、一目動きを見ればおよそのところは呑み込んで身につけてしまう。


 ところが。道術の覚えはそうはいかない。からきし、なのだ。


 仙骨を備えている、素質は申し分ない……なのにおかしなこともあるものだと、こればかりはさすがの道登も首をかしげるほかなかった――


 さてこれは、そんな子弟の数奇な流浪の旅路における、逸話のひとつである。



    §


 道登と出会ってから四年が過ぎ、制多が十一歳になった頃。


 道登は、旧知の高僧が住職を務める寺を訪ねる旅の途中、制多を伴い深山幽谷にそびえる天嶮の地に立ち寄った。今では保高嶽ほたかだけと呼ばれる辺りである。


 制多の足元、切り立った崖の下には、見渡す限りの雲海が広がっていた。雲間からは、切れ切れにわずかな樹木が見えるのみである。


「御師さん、こんな辺鄙へんぴなところへやってきて、いったい何をするんだい?」


 昼飯も抜きのまま獣も近づかない急峻な山を登って、何の用事があるのかと思えば。道登はただ制多を、崖の縁に立たせるのみなのだ。


 ここから小便でもしたら、さぞや気持ち良かろうなと制多が思いかけたとき――


「ここからね、飛んでもらおうかと、思いましてね」


 ようやく師が口にしたのは、弟子が小便を飛ばすという話ではなかった。一体何を言い出すものやら、制多にはとんと訳が分からない。


「飛べって……御師さん、おいら死んじまうと思うんだけど?」


「何を言いますか。まがりなりにも私の弟子です、もう四年も教えているのです。道術の心得ぐらいは身についたでしょう? この程度の崖から落ちたって、死にやしませんよ」


 修行を始めて早四年。しかし、童子はまだまだ人の域にある。常人よりも、多少頑丈というに過ぎない。制多は、不安混じりに呆れた声で抗弁した。


「だからって。飛べって御師さん、おかしくない?」


「だからね、これは試験なのです。お前はまだ自分が飛べないと思っているようですが、このあいだ見せたじゃないですか――空の飛び方」


 口角を上げ目尻を下げて、柔和な顔で道登は理不尽を言い放つ。あらゆる術を極めた人なのに。どうやら「教える」という才についてはからきしなんだなと、制多は師と四年を過ごして、ようやくに気づきはじめていた。


 困った仙人だ。とはいえ、師である。逆らうわけにもいかない。


 たしかに、師は雲に乗って見せはした。風に身を任せ宙をも舞った。しかし、理屈はない。都の往来で見世物にすれば、さぞや銭が稼げて路銀にも困らないだろうなと、制多は思ったものである。


 あの曲芸披露が教えだったとは……もう少しやりようが無いのかと、制多も最後の望みと食い下がる。


「見せられたけど……見せられただけなんじゃ……」


 ところが道登、まるで意に返さない。


「ほれほれ、とにかくさっさと飛びなさい。日が暮れてしまいます……よっ!」


 ひと声かけると法師は愛弟子の背中を、錫杖の先でひょいと突いた。


 軽く小突かれただけなのに、発条ばねが弾けたように制多の身体が吹っ飛んた。あっという間に彼方へ遠のき、童子の姿は豆粒のようになった。


 師匠への恨みがましい叫びを幽玄な谷間に響かせながら、弟子の姿は雲海の中へと落ち、消えてしまう。


「ふむ。『あーれー』なんて、本当に言うものなんですねぇ」


 白い闇の底に吸い込まれる制多の姿を見届けると、呑気にひとつあくびをし、近くの大木に背を預けて。道登は居眠りを始めるのだった。



   §


 さて、制多である。


 道登法師の言った通り、確かに死にはしなかった。それどころか、かすり傷ひとつありはしない。


 雲海下の森の中、両の足で大地を踏みしめ、見事すっくと立っていた。制多の足元の地面は大きく窪み、童子の周囲三丈ばかりの樹々はことごとく薙ぎ倒されている。炎が立っていないだけで、まるで隕石が降った跡のようであった。


