試読「魔術師と祝祭」
葛野鹿乃子
雨の町と指輪の祝祭
町に出た途端雨に降られてしまった。
道の向こうが雨に煙り、幻のように霞んでしまっている。
傘を持ってきてよかった。傘を差し、薄手のコートの前を掻き合わせて町に出た。
町は灰色をしている。
人影や馬車はみんな濡れそぼり、建物や地面は濃淡のある灰色になって、モノクロの絵のようになっていた。暗い色の雲が垂れ込める町は空気も重たく湿気ている。行き交う人はそれなりにいるのに人の気配は薄く、雨の音しか聞こえてこなかった。
石畳の道が雨のせいで滑る。転ばないように気をつけながら私は急いだ。
出張のために訪れたこの町での会議が終わり、この後は特にやることがない。
普段の勤務時間よりは短いし、多少は現地の観光地や食事も楽しめるので、出張ばかりもそう悪いことではない。
宿を取ると部屋に荷物を置き、コートを脱いでハンガーで吊るした。足元はそのうち乾くだろう。小さな宿屋だが庶民でも使いやすい。こうした宿でささやかな旅を楽しむことが私は好きだった。
ベッドと小さな書き物机だけがある狭い部屋は薄暗い。白いカーテンから覗く外は、やはり灰色をしていた。
私は一階の食堂に降りて宿の主にあたたかいコーヒーを頼んだ。
雨の中を歩いて身体が冷えたから、あたたかいものを飲みたかったのだ。
酒を出さない宿だから食堂は静かだ。ここでも雨の音が屋内に染み込むようにして微かに聞こえてくる。二人掛けの座席から食堂を見回すと、他にも客がいた。
ひとりで新聞を読んでいるスーツの紳士。熟年夫婦らしき二人は向かい合って静かにお茶を楽しんでいる。夕食前の中途半端な時間だからか、そんなに客はいない。
もうひとり、窓際の席で雨の降る町を見ている男がいた。
長い金の髪を流し、帽子を被った若い男だ。服装は喪服みたいに真っ黒で統一されていた。つまらなさそうに冷めた目で一体何を見ているのか。
待っているとコーヒーが運ばれてきた。
ミルクをたっぷり入れてもらった。苦いコーヒーより、まろやかな味のもので心を落ち着けたかった。湯気を上げる白いカップを手に口元に運ぶと、香ばしく、ほろ苦ささえ感じさせるコーヒーの香りが漂った。ひと口飲むと、雨で冷えた身体にぽっと火が灯るようだった。冷めないうちにコーヒーを少しずつ飲んだ。
「失礼」
顔を上げると、私の席の前に窓際で外を見ていた金髪の男が立っていた。
やはりつまらなさそうな冷えた表情でこちらを見下ろしている。
「どうにも暗い天気で参っていまして、少しお話に付き合っていただけませんか」
「はあ、一向に構いませんが」
急いで部屋に帰らないといけないわけでもないし構わない。もし何か買わせようとしてきたら早々に切り上げればいいだろう。男は硬質な表情を綻ばせて礼を言い、失礼しますと言って私の向かいに座った。
顔が整っているせいか独特の雰囲気のせいか、真正面で向き合うと自然と背筋が伸びた。物腰は柔らかいのにどこか表情が硬い。薄暗いせいか、男の肌が青白く見えた。血の気が通っていないような病的な白さだった。
「貴方は、この町は初めてですか」
「ええ、まあ」
「ここ数日雨続きで残念でしたね。この町は景色が有名です。水路にかかるアーチ橋や行き交うゴンドラ、海の傍の白い町の景色は、それは見事ですから」
「そうでしたか。明日には発たなければならないので、それは残念です」
そういえば雨のせいでまったく町の景色を楽しむどころではなかった。海なんて雨と霧に霞んでしまっている。見えるのは灰色の町だけだ。男は少し辛そうな咳をした。
「失礼しました。この町は港としても発展している町ですが、たまにこうして大雨が数日続くことがあります。旅行客にとってはもったいない話ですがね」
男は「昔は全然雨が降らない村だったそうですよ」と言う。
「村というと、この町が発展する前のお話ですか?」
「ええ。貴方は〈魔術師〉をご存知ですか? 人が心の底から願いを叶えたいと思ったときに現れ、願いを叶えるといわれるものです」
「確か、魔性だか怪物だか、とにかく得体が知れない者だそうですね」
