06 母との衝突

 母親に彼氏を紹介する、というイベントは普通に恋をしてきた人たちにとっては何の問題もないことなのだろう。

 高校時代、友人は彼氏ができる度に母に報告していたし、彼氏を家に呼んでいた子もいた。その上、恋愛相談を母親にしていた子までいた。

 しかし、これまで恋愛など意味がない、男は信用するなと聞かされてきた由美にとって、彼氏を紹介するということは母の教えに背く行為だ。

 彼氏ができたという話も、怖くてずっとできなかった。


(今日はお母さんの仕事は休みだから、ゆっくり話ができるはず……)


 バリバリ働いている母の休みの日は貴重だ。

 ゆうらの定休日と母の休みがかぶっている今日こそ、原の話をしなければならない。


「お母さん、ちょっといい?」


 ソファでくつろいでいる母に、勇気を出して声をかける。


「どうしたの?」


 母の隣に座り、由美は深呼吸して口を開く。


「実はね……彼氏ができたんだ」


 この一言を口にするだけで全身に力が入り、喉がカラカラになる。

 ぎゅっと拳を握り、母の反応を待つ。


「……はぁ」


 母から返ってきた第一声は大きなため息だった。


「あのね、由美。馬鹿なことはしないで」


 淡々とした声で、母は由美に言い聞かせるように言う。

 真剣に自分を想ってくれている原のことを思い出して、由美は悲しくなる。


「恋愛って……人に好きになってもらうことって、そんなに馬鹿なことなの?」

「お母さんは、由美に傷ついてほしくないだけよ。相手を本気で好きになってしまったら終わりなの」

「そんなことない! お母さんも、彰人さんに会えば分かるよ」


 思わず強く言い返してしまい、ハッとする。

 幼い頃からどんなことがあったのかを聞いていたから、母の気持ちも分かるのだ。

 だから、落ち着いて話をして分かってもらいたいと思っていたのに。


「由美を騙した相手になんて会いたくないわ。由美も、もう会ってはダメよ。別れなさい」

「……彰人さんがどんな人かも分からないのに、そういう風に言わないで」

「じゃあ聞くけど、年齢は? お仕事は何をされている人?」

「二十九歳で、大学で事務をされている方で、すごく誠実で優しい人なの。私のことをすごく大切に想ってくれて――」

「そんなことだろうと思ったわ」

「どういうこと?」

「今は由美が若くてかわいいから夢中になっているんでしょうけど、数年もすればまた若い子に目移りするに決まっているわ。それも、職場が大学なんでしょう? 若い女子学生と出会い放題じゃない。言葉でならいくらでもきれいごとを言えるもの」

「なにそれ……ひどすぎる」


 原がどれだけ由美を大切に想ってくれているか。

 愛情を向けてくれているのか。

 一緒にいる時間が増えた今なら、わかる。


「もういい! お母さんに認めてもらえなくても、彰人さんとの付き合いは続けるし、いつかは結婚するつもりだから」


 衝動的に立ち上がり、由美はリビングから出ていこうとする。


「由美! 結婚に夢や幸せなんてないのよ! お母さんの苦労を知っているでしょう!?」


 背後から母の声が聞こえていたが、これ以上言い合っても平行線だ。

 由美はバタンと扉を閉め、家を出た。


(どうして分かってくれないの……!?)


 伝わらないもどかしさに苛立ちが募る。

 女手一つで育ててくれて、無償の愛を注いでくれた。大好きな母だからこそ、認めてほしいという気持ちがあった。


(お母さんに分かってもらうなんて、無理なのかな……)


 家を飛び出したときは怒りが勝っていたけれど、一人になって落ち着いてきたら悲しみの方が強くなってきた。

 泣きそうになって、無意識に原に電話をかけていた。


「あ、いけない」


 彼は今仕事中だった、と慌てて通話を切ろうとした――が、「もしもし」と答えが返ってきた。


『由美ちゃん? 何かあったんですか?』


 前触れもなく由美から電話をかけたのはこれが初めてだった。

 仕事中にも関わらず、由美からの電話に出てくれたのだ。

 優しい原の声を聞くと、我慢していた涙があふれてきた。


「ごめんなさい……彰人さんのこと、やっぱりお母さんに認めてもらえそうになくて……っ」


 母に会ってほしいと自分で言っておきながら、母を説得することもできなかった。


『泣かないでください。由美ちゃんもお母さんも何も悪くないです。急に僕みたいな男が現れたら、お母さんも心配になりますよ。由美ちゃんのことが可愛くて仕方ないからこそです。僕はずっと一緒にいたいと思っていますから、時間はあります。またゆっくり考えましょう』

