(3)
私たちは時々、博物館の外へ出掛けるようになった。ごく普通の遊び場へ。よくあるハンバーガーショップ、古びたボウリング場、ゲームセンター。
ある日のカラオケルームで、洋一は申し訳なさそうに口を開いた。
「……円香さん、俺といて退屈じゃない?」
私は驚いて息を飲んだ。彼と出会ってから、私たちが一緒にいるのは当たり前のことだ。楽しいとかつまらないとか、そんなのは一度も考えたことがなかった。
「普通に楽しいよ? 洋一君は平気? 私といて飽きない?」
「あー……。うん、飽きないよ。楽しい」
「じゃあ、一緒だね。よかった!」
洋一は安心したようにふやけた笑みを浮かべる。
その時、私のスマートフォンにメッセージが届いた。母のアイコンが、『結婚式の打ち合わせが長引いてるので、晩御飯は外で食べます』と告げる。
「……浮かれてる」
「どうしたの」
私はスマートフォンの画面を洋一に見せた。
「お母さん、再婚するの。もうすぐ新しいお父さんがうちに来る」
「それはー……。おめでたくは、ないね」
大きなテレビの中で、アイドルが気の早いクリスマスソングを歌っている。どこかの部屋からの音漏れが響く。大音量の沈黙の中で頷くと、制服のスカートから覗く膝小僧に涙が落ちた。父が一般的成人男性に選ばれてからずっと、おめでたいことなんか一つもなかった。
「なんでみんな、さっさと諦めて新しい家族を作ろうとするの? 私、変なのかな。邪魔者なのかな。……家に帰らなくていいなら、帰りたくないよ」
洋一は私を抱き締めないし、頭を撫でたり手を握ったりもしない。ただ隣に座ったまま、ぽつりと言った。
「俺たち、似てるね」
「似てる? なんで? きょうだいだから?」
「外はこんなに広いのに、独りぼっちになっちゃってさ」
自分の膝小僧の隣に、制服のボトムに包まれた両足が見える。洋一の手が見える。その手がこちらに伸びて来ないのは、きっと私たちがきょうだいでも何でもないからだ。
「……箱の中は、寂しくなかった?」
「うん。平気だった」
「洋一君と二人で、箱の中に行けたらいいのに。そしたら、寂しいなんて思わないで済むよね。外のことは、全部忘れちゃえばいいでしょ?」
彼の指先が跳ねる。思わず顔を上げると、涙で歪んだ視界の中で洋一が目を丸くしてこちらを見ていた。ヘッドライトに照らされる鹿がぽかんとしているみたいに。いきなり現れた死神に度肝を抜かれた人間みたいに。
「……相手が俺じゃきっとつまんないよ。箱から追い出された、ただの一般的男子高校生だし」
「それでも、洋一君は一人しかいないよ」
洋一は困ったように微笑んで、私の頬に流れる涙をペーパーナプキンでそっと拭った。
「今日、俺んちで夕飯食おうよ」
「え……。いいの?」
「うん。今日、一人なんだよね。泊めてはあげられないけど、俺が飯作るからさ」
近くで見る洋一の瞳は、私を映してきらきら輝いている。
私の家に似ていて違う、どこにでもある家族の生活。洋一の家の玄関で靴を脱ぎ、洗面台で手を洗い、リビングに置かれたテーブルの席に着く。
「もう腹減ってる?」
洋一が麦茶を出しながら聞いて来た。私が頷けば、彼は安心したらしく表情を和らげる。テレビは黙り込み、カラオケ帰りの私たちの間には無音ばかりがひしめく。
慣れた様子で洋一は食材を準備して、冷蔵庫と調理台の間で行ったり来たり。ここから洋一の手元は見えない。フライパンの上で油が跳ねる音、卵の殻が割れる音、ハムが焼けるごま油の香り、冷ご飯がかき混ぜられる音……。
何を作っているのかは見なくてもわかった。何もかもが懐かしい。目を閉じれば、私の家で父が料理しているような気がした。暗闇の中にいる母は、まだ新しい恋人には出会っていない。父はまだ誰にも『一般的成人男性〈父〉』なんて呼ばれない。私は博物館の年間パスポートを持っていなくて、洋一のことも知らない。
「眠い?」
「お父さ……」
柔らかな香りが鼻をくすぐるのと同時に、彼の声がした。それは確かに洋一の声だった。私の口から零れ落ちた言葉は、洋一の耳に届いたらしい。彼は困ったようにふやけた笑みを浮かべる。箱の外で父の面影を残すのは、彼だけだ。
「俺、そんなに〈父さん〉に似てる?」
テーブルの上には、見覚えのある炒飯。彼の機嫌も天気も関係なく、米はパラパラで、卵は黄金に輝いていた。私たちは向かい合わせの席に座って、二人以外が全て消えてしまった静寂の中、炒飯を口に運んだ。