会社の仕事の都合で出張することがよくあるから、自然と各町に伝わる奇怪な話を耳にする。その中に〈魔術師〉の話題が紛れていることがあった。
〈魔術師〉は突然現れ、どんな荒唐無稽な願いでも必ず叶えるといわれている。
しかし、願いが叶ったはいいものの、叶えたことで逆に悲劇に見舞われるというケースが世間を騒がせることがあるのだ。
例えば、原型も留めずに溺死した息子を蘇らせてくださいと願った老婆の元に、皮膚や肉が削られ、ぐずぐずにとろけた息子の成れの果てが訪れて騒ぎになったという。
人の本気の願いの果てに幸福が訪れるのか、自分の業を映す末路が訪れるかは願いにもよるし、本人の望みとはまったく違った形で願いが叶えられるかもしれないのだ。
それでも人は、強く何かを願ってしまうという。
〈魔術師〉の正体も目的も不明だが、〈魔術師〉がもたらす願いの末路はあちこちで知られている。時代も国も時間も関係なく、それは本気で願う人の元に突然現れるのだ。
男はテーブルの上に両肘をつき、指を組ませた。
右手の人差し指に嵌められた指輪が目につく。装飾の細かい金色の縁に、赤紫色の宝石が嵌っていた。食堂の薄暗いランプの光を反射して一瞬だけ光る。真っ黒な服装と青白い肌のせいで、指輪だけが切って貼ったように浮いていた。
「この町が村だった頃、ここは〈魔術師〉に願いを叶えてもらったのですよ。貴方は信じられますか?」
〈魔術師〉の噂はあちこちで囁かれている。出くわした者がいてもおかしくはないが、身近にそういう者はいなかっただけに少し面食らった。
はあ、と気の抜けた返事をした私に、男は満足げな様子で目を細めた。
「信じていないご様子ですね。よろしければその話をさせていただきましょう」
最初からその話を誰かにしたかったのかもしれないが、まあいい。会社への土産話にでもしようと思い、私は「お願いします」と言った。男はやはり満足げに頷いた。
「むかし、ここが村だった頃はただの漁村でした。ただ雨が極端に少なくて、いくら魚が獲れても海があっても、乾いていたそうですよ。数少ない雨を溜め、遠い川から水を運んでいました。あるときひどい乾期がやってきて、土はひび割れ、人々の皮膚は皴になり、空気は乾ききって砂が舞ったそうです。丸一年以上雨が一滴も降らず、溜めた水も底を尽き、遠くから水を運んできても全然足りず、水代を払えない者が倒れていきました。海の水を飲んで倒れた者もいました。そこで村人たちは海に願いをかけることにしました。遠い地から宝石の細工職人を招き、ひとつの指輪を作らせたのです」
私の視線は自然と、男が指に嵌めた指輪へと向かっていた。
「宝石がついていて、その縁取りの意匠も見事な美しい指輪だったそうです。その指輪を海に投げ入れ、村人たちは雨を心から願ったのです。何故海に雨乞いをしたのかは謎ですがね。海も雨も、人の手にはどうにもできないものだからでしょうか」
男は何が面白いと思ったのか、ふふふと可笑しそうに笑った。
「しかし願いを叶えたのは海ではなく〈魔術師〉でした。〈魔術師〉のおかげで雨が降り始め、人々の乾いた指に雨水が滴り、ひび割れた大地に雨が染み込んだそうです。雨の一滴一滴が村を潤していきました。雨の中で人々は踊り、水を好きなだけ飲むことができるようになりました。村人たちは自分たちの願いが叶ったのは指輪のおかげだと思い、年に一度、感謝を込めて似たような指輪を作らせて海に投げ込むようになったそうです。それ以来、この地はたくさん雨が降るようになり、特に数日間大雨が降ることも珍しくないそうですよ」
話を終え、男は「いかがですか」と私に感想を求めた。
「はあ、村の人たちは〈魔術師〉のおかげで願いが叶ったとは知らないのでしょう。それとも、知っていて毎年指輪を海に投げ込むのですか?」
「実は海に指輪を投げ込むのは、海によって発展したこの町の市長が、海と結婚するための儀式だともいわれています。この町は海とともに生きる、と表明する儀礼ですね」
男は突然まったく違うことを涼しい顔で言い始めた。
「待ってください。一体どちらが本当なのですか?」
「どちらも本当です、と言ったらどうなさいます?」
