07 将来の不安

 母が倒れたのは、原と付き合って半年が経とうかというときだった。


「ただいま……っ! お母さん!?」


 ある日の夜、仕事から帰ると母がリビングで倒れていた。

 何度声をかけても応答がなく、様子がおかしい。

 パニックになりながら、由美は救急車を呼んだ。

 救急隊員が到着して、最低限の荷物だけを持って救急車に乗り込み、病院へと向かう。


(お母さん、死なないで……!)


 その間、ただ母の命が助かるようにと祈ることに必死だった。

 検査後、緊急手術となり、一人で待合室で待つ。

 母はどうなってしまうのだろう。

 救急隊員は脳出血か脳梗塞の可能性が高いと話していた。

 命を落とすこともあるし、障害が残ることもある。

 これからどうなってしまうのだろう。

 不安すぎて、涙が止まらない。

 原に連絡するとすぐに駆けつけてくれた。


「由美ちゃん」

「彰人さん……! どうしよう、お母さんが……」

「大丈夫、きっと大丈夫だよ」


 震える由美の肩を抱いて、安心させるようにぎゅっと手を握ってくれる。

 待っている間に、何度も看護師や事務員が手術の説明や同意書などのために入れ代わり立ち代わりやってきたが、正直いっぱいいっぱいの由美は何を言われているのか理解できなかった。

 けれど、原が代わりに聞いてくれて、あとで由美に優しく教えてくれた。


「彰人さん、来てくれて本当にありがとう……」

「僕にできることならなんでもするよ。由美ちゃんも、少し休んだ方がいい」


 母の手術は数時間にも及んだ。その間、ずっと緊張して待ち続けるのは精神的にも身体的にもきつい。原はそんな由美を気遣って、飲み物や軽食を買ってきてくれたり、体調を気遣ってくれた。


「矢田さん、先生がお呼びです。こちらへどうぞ」


 ついに母の手術が終わった。

 母はどうなったのか。

 結果を聞くのが怖くて、血の気が引く。

 自分で歩くのもふらつく由美を原が支えてくれた。


「お母さんは一命をとりとめました」


 医者の第一声に、由美の力は抜ける。

 よかった。母は助かったのだ。


「……ですが、もしかしたら後遺症が残るかもしれません」

「今は、生きていてくれただけで……十分です」


 待っている間に、脳に関する病気はインターネットで調べた。

 無事に助かったとしても、後遺症が残り、介護が必要になることもある。

 母にどんな後遺症が残るか分からないが、これまで女手一つで育ててくれた母を支えるのは娘である自分の役目だ。

 医者からの説明を受け、母の入院手続きを進めた。

 由美だけ母の病室に案内され、多くの管に繋がれた母の姿を見て、涙があふれた。


「生きてて、よかった……お母さんがいないと、私……っ」


 まだ目を覚まさない母の傍にいたいと思っていたけれど、感染症対策で病院の面会は厳しく、病院に泊まることはできなかった。

 その間、入院に必要なものをそろえ、持ってきてくれたのは原だ。

 原には感謝してもしきれない。


「彰人さん……もし、母に介護が必要になったら、これまで通り働くことも難しくなるかもしれないし、一緒にいられる時間も少なくなると思う……だから」


 母と原の二択であれば、由美は母をとる。

 どんな状況になっても、それは変わらない。

 原に想いを返す前に、彼の負担ばかりを増やしてしまう。

 だから、別れを告げようと思った。

 しかし、由美の言葉を遮るように原が口を開く。


「由美ちゃん一人で抱え込まなくてもいい。まだ結婚もしていないし、お母さんに認められているわけではないけど、僕にも背負わせてほしい」


 真剣な表情でそう言って、原はまっすぐに由美を見つめた。


「本当に、いいの……?」

「もちろん。雑用でもなんでも僕に頼って」

「ありがとう、彰人さん」


 この日は、由美の家に原が泊まりにきた。

 病院からいつ急変したと連絡があるか分からないから、熟睡はできなかったけれど、一人じゃないという安心で少しだけ眠れた。

 