 臍下丹田せいかたんでんに力を込めて、着地と同時に練り上げた気を放ち、勢いを殺して身を護った結果だ。仙術の覚えは悪かったが、気の扱いは驚くほどに呑み込みの早い弟子なのである。


「まーったく、無茶をするにもほどがあるよ」


 悪態というより、制多の言葉はぼやきだ。師の弟子への無茶ぶりはいつものこと。すでにすっかり、慣れていた。


 着物についた埃を払いながら制多は顔を上げ、穴の空いた雲海の先を眺めた。なるほど、空でも飛ばねば戻れそうもない。急峻な崖がそびえている。


「雲に乗れだの、宙に浮かべばいいだのって……まともに教えてくれた試しがないじゃあないか」


 そういえば道登と出会う前、暮らしていた集落にも教え下手の剣術使いがいたなと、制多は思い出した。気のいい翁であったから、立ち合いでの対峙の仕方などを尋ねたことがあったのだ。


「簡単だ。バァッと切りかかってきたら、スッと避けてズバっと突け」


 どうりで弟子がいないわけだと、制多は思ったものだ。


「剣の御師さんと同じだな……『見てれば分かりますよ』って、見ただけで分かるかっつーの」


 ちなみに制多は翁の剣術を、すべて呑み込み身につけている。こと武術に関してだけは「見てれば分かる」のが、制多なのだ。だが。本人にその自覚はない。


 さてしかし、師匠に悪態をついてみても始まらない。ここは、地の底も同然。


 とにかく持てる限りの手を尽くして師の元に戻ろうと、制多は心に決めた。何事にも常に前向きであるのは、この弟子の持つ徳のひとつである。


「んじゃまあちょいと……跳んでみっか」


 爪先で窪んだ地面をトントン突いて確かめると、制多は腰を落として両の拳を軽く握り、跳躍に備えて構えをとった。


 すうっと息を吸い込んで――「ていっ!」と気合一発、大地を蹴る。


 次の瞬間、制多の姿があるのは、雲海の上。跳躍のてっぺん、僅かの間空に留まる隙を使い、師の待つ辺りを確かめた。


「雲の上に出てみても、崖上までは遠いねぇ……」


 再び吸い込まれるようにして、大地に向かって落ちてゆく。ドーン――と、大きく地響きを立てて、制多は元いた窪みをさらに深くした。


 さて……どうしたものか。


 山羊や鹿の中には、急峻な崖を跳躍しながら登るものがいる。同じ要領で足場の悪い崖を跳んでいけば、そのうち上には着くだろう。


 それなら、おいらも同じく……と思いかけて、制多は考えを取り下げた。


 師が言ったのは「飛べ」である。「跳べ」、ではないのだ。どうにかして空を飛んで戻らねば、試験に合格とはならない。


 師からの挑戦にごまかしで勝つなど意味がないと分かっているし、もとより制多は根が正直なのだ。愚直と言ってもいい。


 どうにか「飛ぶ」術を得ねばならぬと、制多は思案しながら幾度か地面と雲海上との往来を繰り返した。空に跳ねつつ、あぐらをかいて思案をする。体を動かしながら考えを巡らせると、意外と良い知恵が湧くものだ。


 ――ふと、師が以前見せてくれた「水渡り」を、制多は思い出した。


 身体操作と気の操作を組み合わせて、水の上を沈まずに歩く・走るという気功の技である。これならまだ少々ヘボではあったが、制多にも心得があった。


「同じことを空中でもやれば、いんじゃね?」と、制多は知恵を絞り出した。


「まず、跳ぶだろ。んで、跳んでる最中に気を足に溜めといて、てっぺんで空を踏みしめて……おおっ!」


 頭の中でだけでは、出来たらしい。


 意気揚々として、再び雲海の上へと跳躍した。練り上げた気を足に溜め、身体が落ちだす寸前、上に跳ぼうと空を蹴る!


 ――残念、上手くはいかなかった。


 いや、違う。制多の体は、宙を蹴って確かに跳んだ。上ではなく、横に。


 鋭い殺気に襲われ身をかわそうと、制多は横に跳んだのである。

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