どうするも何も、どうもしない。ただどちらが本当のことかを知りたいだけだ。
「この町で、昔一体何があったのですか?」
突然雨の音が強く聞こえてきた。男が再び激しい咳をした。
男は私に失礼と謝ってから目を細め、口角をゆっくりと持ち上げた。
「降りすぎた雨のせいで土はどろどろの泥になり、木々は地面に倒れ、長い雨と湿気によって人々は身体を悪くし、嫌な咳をするようになってしまいました。ここより低い場所にあった村には雨が溜まり、泉ができ、そのうち湖となり、最後には海と混じっていきました。谷にあった村はほとんどが水没してしまい、若い人は高地へ逃れ、動けなくなった病人たちは故郷と命運をともにしました。人々は雨の下で倒れ込み、土と混ざり合い、海の下の村で今でも眠っているそうです。高地に逃れた人々は新たに町を築き、やがて港として発展していきました。そして雨で亡くなっていった人を弔うため、海ととともに生きるために、年に一度指輪を投げ込む儀礼ができたといわれています」
おしまいです、と男は微笑んだ。
「指輪は弔いでもあり儀礼でもあります。感謝のために指輪を投げ込むという話だけは誰かが作った嘘だと思います。ただ、年に一度の指輪の儀礼を市長が行うことも、昔村に起こった雨の悲劇も、この町の隣の谷が海になっていることも、本当のことですよ」
この男は一体何なのだろう。ひとつの村を襲った悲劇を語るにしては、同じ動きを繰り返す機械のように淡々としている。それでいて最後の微笑みには、話の内容とそぐわないちぐはぐさが目立つ。とにかく薄気味悪い。
私は早くこの男から解放されたかった。
「随分長話をしてしまいましたね。長くお付き合いさせてしまってすみません」
男は申し訳なさそうに胸に手を当て、席を立った。
男の方から去ってくれて私はほっと胸を撫で下ろした。
男が去って気づいたが、食堂にはもう私たち以外の客はいなくなっていた。
みんな部屋に引き上げたのだろう。外から聞こえてくるノイズのような雨の音が食堂に響いていた。既に夕食の時間も過ぎている。宿の者は誰も私のことに気づかなかったのか。慌てて宿の主に尋ねると、部屋も食堂も捜したが私の姿を見なかったという。
ずっと食堂にいたのにおかしな話だと思ったが、あまり深く考えなかった。遅い夕食を出してもらい、早めに床についた。
翌朝になってもまだ薄暗かった。
だが窓の外を見る限り、雨は昨日より小雨になったようだ。
朝食を摂りに食堂へ行ったが、昨日話したあの男はいなかった。避けたい気持ちが強かったから幾分かほっとした心地がするが、何となく拍子抜けした気分だった。
宿を出るとき、宿の主に金髪の男についてさりげなく尋ねてみた。
この町の由来のようなものを教えてくれた人がいたのだと軽く話してみたのだが、主は神妙な顔で私の顔を見返してきた。
「そんな男は泊めていないよ。けれどね、雨の日の夜になるとそういう男が町を歩いていると言ってくる客が前にもいた。彼はこの辺りが村だった頃、村人たちに頼まれて指輪を作った職人だったといわれている。そして雨のせいで肺を悪くして死んだんだ。自分の作った指輪と一緒に、今も海の底で眠っているって話さ」
宿の主にそんなことを教えられてから、私は宿を出た。
昨日より随分明るく感じる。空の向こうは雲が切れていて明るいから、この雨もじきに止むだろう。私は傘を差して町を歩き始めた。
橋に差しかかったところで立ち止まる。雨のせいで波紋が広がる橋の下の海は灰色のような暗い色をしていた。町の反対側は山になっている。山の麓の辺りに海へ続く河口があるのだろう。昔はあの谷の辺りが村だったのかもしれない。
彼は何を思って未だにこの町を彷徨うのか。
察するに、彼は願ったせいで滅びた村の話を誰かに伝えたいのかもしれない。彼が今も海の底で眠る理由を、彼が作った指輪が投げ込まれた理由を。
〈魔術師〉の脅威を。
私は傘を手に橋を渡った。
雨は、今日一日降り続けるだろう。
試読「魔術師と祝祭」 葛野鹿乃子 @tonakaiforest
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