 翌日。

 病院から母が目覚めたと連絡が入った。

 由美のことが心配だからと原は仕事を休んでくれて、一緒に病院へ向かった。

 けれど、面会には人数制限と時間制限があり、病室には入れない。


「お母さん!」


 由美は、ベッドに横たわる母に走り寄る。


「由美……なんか、ごめんね」


 母の謝罪に首を横に振る。


「生きててくれて、本当によかったよぅ……」

「泣かないで。まだ動けないけど、お母さんは大丈夫よ」

「もう無理しちゃダメなんだからね」

「そうねぇ。さすがに今回は驚いたから、もう無理はしないわ」


 母は働きすぎていた。原因がそれとは限らないけれど、体を酷使していたのは間違いない。


「お母さん、何か必要なものとかある?」

「今のところは大丈夫よ。由美が準備してくれたのよね。ありがとう」

「実は、彰人さんが準備してくれたの」

「……あ、そう」


 母は小さく頷いて、目を閉じた。


「ごめん、まだ体が辛いよね。ゆっくり休んでね」


 面会時間が終わり、由美は病室を出る。

 母は怒りを見せる様子はなかったけれど、原のことをどう思っているのだろう。


「お母さん、どうだった?」

「ちゃんと会話はできたけど、やっぱりまだ辛そうだった……」

「そっか。これからの経過観察で何の問題もなければいいね」

「うん……」


 結果として、母の左半身に少しだけ麻痺が残るようだった。

 発見が早かったおかげで、まったく動かなくなるわけではないが、リハビリをしなければ固まっていくという。

 歩けるようになるまでは、基本的な移動は車椅子になる。


(ずっと仕事を休むわけにもいかないよね……)


 入院手続きや保険の手続きなどもあり、ここ数日ゆうらに行けていない。

 何をどうすればいいのか、由美が分からないことについては原が助言してくれる。

 明日からは出勤するつもりだが、母が退院した後はどうすればいいのだろう。

 車椅子生活の母を家において、一人で働きに出るなんてできない。

 しかし、働かなければ生活費も医療費も払っていけない。

 母の貯金もある程度はあるが、今回の手術や入院で高額な医療費がかかっている。保険に入っていたけれど、申請後すぐにお金がおりてくるわけではないし、全額出るかはわからない。介護も必要になってくるだろうし、毎日ヘルパーを頼むわけにもいかないだろう。

 これからの働き方について、由美は頭を悩ませていた。


「ゆうらを辞めて、在宅ワークを探した方がいいのかな……」


 夜ご飯を食べながら、仕事のことについて原に相談する。

 最近は、由美を一人にしないために原が夜家に寄って夜ご飯を一緒に食べるようになっていた。

 今晩は、豚肉の生姜焼きだ。由美の手料理が食べられることに原は感激していた。


「由美ちゃんは、本当にそれでいいの? 自分のお店を持つのが夢だったんでしょう」

「でも、お母さんに何かあったときにすぐに駆けつけられる仕事なんて他にないでしょ」

「由美ちゃんのケーキは本当に美味しいし、幸せな気持ちにしてくれる。僕は夢を諦めてほしくない。今は、こういう方法だってある」


 原が見せてくれたのは、通販サイトや自宅開業などの情報だった。

 由美の夢のために、原はいろいろな方法を探してくれていたのだ。

 ゆうらのような店舗は無理でも、工夫次第で自分の店が持てるかもしれない。

 それも、介護が必要になる母を一人にしなくてすむ方法で。


「他にも、僕にできることがあるならなんでも協力するから。ずっと独身だったから、貯金はあるし、由美ちゃんが開店準備をしている間、支援だってできる。由美ちゃんが家を空ける時、お母さんのことが心配だったら、僕が傍にいる。お母さんには嫌がられるかもしれないけど」

「……彰人さん、そこまで考えてくれていたの?」


 自分よりも自分のことや家族を一生懸命考えてくれた原に、胸を打たれる。


「由美ちゃんの夢は、僕の夢でもあるからね」

「私に……できるかな」

「由美ちゃんなら、できるよ」


 自信満々にうなずいてくれた原に、好きの気持ちがあふれてくる。

 もう好きという気持ちが分からなかったあの頃の自分とは違う。


「ありがとう、彰人さん――大好きだよ」


 付き合って半年で、初めて原に好きだとはっきり伝えた。

 言われるのは慣れてきたのに、言葉にすることに少し緊張した。

 でも、言葉にすることで、より好きという気持ちが増した。

 由美に好きだと伝える原はいつもこんな気持ちなのだろうか。

 

「由美ちゃん……本当に? 僕のこと?」

「うん。好きだよ」

「うっ、かわいい……今すぐ結婚したい」

「そのためにも、まずはお母さんに元気になってもらわなきゃ!」


 母が病気で倒れて、これからのことを考えると暗い気持ちになっていたが、原のおかげで前向きになれた。

 結婚について否定しなかったことで原は驚いていたが、もし結婚するなら原以外考えられない。

 こんな風に思えるようになったのは、原が一途に由美を思ってくれたおかげだ。

 母ごと由美を愛してくれる、そんな人は他にいないだろう。

 出会えてよかった。好きになってもらえてよかった。傍にいてほしい。大好き。

 原への思いはどんどん増えていく。

 何があっても、彼と一緒なら大丈夫。

 だから、もう将来を不安に思うのはやめることにした。 

 



 

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