「うん……ありがとう」


 今すぐ認めてもらう必要はないんだ。

 原の言葉で、だんだんと気持ちが落ち着いていく。


『今日、仕事が終わったら由美ちゃんに会いに行ってもいいですか?』

「はい。私も、彰人さんに会いたいです」

『定時で上がって超特急で向かいますね!』


 どんな表情をしているのか、電話越しにも分かる気がした。

 本当にこの人は由美のことが好きすぎる。

 母にも分かってほしい。


(彰人さんは、こんなにも私を安心させてくれる優しい人なんだよ)


 電話を切ったあと、しばらく家の周辺をぶらぶらとこれからのことを考えながら歩いていた。

 そして、母に認めてもらうには、由美が原と一緒にいて幸せでいることが一番の説得材料になるのではないかという結論に至った。


「ゆっくり、大丈夫だって信じてもらおう」


 この日の夜は、宣言通り定時で上がり、会いにきてくれた原と夜ご飯を食べに行った。

 そこで、母が男性をどう見ているのか、父がどんな人だったのか話をした。

 もしこの話を聞いて難色を示すようなら、ずっと一緒にはいられない。

 自分でも我儘だと思うが、由美と同じように母のことも大切にしてくれる人でなければ嫌だと思ったのだ。

 いくら母の思考が偏っているとはいえ、由美のたった一人の母親だから。


「由美ちゃんのお母さんは、本当にすごい人です。由美ちゃんがこんなに心が優しくて、笑顔が素敵な人なのは、きっとお母さんのおかげですよね。僕は、由美ちゃんが大好きだから、何を言われても大丈夫です。お母さんに由美ちゃんとの交際を認めてもらえるよう、頑張ります!」


 原は機嫌を悪くすることもなく、笑顔でそう言ってくれた。

 原ならそう言ってくれると信じていた。

 母に認めてもらえたら、なんか後ろめたさもなく原と付き合える。

 将来のことは、それから考えればいい。

 原は由美と付き合えなければ一生独身のつもりだったから、結婚を急いではいないと話してくれた。

 タイミングはすべて由美に合わせる、と。


「由美ちゃんの夢であるお店を出すことも応援したいし、僕とのことは後回しにしてくれても大丈夫ですから」

「ありがとう、彰人さん」


 お礼を口にすると、原が固まってしまった。


「あ……敬語」


 自然と敬語がとれていた。名前呼びの効果もあってか、原をときめかせてしまったらしい。


「なんだか、心を開いてもらえたみたいで嬉しいです」

「みたい、じゃなくて、彰人さんには心を開いてるつもりだよ。だから、もう敬語やめよう。本当はもっと早く言うつもりだったんだけど……」


 以前から言うタイミングを逃していたことをようやく言えた。


「わ、分かりま……ワカッタ。敬語ヤメル」

「ちょっと、めちゃくちゃカタコトになってるよ……ふふ」


 なんだかおかしくて、由美は笑いが止まらなくなる。

 そんな由美を見て、原も笑みを浮かべた。


「しょうがないよ。由美ちゃんが可愛すぎるから……」


 愛おしそうに見つめられて、愛されていると感じる。


「だから、由美ちゃんは僕には何を言ってもいいんだよ。困ったことがあったら頼ってほしいし、ストレスをぶつけてくれてもいい。僕は由美ちゃんに笑顔でいてほしいから、そのためならなんでもするよ」


 原の言葉は本気だ。

 母の言う言葉だけの人ではない。

 だから、時間はかかるかもしれないけれど、きっと認めてもらえるはずだ。

 そう、信じていた。


 ――母が病気で倒れるまでは。

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