鳥肌が舌先から体中を駆け巡る。鼻を抜けて行くごま油とハムの香り、噛めば噛むほど存在感を増すネギ、柔らかな卵の舌触り、パラパラと散る米。私の脳みそは痺れ、言葉は全部爆ぜて消えた。
「どう? 結構上手くできたと思うんだけど」
無邪気な洋一の笑顔が平たく見える。彼はまだ硝子の向こうにいる。まぶしく輝く真っ白な光の中。常に誰かに見られているのに、視線も声も自分の名前さえも無視できる箱の中。誰かが創った普通の家族と、ただ生まれ出たよくある命。私はしばらく途方に暮れて、それから必死に意識を取り戻す。
「お、美味しいよ! お父さんの炒飯そっくり。洋一君、料理得意なの?」
「違う違う。これ見て練習してたから」
洋一はポケットからスマートフォンを取り出した。表示されている書類の一番上には、こう書かれていた。
『〇年〇月〇日 調理工程及び消費食材分量記録 作業者 一般的成人男性〈父〉』
淡々と残る記録は、父が夕食を作る光景を語っていた。父が冷蔵庫を何回開けてその度に何を取り出したのか。何を何回包丁で切り、何回かき混ぜ、フライパンで何秒間炒めたのか。『塩コショウ少々』なんて曖昧な記載はない。
「こういうの……、毎回記録されてたの?」
「そうだよ。俺らは普通に生活してるだけなんだけどね。身長体重も計測されてるし、飲み食いも読んだ本も寝言も全部記録が残ってる」
「そ……、そんな場所で子どもができたの? 本当に、あの二人の子どもなの?」
「DNA鑑定では間違いないらしいよ」
箱に思いを馳せる洋一の表情は白く華やいでいた。いつも物憂げで心ここに有らずで、どこかへ飛んで行ってしまいそうなのに。こんな時ばかりは、期待を込めて私を見る。誰の面影を探しているのかは、聞かなくたって嫌でもわかる。
「疑ってる? 俺、嘘は言ってないよ?」
「疑ってるって言うかー……」
やっと私は気が付いた。洋一は面影なんかじゃなく、彼の〈父〉そのものだ。真っ白な箱の中でお互いだけを見て生きる、水のように透き通った形のない一般的【 】。彼らは器に合わせて形が変わる。例えば〈息子〉に、例えば父の張りぼてに。特別ではない何かに。
「記録のおかげで、俺にも〈父さん〉の炒飯が作れたんだ。これさえあれば、多少の寂しさは紛れるよ」
だからこの紙の上には、一番大事な調味料のことだけが書かれていない。
電車内の液晶で、週刊誌の広告で、誰かが読んでいる新聞で活字が騒ぐ。
『国際的人権保護団体、「一般的国民生体展示」の世界的流行に苦言』
『日本の若年層、「一般的核家族生体展示」を支持。注目度と生活の安定を理由に「自分も展示されたい」が過半数に達する』
『出生率向上のための「一般的核家族生体展示」活用について、政府が有識者会議を開催』
きっと、テレビの中で賢そうな誰かが言うだろう。
「これは非常に難しい問題です。今後も議論を続ける必要があります」
見物客がいない展示室で、私と洋一は白く輝く箱を眺める。〈娘〉は体重が増えたらしく、〈父〉は彼女を抱える時「よいしょ」と口を動かしていた。〈母〉が二人に声をかけ、三人は食卓の席に着く。箱の中には本物の家族がいた。ごく普通のありふれた、特別な一般的核家族。
「あの子、俺の〈妹〉ってことになるのかな」
「うーん……。違うんじゃない? 私たちも、きょうだいじゃないし」
展示室に置かれたベンチの真ん中に座り、私と洋一は手を繋ぐ。もし今この瞬間の彼の体温を、脈拍を、声を、体重を、誰かが記録していたら。その文字面だけを眺めて、未来の私は寂しさを紛らわせることができるんだろうか。それが、たった一つしかない特別な、ごく普通でありふれたものだとしても。
「俺たち、箱の中に行けるかな」
洋一の横顔が白い光に照らされる。彼の瞳がゆらゆら揺れて、世界中のどこを探しても見つからない宝石みたいに輝いていた。
私は、返事をしなかった。
硝子の向こうで、〈父〉が〈母〉に抱かれた〈娘〉の頬を撫でる。〈母〉はもうポテトチップスを食べない。〈父〉はもう、箱の外に思いを馳せない。普通はそうだ。目の前にいなければいてもいなくても同じ。たとえ、こちらからは彼らの姿が見えていたとしても。
ノアの方舟にしては真っ白過ぎるまぶしい箱を、私たちは今日も黙って見つめている。
一般的核家族生体展示 矢向 亜紀 @Aki_Yamukai
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