08 甘い幸せ
母の入院は三週間だった。今後はリハビリでの通院が必要になってくる。
由美は免許を持っていないため、タクシーを使うしかないと思っていたが、なんと原が送迎を申し出てくれた。もちろん、原も仕事があるから毎回は無理だけれど、なんとか仕事を調整して通院に協力してくれることになった。
「初めまして。由美さんとお付き合いさせていただいております、原彰人と申します。この度は退院おめでとうございます」
退院の日。
母と原は初めて対面した。
「由美から話は聞いています。いろいろとお世話になったようで……でも、こんな面倒なことになった母がいる娘と、これからも一緒にいられるんですか?」
「面倒なことなんて一つもありません」
「通院の足として使われるだけでも?」
「由美さんのお母様のお役に立てるなら、僕は喜んで足になりますよ」
母に嫌味を言われても、原はすべて笑顔で肯定していく。
「お母さん、今日だって彰人さんが迎えにきてくれて助かってるんだから、もうそれ以上言わないで」
「……そうだったわね」
母は不機嫌に顔をそらした。
しかし、いざ車に乗り込もうとしたとき、母の動きが止まる。
入院中はベッドから車椅子への移乗は自分でできるようになったと喜んでいた。
けれど、乗りなれない車への移乗は初めてだ。
母の目に恐怖が映る。
その瞬間、原がすぐに動いた。
「僕に寄りかかってくれて大丈夫ですからね」
「あ、どうも……」
困っていたところに差し出された手には、母も従う。
原はしっかりと母の体を支え、後部座席に危なげなく移乗させた。
そうして、母の荷物と車椅子を原の車に積み込み、三人で家に帰る。
原の運転は、本人の性格を表したように安全運転だった。
「ようやく家に帰ってこられた~」
入院中、リハビリ以外の時間は暇を持て余していた母は、家に帰れた解放感で笑みをみせる。
病院食も味が薄くておいしくないと文句を言っていたので、今日は退院祝いで出前をとる予定だ。
「では、僕はお邪魔になるかもしれないので、帰りますね」
退院したばかりの母娘の邪魔をしてはいけない、と原は帰り支度を始める。
「ちょっと待ちなさい」
そんな原を引き留めたのは、母だった。
何を言うつもりなのだろう、と由美は身構える。原も同様だろう。
「由美のこと、本気で愛しているのよね?」
「はい。由美さんを好きな気持ちは誰にも負けません。それは一生変わりません」
「そう。それなら、帰る必要はないわ」
「「え?」」
母の一言に、由美と原の反応が被った。
「由美のたねにも、もう意地を張るのはやめる。将来、家族になるのなら、今からでも早すぎることはないでしょ。これからも私のことで面倒をかけるかもしれないものね」
「お母さん……!」
由美は思わず車椅子に座る母に抱きついていた。
バランスを崩しかけたところを原が支えてくれる。
嬉しくて、涙が止まらない。
「お母様、ありがとうございます!」
「あ。もちろん、由美を裏切ったら許さないから」
「そんな日、絶対にきませんから安心してください!」
嬉し泣きをする由美の傍で、二人の会話が聞こえてくる。
自分のことを大切に想ってくれる人たちが一緒にいることに、なんとも言えない幸せを感じた。
「あ、まだ言えてなかったね……お母さん、おかえりなさい」
「ただいま、由美」
「彰人さんも、おかえり」
「ただいま……でいいのかな?」
「いいんだよ!」
◆◆◆
――由美が彰人と付き合って二年後の春。
「来月の新作ケーキの試食、お願いします!」
緊張した面持ちでケーキを差し出す由美の前には、彰人と母がいる。
季節限定ケーキということで、桜をモチーフにしたケーキ。
「すごくおいしいよ! 桜の風味が口いっぱいに広がって、春を感じる」
と、笑顔の彰人。
「桜の花びらを使っているのも、可愛いわね~」
と、母もにっこり笑う。
「よかった~! 二人とも、いつもありがとう」
由美はケーキ屋ゆうらを辞めて、彰人の協力もあって自宅開業で店を出すことにした。ゆうらの店長である佐藤にもアドバイスもらいながら、半年前から店をスタートした。
焼き菓子についてはオンライン販売も行っている。
最初はどうなることかと思っていたが、思いの外順調に進んだ。
彰人が職場の大学で学生たちを相手に宣伝してくれたおかげだろう。若者を中心にSNS映えのケーキだと話題になっているのだ。
おかげで、オンラインの注文も右肩上がり。
新作の試食はいつも二人にお願いしていた。
自分の作ったケーキを大好きな母と彰人が食べて、笑顔になる。
その光景を見られるだけで胸が熱くなる。
「じゃあ、お母さんも作業に戻ろうかな」
母は体のこともあり、仕事を続けられなくなったが、店の手伝いをしてくれている。
軽度の麻痺は残ったが、リハビリの甲斐あって車椅子生活を終えて今は杖に支えられて自力で歩けるようになった。
ある程度の作業は可能ということで、母には通販の箱詰め作業や備品の整理など、雑務を任せていた。
元々は母仕事中心の生活をしていたから、むしろ何かしていないと落ち着かないのだ。体を動かすことはリハビリにも良いし、由美の手伝いもできるならと喜んでやってくれている。
店の経理事務は彰人が引き受けてくれた。
由美は数字に弱いし、経営についてもよく分かっていなかったが、彰人のおかげで開店のための様々な手続きを乗り越えられた。
「由美ちゃん、僕は本当に幸せだよ。由美ちゃんが一緒にいてくれて、甘くておいしいケーキを作ってくれて」
ケーキを食べながら、彰人が幸せそうに微笑む。
「私も、彰人さんといられて幸せだよ」
「本当に? 後悔していない?」
「もちろん」
二人の左手の薬指には、銀色に輝く指輪がある。
永遠の愛の証だ。
「私ね、砂糖よりも甘いものを知ってるんだよ」
「え? なんだろう」
「それはね――」
にっこりと笑って、由美は彰人の唇にキスをした。
「彰人さんの愛、だよ」
誰よりも、何もよりも甘い愛情をたっぷり注がれて、初めての感情を知った。
愛される幸せも、夢を叶える喜びも、信じる強さも、何もかも。
その恋は、砂糖より甘い愛になる 奏 舞音 @kanade_maine
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